「ヘブル人への手紙」10章32節から39節までを朗読。
38節「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるならわたしのたましいはこれを喜ばない」。
「わが義人」とありますが、これは“義なる人”、“正しい人”ということです。世間では、正しい人とは立派な人格者、あるいは道徳的、倫理的に尊敬に値するような人、そういう人をして義人と考えられます。しかし、聖書で言うところの「義」、あるいは「義人」とは、神様の前にどうあるかです。「義」とはそもそも神様のご性質であり、神様に罪を犯しますと、これは不義です。ですから、神様のご性質に合わせられること、これが「義」です。神様とはどんな御方か、これは一言でまとめるわけにはいきませんが、「ヨハネの第一の手紙」に「神は光であって、神には少しの暗いところもない」(Ⅰヨハネ 1:5)と語られています。だから、神様と交わりをしようとするならば、私たちも光とならなければならない。私たちが何かやましいこと、あるいは罪を持っていると、神様の光に照らされて陰が出来ます。神様の前に立てなくなる、これが不義です。神様の光のようなご性質にピタッと溶け込んでしまうには、私たちも光のように同じ性質にならなければならない。これは自分の力、自分の努力や修行を積んでも難しい。いや難しいどころではなくて不可能であります。
では、私たちは何によって義なる者としていただけるか? これは一方的に神様の定めてくださったあがない、救いによるほかありません。十字架によって私たちが義とせられる道を備えてくださった。だから、いま与えられている救いの道は、神様の光なるご性質に私たちを取り込んでくださる。そこに何の違和感も、陰もないものとして私たちを受け入れてくださるために、ひとり子イエス様をこの世に遣わしてくださったのです。イエス様が十字架に命を捨ててくださったのは、取りも直さず、私たちの罪をあがない清めてくださったのです。では、私たちは聖人君子、誰が見ても義人かというと、そんなことはありません。肉にあって生きていますから、失敗もしますし、あれこれと神様に申し訳ないような自分であります。すると「どうやったら義となるか?」と思われますが、聖書には「キリストを着る」という表現で書かれています。イエス・キリストを生活の土台として据えること。そのとき不完全な者を完全な者として神様は受け入れてくださる。これが私たちに与えられている信仰です。イエス・キリストが私の罪のあがないとなって十字架に命を捨ててくださった。そのことを信じる者を神様が義としてくださった。
「ローマ人への手紙」3章21、22節を朗読。
22節に「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって」とあります。私たちの努力や力で神様と同じ性質に似る者となることは不可能ですが、しかし、もしいつまでも不可能のままならば永遠の滅びであります。光が閉ざされた黄泉(よみ)の中に生きるしか道はないのです。ところが、今は「イエス・キリストを信じる」、イエス様が私の罪の一切を過去、現在、未来にわたって全て負ってくださって、十字架に神様の呪いを全て受けてくださった。そのように信じる私たちはイエス様と共に死んだ者となる。そしていま生きているのは、キリストが私を生かしてくださっておられる。よみがえってくださったとは、まさにこのことです。イエス様が墓に葬られ、三日目によみがえられた。そのよみがえりのいのちをもって、罪に死んでいた私たちが新しいいのちに生きる者とされる。これが“神の義”となるのです。だから、私たちがいつもイエス・キリストを信じていくことが、義なる人の全てであります。だから22節に「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」とあります。イエス・キリストを信じるとき、それぞれの人が、いま現実がどんなであれ、まだ肉にあって生きている欠けだらけであり、泥だらけ、汚れた所の数多くある私たちですらも、キリストが有りのままに全てを包んでくださって、私たちを「義なる者」と宣言してくださった。これが十字架の福音、喜びのおとずれです。私たちは今も主の十字架によって罪を赦された者となって、不完全ではありますが、しかし、それを包んで私たちを神の義としてくださった。それを私たちが信じる以外にないのであります。いつも現実の自分を見ていますと、「私が神の子だろうか、神様のご性質にあずかる者であろうか」と疑います。私たちは自分の状態をよく知っていますから、「こんな汚れた者が、今このままの姿で神様の前に立つなんて到底できない」と思う。もし今この時、神様の裁きの座に引き出されたらひとたまりもなく、一考だにされず、滅ぼされて当然である私たちです。ところが、イエス・キリストを信じることによって、私たちをそのまま包んで、神の子として、神様の家族として、「お前を許して、受け入れたよ」と受け止めてくださっている。だから、私たちは感謝であります。信じればいいのですから。
