いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(94)「みこころに従う」

2013年12月24日 | 聖書からのメッセージ
エレミヤ書21章8節から10節までを朗読。

この8節に「あなたはまたこの民に言いなさい、『主はこう仰せられる、見よ、わたしは命の道と死の道とをあなたがたの前に置く』」。
預言者エレミヤを通してユダの人々に語られた神様の御言葉です。エレミヤの時代、イスラエルの人々は神様に背いてしまい、そのため神様はバビロンという大国を興し、イスラエルの国もユダの国も両方共に滅ぼすと定められました。

イスラエルの民は、父祖アブラハムから長い年月を神様と共に生きてきた民族です。神の選びの民、特別に愛される民でした。その最盛期、一番恵まれた時代がダビデ王の時代であり、それに続くソロモン王の時代です。ところが、イスラエルの民は、段々と神様を離れてほかの神々、イスラエルを取り巻くさまざまな民族の神々、偶像を拝むようになりました。そのために神様は繰り返し警告をお与えになりました。ソロモンの後、国は分裂しました。その後、次から次へと王様がとって代わりますが、どの王様も信仰の父ダビデに倣(なら)う人はいなかったのです。神様に背いては失敗し、神様はそれを退けて次なる王様をたててくださった。また、繰り返し預言者を送って、そんなことをしていたら滅びである、と警告しました。イスラエルの民は神様から選ばれた特別な民であるだけに、神様は大変期待をしていた。というのは、イスラエルの民を通して神様の栄光を現したい。イエスラエルの民ばかりでなく、ほかの多くの人々にも同じようにこの恵みにあずかる道を備えようと、神様の遠大な御計画がありました。そこで、まずイスラエルという国、民族を、ご自身のものとして愛して、神様の力を現し、そこに神様がおられることを証ししようというのです。イスラエルの民はエジプトから救い出されて、カナンの地を目指して旅をしました。カナンの地へ入りまして、さまざまな戦いの連続でもありました。しかし、その中にあって神様は絶えずイスラエルの民と共にいてくださって、確かに困難はありましたが、その中で人の想像を超えた、思いを超えた不思議な業を行われました。彼らはそのために大変恵まれた民となり、ダビデという素晴らしい王様、信仰の父とも呼ばれる勇者を王とする国に変ったのです。

ところが、それはイスラエルの民の力や努力ではなくて、神様の一方的な憐みであったのですが、神様の恵みと御愛を忘れて、神様の御心を離れ勝手なことをし始めた。繰り返し警告を与えられたのですが、民はそれを受け入れようとしませんでした。頑として神様に背くようになってしまった。神様は、先ほど申し上げましたように、バビロンという国を興して、この国を滅ぼすと決められたのです。イスラエルの民を愛するがゆえに、裏切られた思いが非常に深かった。ホセアの記事を読んでおわかりのように、神様がイスラエルをどんなに愛していたか、裏切られたときの思いが、どんなにつらいものであり、心の痛むものであるか、語っています。

イスラエルの民は、鈍感、鈍いと言いますか、神様の御心から離れていってしまう。だからといって、神様は、「お前たち勝手にせい」、というわけにはいかない。御自分が選んで、ここまで持ち運んできた民を捨てることができないから、あえて強硬手段と言いますか、荒治療と言いますか、民を一旦無きものにしてしまうという策を立てられた。イスラエルの民はそんなこととは露知らず、ただ現れた現象、見えるところでは強力な国が現れて、小さな国であったイスラエルを飲み込むがごとくに攻めてきた。これは大変というので、民は戦おうとしたのです。でも、神様はこの戦いに負けることを求められた。しかし、イスラエルの民は、選民、神の民だというプライド、誇りがありますから、おいそれとは負けるわけにはいかない。ここでこそ、神の民に神様が力を現してくれるに違いないと身勝手に考えた。自分たちは神様を離れて言うことを聞かないが、都合が悪くなったとき、自分に助けが必要なときだけは神様がついている、負けるはずがないと言い出す。自分たちには神様がついているというのですが、神様ご自身がこの戦いでバビロンに負けなさい、負け戦をしなさい。早く降参してバビロンの国へ連れて行かれなさいと言うのですから、こんな屈辱(くつじょく)的な、嫌な話はありません。

