いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(123)「信仰によって生きる」

2014年01月31日 | 聖書からのメッセージ
 ヘブル人への手紙10章32節から39節までを朗読。

 38節に「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。
 36節には「必要なのは、忍耐である」とありますが、信仰は、忍耐でもあります。神様の約束の言葉を、聖書の言葉を信じて、神様の業、結果が現れてくるのを待つわけです。ところが、忍耐といいますか、待つということができにくい。普段の生活でも、何かちょっとしたことを待つとき、人を待つときなどもそうですけれども、少しでも遅れるならば、随分長く待たされたと思います。

 私は家内と待ち合わせをしてショッピングのお付き合いをしますが、大抵家内は五分、十分早めに来る。私は時間通りにピタッとその時間に行けばいいと思っている。そうしますと、家内から「遅い」と言われます。遅いといっても、時計を見ると約束の時間ぴったりです。なぜ遅いかと言うと、自分が来たときよりも遅いわけです。それでどのくらい待ったかと思うと、そんなに長く待つわけではない。三分、五分ですね。五分となると随分長く待つように思います。

いつもそのように慌てるというか、常に焦(あせ)る思いがある。だから、待てない。金生家の子供たちもそうですが、おやつを食べようと置いていると、もうちゃんといすに座って待っています。お皿に入るとパッと食べようとしますから「待ちなさい!」と叱られる。ところが、なかなか待てない。三人もいますと、「待ちなさい!」と一人に言うと、こちらの子が待てない。そっちに「待ちなさい!」と言うと、こちらから手が出る。私どもも神様の前にいろいろな事が待てないのです。

信仰は忍耐です。この35節に「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである」。ここに「確信」とありますが、これは信仰と読み替えても間違いはないと思います。私たちが持っている確信、「きっとこうしてくださるに違いない。神様はそのことについてちゃんと約束をしてくださった。大丈夫です!」と信じきるといいのですが、どうも焦る。よく皆さんから言われますが、殊に家族の救いを願います。これは当然のことでしょう。自分自身が救われて、本当に幸いですから、何とかこれを家族の者に、子供たちに、あるいは孫たちにも持ってもらいたい、と思います。そうしますと、一生懸命に熱心に「何とか家族を信じさせてやろう」とします。ところが、これはなかなか難しい。神様を信じるというのは、人の力で信じさせることはできない。どんなに説得して、何時間もかかって、疑問の余地のないくらいに理路整然と説明し尽くしても、信じるかと言いますと、そうはならない。信じることは、知ることとも理解することとも違います。だから、なかなか信じることにはいかない。そうなると、焦るのです。早くしてもらわないと、私のほうがぼけるかもしれないと。そう言って「何とか……」と願う。ところが、聖書には「救いは主のものである」とあります。救いは神様のなさる業だと、人間の業ではない。ここは私たちがいつも心しなければならない事です。ところが、ついそれを忘れ、また焦る。早く何とか、この子供に、この孫に、この家族のものに何とか信じてほしい。そう思って一生懸命になります。やればやる程、相手はどんどんそっぽを向いて離れていく。しかし、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)とのみことばがあります。私達はこの言葉でどれほど望みを与えられ、慰められているか分かりません。それは分かっているのですが、「私はイエス様を信じて救われているのだけれども、どうも家族が……」と、自分の責任だと思っている。時に、「先生、先に救われた者の責任として、家族を救いに導かなければならないのではないでしょうか」と言われる。そのとき「あなたが救うことができるのだったら、救ってみたらどうですか」と言う。私どもにはできないのです。よく考えてみますと、自分が救われたことを振り返ってみるとき、誰かから説得された、あるいは誰かから導かれたからではない。もっとも教会に導かれたことも、導いてくれた人がいたり、事件や事柄があったことは確かですが、ではその人によって救われたのか、というと、そうではないでしょう。確かに「前田教会に行ってみない?」と誘われた。そのときは好奇心旺盛で、「キリスト教ってどんなものか、教会ってなんだろうか、ちょっと見てやろう」というくらいで、来られたかもしれない。ところが、教会にきていると、ハッと心に教えられることがあり、そして、ここに何かあると思って、自分から求め始める。人からどうこうされたわけではない。