だから23節に「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」とあります。私たちは罪のために神様の栄光を受けられないということは、神様との交わりを絶たれてしまった。神様のご性質から切り離されてしまった私たちです。ところが、それに対して24節に「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」。「キリスト・イエスによるあがないによって義とされる」、しかも「価なしに」と。私たちが「見返りに何かせよ」とか「お前を救ってやるから、これをせよ」とか、犠牲や献身を神様が要求しているわけではありません。何にもないのです。無代価です。私たちはささげる物とて何もありませんが、ただ一方的な神様の恵みによって、主イエス・キリストを私たちの救い主として遣わしてくださった。だから24節に「キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」とあります。キリスト・イエスによるあがないによって私たちは義とされる。いま私たちはこの福音に生かされているのです。だから、私たちは感謝、有難いという喜びこそあれ、もはや私たちを罪に定めるもの、暗闇に追いやるものは何一つありません。神様の恵みによって福音に生きる者とされました。また信仰によって神の義を頂き、義人として受け入れていただいている私たちはいつも感謝し、喜んでいたらいいのです。
ところが、生活の中で不安があり、恐れが湧(わ)いてきます。ことに恐れを抱かせるものが絶えずやってきます。「こんなことをしていていいのだろうか」、「あんなことをして良かったのだろうか」と、恐れが私たちを罪に定めようとする。また「お前はこんなところができていない」と告発してくるものが私たちの内に頭をもたげてくる。これはサタンの力です。そのときこそ、「サタンよ、退け」と、神様の救いにあずかって義として頂いている恵みを堅く信じるのです。神様は罪を完全に赦し清めてくださったのですから、いつも十字架の主を見上げて、キリストを信じる信仰に絶えず立っている。これが私たちの生き方です。だから、日々の生活の中で心を暗くするもの、あるいは恐れを抱かせるもの、「そんなことをしていて大丈夫か? 」、「ああなったらどうするか」と、とがめてくる、責めてくるものがあったら、それは私たちがイエス・キリストから離れているときです。どうぞ、そのときこそ「大丈夫、イエス様が私を握ってくださって、包んでくださる」と主に立ち返る。神様は私たちをご自分の所有、ご自分のものとして受け入れてくださっている。これが「神の義」です。
「ヘブル人への手紙」10章38節に、「わが義人は、信仰によって生きる」と。まさに「わが義人」、神様がよしとされる者、神様の前に義なるものは、常に信仰によって生きている者である。更に11章6節に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」と。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」とは「わが義人は、信仰によって生きる」ということを言い換えた表現であります。神様の喜ばれる者こそ「神の義人」、神様が受け入れてくださる義なる人という意味であります。その「神様に喜ばれるには信仰がなくてはならない」といわれる「信仰」とは何か、先ほど「ローマ人の手紙」3章にありましたように、主イエス・キリストを信じる信仰です。イエス様を信じていく。その信仰の内容、イエス・キリストを信じるとはどうすることか? 6節の後半に「神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さる」とあります。「神に来る者」、言い換えると、神様を信じて信仰に生きようとする者は「神のいますこと」をまず信じる。そして「ご自分を求める者に報いて下さる」、神様を呼び求める者に答えてくださると。