神様はどうしてこんなことをイスラエルに求めたのか。それは神様がイスラエルをどんなに愛していたかということでもあります。そして、「滅ぼす」といっても、イスラエルの民に最後の逃れるべき道を備えられたのです。それは、バビロンへ引かれていき、その期間を70年間と決めてくださった。その間、バビロンの国で、畑を耕し、家族を養い、結婚して、生活をしなさいと。実は、神様はイスラエルの民を二度と立てなくなる程に潰したのではない。これは神様の御愛です。つぶされて当然だったと思います。

「うなじの強(こわ)い民」とも言っています。うなじとは首根っ子のことです。肩が凝(こ)ったとき首が回らなくなるでしょう。呼ばれても後ろを向けない、横も向けない。固まっている。そのような状態です。神様のほうに顔が向かない。心がカチカチになって、テコでも棒でも動かない。私たちもよく経験します。こんなことでは駄目だと思いながらも、心がねじ曲がってしまったら、自分で戻せない。苦しいですね。ところが、イスラエルの民は自分がそんな状態だとも気がつかない。神様を信頼し、戦いに出て勝利を得るために、バビロンを送ったのだと身勝手なことを言う預言者までいた。すべての預言者が神様の思いを伝えたわけではなくて、民に迎合(げいごう)して、人々のご機嫌を取って、民が喜びそうなことを言う。大丈夫、神様がついている、お祈りすれば大丈夫と言う。しかし、神様の御計画はそこに無かったのです。

預言者エレミヤは、神様からそのことを教えられて、「ここは戦うべきではない、むしろ負けて、降参し、捕らえられてバビロンへ行け。これが神様の約束だ。ただ、70年の旅路が終わるならば、またあなた方を連れ帰って、失われた国を再び建ててあげるから」と。これは神様の約束です。ところが、イスラエルの民は、神様をないがしろにしてきましたから、今更神様の御言葉はこうだと言われても信じられない。これは私たちも同じです。普段身勝手なことばかりをして、問題が起こったり、心配事があると、あるいはどうにもならない事柄の中に置かれた途端に、今から祈りましょうと言っても、信仰がない、持てない。普段から、常日ごろいつも主と共に交わって、祈り、御言葉を信じて生きているならば、事が起こったときにそれが働きます。力となります。泥縄はだめです。だから、今のうちからしっかりと神様に結びついておかなければ……。

イスラエルの民も、本来そうあるべきだった。ところが、神様が事を起こされたときに、きちんと御心と知ることができなくなっていた。自分たちの都合の良いように神様を利用する姿勢に変わった。バビロンに連れて行かれ、捕囚となって異邦人の許(もと)での生活をしなければならない。これはイスラエルの民の長い歴史の中の、エジプトでの生活と同じ生活をすることを意味していました。でも、何百年という年代が隔たっていますから、彼らにとっては到底受け入れがたいことだったのです。

8節に「あなたはまたこの民に言いなさい、『主はこう仰せられる、見よ、わたしは命の道と死の道とをあなたがたの前に置く』」。今あなた方には、二つの道があるのだ。それは9節「この町にとどまる者は、つるぎと、ききんと、疫病とで死ぬ」。「この町にとどまる者」、言い換えると、かつて日本が半世紀以上前に戦争したときのように、死ぬまで戦う。負け戦なんてこれは到底受け入れられない。たとえ一人になっても戦うと、そのようなことを言っている。

日本もかつてはそうでした。神国日本と言われ、絶対負けるはずがない、アメリカに必ず勝つ、神風が吹く、というようなことを言った。もしアメリカ兵が上陸してきたら、一人でも殺してやろうと。私は昔父と母の話を聞いたときにびっくりしまして、「お母さんもそう思ったの? 」と言ったら、「そう思った。真剣に考えた」と言うのです。滑稽で笑いましたが、「何で殺すつもりだったの? 」「竹槍」だと。考えてみたら、愚かしいにも程があるのですが、当時は皆真剣にそう思ったそうですから、人の心は怖いと思います。人というのは狂気に陥(おちい)ってしまいます。