だからスカルという村の井戸の所で、弟子たちがお昼の食事を買いに行き、イエス様一人がおられたときに、女の人が水をくみに来た。その人はイエス様と問答をしながら、だんだんとイエス様のことを信じるようになっていきました。ついにその人は、村へ戻って「みんな、来てご覧なさい。私のことを何もかも知っている方がいらっしゃった」と言って、みんなを呼んできたのです。そしてイエス様のお話を聞いた。そうしたら、みんな信じる者になった。そのときに集まった人たちは、「あなたが言ってくれたから信じたのではなくて、私は直接イエス様に触れて信じることができた」と語っています。

誰かから誘われた、きっかけがあった。しかし、その人が救いに導いてくれたとは言えない。確かにきっかけではあるけれども、ちゃんとそこに神様が働いてくださった。直接イエス様に触れて、神様の御愛と恵みを、確かにその通りと信じたとき、私たちは救いにあずかったのです。私たちはそれを忘れる。忘れていて、家族に向かって「よし、ひとつ私が頑張ってやろう」と。これは全くおかしな話です。だから、自分のような者が救われたのだから、ましてや家族が救われないはずがない。神様がなさるならば、どのようなことでもしてくださる。神様は全てを知っている。そこを信じるかどうかです。信仰とはそこです。だから、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」と言葉が与えられて、まず自分が救われることです。私は救われていると思っていますが、確かに神様の救いにあずかっているけれども、しょっちゅう信仰と不信仰の間を行ったり来たりしている。だから、自分が本当に救われているのか、まず自分自身の信仰を常に堅くしておく。「自分の救の達成に努めなさい」(ピリピ2:12)と聖書は語っています。他人様の信仰ではなくて、自分の信仰です。人にばかりにおせっかいをして、自分は信仰がないというのは困ります。だから「主イエスを信じる」のは、誰でもない、自分が信じるのです。私が本当に信じて、ただ一生懸命に神様に向かって感謝し、喜び、そして望みを持って生きる。そうしているうちに家族の者が救われる。これは神様の約束です。ところが、その約束が、見えるところで、なかなか具体化しそうにない。こんなに熱心に教会に通っているのに、家族はちっとも関心を示してくれない。一言くらい「今日はどんな話だった? 」と聞いてくれたら、少しは望みがありそうに思うが、うんともすんとも言わない。そうすると「駄目かな。いくら私が信じていても、神様は救ってくれないのか。やはり私の努力が足りない」と言って、また家族に向かって一言二言嫌味を言い始める。そうしますと問題が、ますますややこしくなってくる。私たちは何がいけないか?

ここ35節に「あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない」。私どもは確信を放棄する。確信といいますのは、御言葉を信じる心を失っていく。「あなたもあなたの家族も救われます」と約束されている。「はい、信じます」と徹底して、それを信じ続けていく。「その確信には大きな報いが伴っている」。必ずそこには結果が伴うのだ、と約束されています。

一人の姉妹がおられて、一生懸命に自分の家族の救いのことを願っています。姉妹には、長男と二人の娘さんがいらっしゃるのです。その子供さんたちが、まだ中学生、高校生、大学生くらいのとき、お母さんに付いて熱心に教会に来ていた。ところが、社会人になってだんだんと教会を離れて、お母さん独りで一生懸命に励んでいるけれども、子供たちは一向に見向きもしない。やがて結婚して家庭を持ち、ばらばらになった。そのような状態だったのです。お母さんは、そのことを気になさって、何とか家族が救われたら、かつては、あのように家族みんなで教会に来ていたのに、「何とか、先生、お祈りをしてください」と言われる。その姉妹も熱心に祈っている。「大丈夫、神様は約束してくださいますから、信じていきましょう」、「その結果はいつ出るのでしょうか」と。「いや、それは分からない。神様の中にあることです。しかし神様はちゃんと時を備えて、導いてくださるから、大丈夫。信じていきましょう」と言いました。そうしたら、姉妹が「何とか、私の目の黒いうちに結果を見せてもらいたい」。「目の黒いうち」と言ったって、あと何年? 一年、二年、五年、どうなるかそれは分からない。でも聖書には「信仰をいだいて死んだ」とあります。