イスラエルの民も神様の言うことを聞いてはおれない。この国を守るのだ。わが民族、何千年と長い年月を経てきた自分たちの国を守ると頑張る人たちがいる。そちらのほうが格好いいし、皆それになびきます。エレミヤは神様に従って負けるべきなんだ、戦ってはならないという。これは不格好ですし、弱虫です。そんなことを言うなんて非国民です。だから、エレミヤは捕らえられて、何度も牢屋に入れられることになりました。このときもエレミヤは神様からこう言えと命じられて、神様の御言葉を告げました。「この町にとどまる者は、つるぎと、ききんと、疫病とで死ぬ」。この町で頑張って戦うと言う人たちは、やがてバビロンの国の剣によって滅びるだろうし、また攻め囲まれて食料が無くなって飢きんになり、疫病がはやって、残る者は死を待つしかないと言われたのです。

9節「出て行って、あなたがたを攻め囲んでいるカルデヤびとに降伏する者は死を免れ、その命は自分のぶんどり物となる」。「出て行って、あなたがたを攻め囲んでいるカルデヤびと」、「カルデヤびと」とは、バビロンの人々のことでありますが、「降伏する」、負けました、お手挙げですと言って「降伏する者は死を免れ、その命は自分のぶんどり物となる」。あなたは命を得ることができる。実に、逆説です。ここで戦って国を守ろうとする者は、必ず負けて死んでしまう。自分の国を出て、わたしの言葉に、神様の御言葉に従って出て行って降伏するならば、死を免れるばかりか、やがて70年たったら、もう一度新しい国、エルサレムの都を建て直す、と言われます。

10節「主は言われる、わたしがこの町に顔を向けたのは幸を与えるためではなく、災を与えるためである。この町はバビロンの王の手に渡される。彼は火をもって、これを焼き払う」。はっきり、これは神様の御心ではない、と語っています。今も私たちには、絶えず「命の道と死の道」、二つの選択が置かれています。毎日の生活で右にするか左にするか、進むかとどまるか、いろいろと決断を迫られます、判断を求められます。そのときに、「命の道と死の道」があることを知っておきたいと思います。何気なく、こちらがいいとか、あちらにしとこう、今日はこれにしとこう、あれにしようと勝手な思いで選んでいます。しかし、その一つ一つの選択には、必ず「命の道と死の道」があることを知っておいてください。では、私たちは何を選ぶ、どのように選べばいいのか? もちろん、選ぶべきは「死の道」ではなく「命の道」であります。では「命の道」とはどのような道なのか?

マタイによる福音書7節13,14節を朗読。

14節「命にいたる門は狭く、その道は細い」とあります。大きな門、狭い門ということが、先ほどの「命の道と死の道」です。今も神様は絶えずこの二つの道のどちらかを選ぶことを求めておられます。今は自由な時代です。どんなことでも許されています。殊に、イエス様は私たちをすべての罪の束縛から解き放ってくださいました。「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである」(ガラテヤ5:1)とあります。ですから、私たちはイエス様の命に生きる者、自由を与えられて、どんなことでもすることができます。「だれひとり私たちをとがめる者はない」と記されています。確かにそうだと思います。私たちは、イエス様を信じて、従っていくこと、これだけです。

教会に来られて「これから教会生活をするには、何か守るべきことがあるでしょうか」と言われる。私は、はたと考えて教会生活をするのに守るべきことって、なにがあるかなぁと考えて、「いや特にありませんよ。イエス様に従っていくこと以外にないと思います」と答える。「いや、献金は幾らしたらいいでしょうか。集会には何回出たらいいでしょうか。いろいろな奉仕には何と何があって、どういうことを私はすればいいのでしょうか」と。「いや、せんでもいいし、してもいい」と答えると、「ちょっと困る。なんか決めてもらえないでしょうか」と言う。そうやって決められたことをするのに慣れている。こうしなければいけない、こうしなさい、こうあるべきだと、言われると、それに乗かかって、言われるとおりにしているのは楽です。だから、信仰生活もそのような手引書があって、このときはこうしなさい。このときはここでこうしなさい。逐一(ちくいち)書いてあるマニュアルがあって、困ったときはそれをちょっと見て、なるほど、ここはこうしておくのかと、こうやればよさそうだと決められれば、それが一番楽に思えます。しかし、イエス様はそのような生活から私たちを解放してくださった。自由を与えてくださった。

だから、何をしてもいい。この世からも自由を得させてくださいました。日本の社会には仕来たりや習慣、いろいろなものがあります。このときはこうすべきだ、このときはこうしてと、細かい仕来たりがあり、それをしないと非難を受ける。そして疲れて、どうしてこんなことをしなければいけない。でも仕方がない。生きているから、あちらの義理でこうして、こちらでなんとか、とやっている。でも、イエス様の救いにあずかった私たちは、そんなことはどちらでもいいのです。私たちの命は神様のものとなっている。天国の約束を与えられている。この地上にあって私たちを脅かすもの、滅ぼすものは何にもない。だからといって、自由を肉の欲の働くところとしてはいけないと、聖書にはあります。自由を得させてくださった神様は、わがままなに自分の好き嫌いに従って生きることを許しているのではありません。

ガラテヤ人への手紙5章1節を朗読。

「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである」。どんなものにも支配されない。自由だよ、と言う。ただしその先の13節「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい」。イエス様の救いにあずかったのは、私たちに自由を与えてくださるためです。ただしその自由は「肉の働く機会としないで」と。これは、自由だから私のしたい放題、私の欲望の赴くまま、感情の赴くまま、世間の習慣も仕来たりも考えない、礼儀も何もあるものかと、自由奔放(ほんぽう)という言葉に象徴されるように、自分の思いのままに生きることではありません。私たちはどのようなことでもすることは出来るが、出来るからといって、わがまま放題、自分のしたい放題にするとき、私たちは滅びます。ではどうするのか?16節「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい」と。

コリント人への第一の手紙6章12節を朗読。

ここに「すべてのことは、わたしに許されている」と語っています。先ほどのガラテヤの手紙にパウロが語ったように、私たちは自由を与えられている。どのようなことでもすることができる。12節「すべてのことは、わたしに許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない」。許されていてどのようなことでもしてもいいのだけれども「肉の働く機会」とする限り、それは滅びです。もちろん、神様は滅びを選び取る自由をも私たちに与えています。ところが、「命にいたる道」は、神様の思いに従うことです。

コリント人への第一の手紙の10章23節を朗読。

ここにも先ほどと同じ「すべてのことは許されている」と述べられています。「しかし、すべてのことが益になる」、「益になる」とは神様の御思いにかなうことです。また「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない」。どのようなことでもすることが出来るが、しかし、だからといって「肉の働く」ところ、肉に従って生きるならば、私たちは死ぬほかはない。それは「死にいたる道」です。ところが、神様の御心に従うこと、神様の求め給う事を行う。「御霊によって歩きなさい」と言うのは、まさにそこです。神様の御心を知って、その道を選び取っていく。それは「命にいたる道」、と同時にまた「狭い道」、「狭い門」であります。そこには苦労が伴うし、困難が伴うし、時には大変つらい道であるかもしれない。しかし、自由であるがゆえにこそ、自らの意思によって、神様の求め給う道を選び取ること。実は、神様が与えてくださった自由とはこれです。

日々の生活の中で、自分の願わない、思いもしない、考えもしない問題や事柄の中に、神様が置かれます。そのとき、神様はこんなことを願っているはずがない。私を愛してくださっている神様が、こんな問題を起こすはずがない。こんなつらいことを私に与えるはずがない。そう言って、その事から逃げるのではなく、そこでへりくだって、よく祈り、主の御旨はいかにと御心を求めて、はっきりとこの道こそ主が私に与えられた道であると確信を持ったならば、たとえ自分に都合が悪くても、自分にとって損をする道であっても、あえてそれを選び取るところに、私たちの自由があり、それは「命にいたる道」なのです。しかし「滅びにいたる門は大きく、その道は広い」とあります。どちらかと言いますと、楽な道、自分の好む道を行くことは、ある意味で楽しいことであり、楽なことであり、歩きやすいと思います。しかし、それは同時に滅びへの道でもあります。