ヘブル人への手紙11章13節を朗読。

13節に「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ」。そして「約束のものは受けていなかったが」、まだその結果を見なかった。見ないけれども「信仰をいだいて」この地上の生涯を終わった。その姉妹にも「聖書にこのように書いてあるでしょう。だから安心して天国に帰られたらいいですよ」と言った。そうしますと「あら、私が見ないままで終わるのですか。ちょっとそれは残念です」と言われた。なるほど、そうかな。自分本位で、自分の立場から言うと、そのような思いになる。しかし、救いにあずかる、と言うのは、神様の問題なのです。家族がイエス様を信じて、この救いにあずかってほしいと願う。その願いをズーッと探ってみると、私も幸せだからこの子たちも幸せになってほしいということもありますが、そればかりでなくて、私がこの子達を導かなければいけない。この子達の責任は私が握っている、と思っている。

救いにあずかるとは、神様とその人との関係です。親と子供との関係ではなくて、神様とその子供たち一人一人との関係。これが作り出されることが救いです。ところが、親と子、あるいは夫婦という関係の中で、信仰を何とかしようとするから、話が全然違う。そこをしっかりと知っておいていただきたい。一生懸命に主人のために、奥さんのために、あるいは子供たちのために、この子達が救いにあずかるように、努力して頑張ってと思うとき、私と主人、私と家内、私と子供たち、という関係の中で、救いを得ようとする。救いはあくまでも、神様と私、また神様と子供、神様と家内の関係でのことです。だから聖書の中に「ひとりは取り去られ、ひとりは取り残される」(マタイ24:40)とあるように、神様の前に立つのは一人一人です。どんなに仲のよい夫婦であっても、神様に問われるのは一人一人なのです。これは厳しいことです。といって、あいまいにできることではありません。だから、家族の救いだとか、あるいは多くの人々の救いのために、何かしてやろうということ自体が、おこがましい。それは神様の領域に、私たちが踏み込んでいく。私たちにできるのは、祈りをもって執り成す、神様の憐れみを求める以外にない。「神様、どうぞ早くあの方を救ってあげてください」、そう祈る以外にありません。私が祈っているのに一向に変化がない。何か私が責任を問われているような、私が怠慢でこのようになってしまったと思っている人がいるならば、それはあまりにも高慢です。私たちは、人を救うことも助けることもできないのです。

もう一度、初めの10章35節に「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである」。私たちが今与えられている信仰、イエス様が私たちの命となって、十字架に死んで、私たちの罪を赦して、そしてよみがえってくださった主が、私と共にいて地上の生涯を導き、やがて神の御国に置いてくださる。この約束を信じて生きている。私だけが天国に行くなんて……。時にそのように言われます。

ある方が「家族が救われないと、私が先に天国に行くわけには行きません」「どうして?」「いや、私だけ天国に入って家族が地獄だと思うと、それだけでもたまらないから、他の家族が地獄に行くのだったら、私も一緒に地獄に行きます」と言われて、私はびっくりしました。「どうして地獄へ行くと決まっているの? 」「いや、まだ救われていません」「これから神様が救いなさるから」「いや、それでも私だけが行くのは申し訳ない」「そんなに行きたくないのだったら、地獄へどうぞ」と、言ったことがあります。私どもは、すぐに「私だけが救われては申し訳ない」と言う。そうではない。私たちは本来滅びて当然、救われるべき者ではないのです。失われた者を、あえて神様は憐れんで、救って下さった。だから、私の救いも誇るべきものは何もない。ただ主の一方的な憐れみと召しがあってのことです。そして、こんな私を救ってくださった神様が、皆さんよりもはるかに優れた家族を救わないはずがない。それを信じるかどうか、これが私たちの信仰です。そして、約束の言葉が具体化する時がある。そのことを信じて待ち望んでいく。

36節に「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である」と。私たちがその結果を受けるために信じて待ち望んでいく。待ち望むことです。これは絶対に欠かすことのできない信仰生活の基本です。「いつまでも待てばいい、死ぬまで?」 いや死んだ先も待つのです。待ち続けるのです。神様がその時を定めている。忍耐といっても、ただじっと我慢するのではなくて、神様を信頼して、そこに安んじて待つのです。決して苦しみながら、かつてのテレビドラマの「おしん」のように、ただ忍耐、忍耐というのではなく、神様の約束を信じて、喜んで待つのです。ところが、待っているのが苦しい。聖書にそのように約束されて、信じているのだけれども、事は一向に進まない。どうしてだろうか、どうしてだろうか、いらいらカッカします。そのような時は、私たちの信仰が違った形になっている。信仰に立っての忍耐は、決して焦ることはない。またあれこれ思い煩う必要はない。必ずその時が来るからです。だから37節にハバクク書の言葉が記されていますが、「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない」。「遅くあらば待つべし」と「濡滞(とどこほ)りはせじ」(ハバクク2:3b)と記されています。大丈夫、滞ることはない。言い換えますと、ストップすることはありません、と約束されている。必ず来ると。

 ルカによる福音書1章19,20節を朗読。

 これはイエス様の御降誕に先立つ出来事ですが、ザカリヤという祭司、その奥さんエリサベツとの間には子供がいませんでした。そしてザカリヤはもう老人になっていました。あるときザカリヤが神殿で、神様の前に香をたく務めをしていました。そのときに御使いが現れて、ザカリヤに「あなたの妻、エリサベツが男の子を産むでしょう」と約束をしました。そのときザカリヤは、18節に「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と。そんな馬鹿な、二人とも年を取っていて、子供が与えられるなんて、そんなことはあり得ないと思っていた。御使いが20節に「時が来れば成就するわたしの言葉」と語っています。神様の約束の言葉は、必ず実行されるのだよ。ただ、その時は神様の中にある。私たちが決めるわけにはいかない。何月何日、それは神様がなさる。しかし待ちなさい、必ずそのように成就する、実現するのだからとおっしゃいます。これは大切なことです。聖書の言葉をたくさんいただきます。約束の言葉です。み言葉によって慰められ、望みを与えられ、そして聞いたみ言葉を「きっとそのようになるに違いない」と信じますが、すぐ焦る。「まだだろうか」「もう少し? 」「いつまで待てばいいのか」「いつになったらなるのだろうか」。そうではなくて、「主が約束してくださったのですから大丈夫です」と、そこに徹底して信頼することです。それがいつであるかと問わない。神様がなさる。しかし必ず実現するのだ、実行される。だから20節に「時が来れば」と。その時は、神様が握っている。「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」(伝道3:1)とおっしゃいます。いつも神様が備えてくださる時を待つことが忍耐です。その時がいつであるのか、私たちは分かりません。しかし主が必ずそれをしてくださる。よみがえってくださったイエス様を信頼して、目の前の一歩一歩を、日々に御言葉に信頼して歩んでいくとき、やがて時がくると、成就する。

農家の人が作物を育てるとき、収穫をする時が決まっています。決して急いでということはできません。だから、農業をする方は、本当に忍耐強いと思う。一年に一度の収穫。稲を育てて、やがて秋口に収穫をしますが、それまで肥料をやったり、雑草を抜いたり、さまざまな手入れをし、雨風の中をあるいは暑い日盛りの中を耐え忍んで、育てていきます。なぜそんな忍耐や苦労を引き受けることができるのでしょうか。それは、必ずくる収穫の喜びを知っているからです。きっと秋になったら、収穫の時がくることを知っているから耐えられるのです。もしそれを知らなかったら、どうなるのか。分からなかったら、炎天下に草取りをしたり、肥料を入れたり、さまざまな手入れをするという、そんな努力はしません。しかしやがてくる収穫のとき、結果が現れることを知っていますから、忍耐強くそれを続けていく。だから、そのような農業に携わる方は、大変忍耐強いと思います。収穫目前にして台風にあってなぎ倒されたら、一年の労苦は水の泡です。次の収穫は一年先です。神様の手の中に自分を委ねていかなければ耐え忍ぶことができません。