エレミヤ書21章8節に「主はこう仰せられる、見よ、わたしは命の道と死の道とをあなたがたの前に置く」。「命の道と死の道」、私たちは自由を与えられたのですから、どの道を選んでもかまいません。ただ、「人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」とあるように、死を選び取るならば、死を受ける以外にありません。日々の生活の小さなことから大きなことに至るまで、どのようなことの中にも通じている事です。絶えずそこにこの二つの道があります。何の気なしに、ああしとこう、こうしておこうと、いとも簡単に決断したり選んだりしますが、その結果について、自分で負わなければならないことがある。それだけに、真剣に主の御旨を伺う、神様の御心はどこにあるのか知らなければなりません。

イスラエルの民に対する神様の御思いは、エルサレムにとどまって、敵と徹底して戦うことではなかった。カルデヤ人に捕らえられて、バビロンに捕囚となっていくことが神様の御心でありました。その道は、人間的に言うならば屈辱的であり、耐えられない困難を伴うことです。しかし、その道を選ぶとき、神様は「命にいたる道」として、祝福と恵みをイスラエルの民に与えてくださる約束がありました。ここが、私たちが絶えず立たせられている大切な岐路(きろ)ではないでしょうか。今、皆さんが与えられている問題や事柄の中で、どの道を選ぼうとしているのか? どの道を選んでも自由です。しかし、神様の御心を求めて、そこに従うことこそが、最高の生涯であります。また、人としての大切な生き方は、神様の御思いに自分を従わせることです。なんだか「従わせる」ことは、束縛されるように思いますが、そこでこそ初めて人の人たる生き方が完成されるのです。

このときのイスラエルの民に神様が求められたのはそのことだったのです。バビロンに引かれていく、それは屈辱的なことだし、嫌なことだし、恥ずかしいことだし、耐えられないと思う。その道を敢えて、求められた道であると信じて出て行った人たちは、やがて70年の後に、エズラ、ネヘミヤの時代に度廃墟となったエルサレムを建て直して、新しいエルサレムが造られたのです。そのために神様は、ペルシャの国を興して、クロス王を用いて彼らを助け出されました。神様が、「命にいたる道」を備えて、そのために必要な知恵も力も知識も、どんなものをも欠けることなくイスラエルの民に満たしてくださいました。しかし、そこにとどまった人たちは、神様の恵みを見ることができなかったのです。

私たちの前には絶えず二つの道があります。これは「死にいたる道だ」、これは「命の道だ」と、なにか印でもはっきり見えていれば間違わないと思いやすいのですが、それはありません。ただあるのは「御霊によって歩きなさい」と言うことです。神様の霊に導かれることを求めて、キリストの霊に自分を委ねきっていくとき、その道がたとえ困難であっても、また見えるところは失望するような事柄であっても、その道こそが実は、命につながっている道なのです。信仰をもって、御言葉に導かれ、選び取っていきたいと思います。そのとき、神様は、私たちの選んだことについて、最後まで責任を持ってくださる。そのような生き方をしていきたい。またそれがイエス様に従う「命の道」です。イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)といわれました。イエス様を通っていく、イエス様の道を歩んでいくことは、そこに命がある道です。ですから、私たちの目の前にいろいろな問題がありますが、見えるところに振り回されないで、絶えず見えない御方に目を留めて、御霊の導きにしっかりと根差していきたいと思います。

主が私をここに導いてくださっていますと信仰に立って歩むこと、これ以外にありません。何か見えるもので保障される、そのとおりだよ、間違いないよ、と言ってくれる人はいません。あるのはただ御言葉を信じて、主が「こう約束してくださったから」と、御言葉を握って堅く信じるだけです。私は「この道が、主が備えられたと信じます」と、はっきり信仰に立って歩んでいきたいと思います。そうするとき、失望することがありません。見える状態がどうであっても、神様が私たちに備えられる道があることを、絶えず信じ続けていく。望みを持ち続けることが出来ます。

8節に「主はこう仰せられる、見よ、わたしは命の道と死の道とをあなたがたの前に置く」と。「あなたがたの前に置く」とおっしゃいます。私たちの前には常に「命の道と死の道」が置かれています。どの道を選ぶか、御言葉に立ち返り、主の御旨を求めて祈るとき、御霊が語ってくださる。また御霊の導きに、従順に謙そんに従う者でありたいと思います。そうするときに、そこは「命の道」となり、神の栄光を見ることができる恵みへ、神様は入れてくださるからです。

どうぞ、この御言葉を心に置いて、絶えず「命の道」を選んでください。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。








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