だから20節に「時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから」。ザカリヤは「そんな馬鹿な、いくら神様でもそんなことはできるわけはない」と思った。その途端に「あなたは口がきけなくなり、この事の起る日まで、ものが言えなくなる」。話すことができなくなってしまった。やがて妻エリサベツが身ごもって男の子を産むときがきました。そのとき初めてザカリヤの口が開いて、「神様は本当に素晴らしい方だ」と、神様を賛美し、褒めたたえる者になったのです。

ルカによる福音書1章43節から45節までを朗読。

45節に「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じる」とあります。これが信仰です。神様が約束してくださった、神様がそのようにおっしゃった。そのことを信じて、必ずそのようになると信じた。マリヤはそうだったのです。「神には、なんでもできないことはありません」と言われて、初めて「わたしは主のはしためです」と、神様に自分をささげた。それは取りも直さず、神様のお言葉は必ずなると信じて、神様の御業に自分を委ねた。そうしたとき、マリヤは逆に大きな安心と喜びと望みに輝いたのです。そしてザカリヤの所へ訪ねて行きまして、そしてこの素晴らしい交わりを与えられた。

エリサベツが45節に「主のお語りになったことが必ず成就する」と言っています。これはクリスマスの出来事でもあります。神様は、やがて人の救いのためにひとり子をこの世に送ってくださる。エペソ人への手紙1章にありますように、神様は私たちがまだ世に生まれない先から、「天地の造られる前から」「わたしたちを選び」「愛のうちにあらかじめ定めて下さって」、そして時を定めて、ひとりの女から神の子を、救い主を送って、全ての人の救いを成就すると約束された。神様の大きな救いのプログラム、そのスケジュールの中で、2006年前、ベツレヘムの馬小屋に生まれてくださった。これは神様が人類を救ってくださる業が行われていくスケジュールの一つです。イエス様が地上に来てくださった後、私たちにまでこの福音が伝えられて、日本の名も知れない私たち、あるかないか分からないような私たちすらも、イエス様の救いにあずかって喜ぶ者と変えられている。そして皆さん一人一人が救いにあずかるときを神様が備えていてくださったのです。ですから、まだこれからも神様の大きなご計画、人類の救いのための歴史、そのようなプログラムの中に置かれている。そのような神様の一方的なご計画と御愛と恵みの中に、選ばれ、召されてきたのです。そしてそのことは、必ず成就する事です。45節に「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。私たちも一つ一つ見える状態や事柄を信じるのではなく、人の言葉を信じるのではなく、聖書にこのように約束しているから、神様はこのように備えてくださったことですからと、感謝して、信じて、そこに心を安んじ、落ち着いていく。

イザヤ書30章15節から18節までを朗読。

15節に「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。これは信仰です。落ち着いて穏やかに神様に信頼する、神様のお言葉を信じて、その時を待つ。「時が来れば成就する主のお言葉を信頼していく」「しかし、あなたがたはこの事を好まなかった」と。私どもは、最初は信じます。「そうか。よし、これを信じていきましょう」と、一日、二日はいい、三日目ぐらいになると、ちょっと疑い始める。「まだだろうか」。一週間もしたら消えてしまう。そして、16節に「かえって、あなたがたは言った、『否、われわれは馬に乗って、とんで行こう』」。もっとほかの方法があるに違いない。神様だけに頼っていても仕方がない。神様もいいけれども、そればかりでは足らないかもしれない。こちらもしよう、あちらもしよう。あの人にも頼もう、この人にも頼もう、こちらの人のほうが早いかもしれない。そのような自分の力と知恵で事を計ろうとする。それがこの16節、「否、われわれは馬に乗って、とんで行こう」ということです。ところがそれでもまだらちが明かない、事が進まない。もっと速い馬に、もっと有力な人に頼もうと、いろいろな人間的な方策をとって、やってみたところが、おじゃんになる。何もかもなくなってしまう。17節に「ひとりの威嚇によって千人は逃げ、五人の威嚇によってあなたがたは逃げて、その残る者はわずかに…」。言い換えると、孤立無援になる。そのように人を頼んで、人を何とかしてやっていると、やがて大変なことになる。

最近よく「談合」についてニュースが流れます。自分の商売をうまくやろうと思って、あちらこちらと上手に早い馬に乗ってやっているから、やがて全てが駄目になるのです。ついには孤独になる。みんな逃げていきます。今まで友達であった人もみな去っていきます。今まで市長だ、県知事だといっておだてられて祭られていた人たちは、周囲の人たちがみんな散って行って、ただ一人になってしまう。結局のところ孤立無援になって、孤独になっておしまいになる。そのときに18節、「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵みを施される」。しかし神様はあわれみ深い方、そのように行き詰って、もうお手上げになって、私にはどうにもできませんとなったとき、初めて神様は恵んでくださる。主に立ち返るのを待っていてくださる。私たちが忍耐する以上に、神様は私たちのことを待っていてくださる。忍耐してくださる。そして、 「あなたがたに恵みを施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる」。恵んでくださり、あわれみを注いでくださる。その時がくる。それを信じて待っていくこと、これが信仰です。
神様の言葉に信頼して、見えるところがどうであれ、事柄がどのようになろうとも、主がいますから大丈夫。神様が導かれることがあると、堅く信じていこうではありませんか。「主は公平の神でいらせられる」。その後に「すべて主を待ち望む者はさいわいである」。「主を待ち望む」とは、まさに「時が来れば成就する」神様の言葉に信頼して、忍耐することです。やがて必ず勝利を得させてくださいます。神様が私たちを喜ばせてくださる。私たちを楽しませて、神様を賛美し、喜び、褒めたたえる者と変えてくださる。

マリヤもそうだったのです。神様の言葉を信じて、「神には、なんでもできないことはありません」。「わたしは主のはしためです」と、主の前に自分を置いたとき、初めて彼女は、あの「どうして? 」と不安と恐れの中にあった心が一変して、安心と喜びに変わる。といって、まだ結果は見ていません。いや、それどころか、考えてみますと、マリヤは大変悲惨な生涯に陥っていく。愛するわが子が十字架に処刑される場面に立ち会わざるを得ない。そんな喜んでいる場合か、楽しんでいる場合かと思われるような悲惨な生涯。肉にあっては、マリヤほど不幸な人は居なかったかもしれない。人間的なこととしてみる限り、それは不幸です。しかし、神様の業として、彼女は神の子の母となった。素晴らしい恵みの中に置かれたのです。肉にあってはどうであれ、私たちも神様の栄光のために用いてくださる。

もう一度初めのヘブル人への手紙10章38節に「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。信仰とは忍耐です。忍耐は神様の約束の言葉を信じて、その時を待つことです。必ず「濡滞(とどこほ)りはせじ」とおっしゃる。「遅くあらば待つべし」。どうぞ、私たちは焦らないで、慌てないで、早い馬に乗ろうとしないで、神様の時を待とうではありませんか。必ず実現してくださいます。そのために、祈りつつ主に信頼して、神様が備えてくださる時があり、事があり、業があると信じる。それは、苦しいことであるかもしれない。あるいはつらいことであるかもしれません。しかし霊においては大きな神様の祝福と恵みです。また神様の栄光です。そのために私たちがまず先に召され、選ばれ、この救いにあずかっている。だからこそ「わが義人は、信仰によって生きる」。神様がよしとおっしゃる、神様が喜んでくださるのは、信仰によって生きる人です。このことをはっきりと心に置いて、日々、御言葉に立って、主を信じ、待ち望んでいきましょう。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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