先ほどの「わが義人は、信仰によって生きる」とき、その具体的な内容が、6節に「神のいますこと」、これが一つと、二つ目が「ご自分を求める者に報いて下さる」と信じることです。「神のいますことを信じる」とは、かなり幅広い言い方ですから、「信じる」というのは、大体分かるのですが、具体的な生活でどのようになるのかを、知っておかなければなりません。確かに「神のいますいこと」、神様がおられることを信じている。では、いま現実に生きている私と神様とどんな関係になっているのか? 神様がいらっしゃると言いながら、自分はどういう態度、どういう姿勢で神様を受け入れているのか? 「神のいますこと」を信じるだけだったら、どんなことでも「あそこにいらっしゃる」「ここにいらっしゃる」と説明することはできます。それでは私とは関係がありません。「神様はいらっしゃいますよ。でも私はわたしです」となります。
先日もある方とお話していて、その方に「お宅の信仰はなんでしょうか」と尋ねました。「うちはなんでしょうかね。そう言えば仏壇はありますから、仏教でしょう」と本人が言われるのです。「仏教もいろいろな宗派がありますが、何派かご存じですか」と、「いや、知りませんが、時に仏壇に手を合わせて拝んでいますから、うちは仏教だと思うのです」と。自分の生活と信仰が完全に切れているのです。“私”というものとつながらない信仰は意味がないのです。
だから、ここで「神のいますこと」を信じることと、いま私が生きていることがきちっとつながる。これが神を信じることです。今朝、目覚めて元気で健康が与えられて、一日を過ごすことができる。「そこに神様がいらっしゃるから」と信じるのか、あるいは、「神様はいらっしゃるが、私が頑張って、私の努力、私が考えて、私のスケジュールでこれをして、あれをして過ごす。そんな日常のことは神様と関係がない。神様はいらっしゃるが、それは神様の勝手でしょう」と、そういう信仰は、本来信仰にならないのです。神様がおられることを信じるとは、取りも直さず、今この瞬間もその神様の手に握られていると自覚する。神様がおられるとは、神様によって生きとし生ける一切のものが造り出され、神様の力によって存在していることを認めることです。私たちの生活の隅から隅までどんなことも神様の力によらないことはない。これが聖書全体にわたって語られていることです。聖書のいちばん最初の「元始(はじめ)に天地を創造(つくり)たまへり」(文語訳)というひと言から始まって、神様がおられるゆえに、全ての被造物がそこに存在している。そして全てのものが今も神様の創造の御業の中に支えられ、造り出され、絶えず繰り返し造り出されていく過程、その中に私たちが生かされている。だから、自分の存在、私の生活を通して神様に連なっていかなければ、私たちの信仰にならないのであります。
ある方が「キリスト教がどうだ、こうだ」とか、「ユダヤ教がどうで、今の世界がこんなになっているのは、こういうことで、ああいうことで、日本はどうしてこんなにクリスチャンが少ない、もう少し頑張らなければいけない」などと主張しておられるのを私は聞きながら、「でも、あなたはいったい何を信じているのですか? 」と問いました。「え!私ですか? いや、私は一応クリスチャンです」と。「クリスチャンと言っても、あなたが信じている信仰によって歩まなければ、偉そうに世界のクリスチャンがどうとか、キリスト教がどうだこうだと言っても、ただ言葉のやり取りにすぎない。自分の実際の生活にかかわっていますか」、「それはありません」、「無いことをいくらあげつらっても意味がない。それよりもあなたが今日、明日を生きるにあたって、何を喜びとして、何が望みとなっているのですか」と言ったら、「いや、ちょっと心配なことがありますが……」、「では、その心配なことと神様とどう関係しているのか? そこが大切ですよ」と。その方にとって、信仰が建前といいますか、ひとつの思想として、考え方としていますから、自分の実際の生活と神様とが結びつかない。
私たちの受けている信仰は直接的に一人一人が神のいますことを信じていく。だから、世界のキリスト教がどうなのか、あるいは日本のクリスチャン人口がどのくらいいるのか、そんなことを知らなくても構わない。だた、今、今日あなたが神様をどのように信じて、あなたの生活、あなたの今日の一日の中でどこに神様がおられるのか?それが信仰に生きるということに他ならないのです。このことが11章6節に「なぜなら、神に来る者は、神のいますことと」、このひと言は全ての中につながってくるのです。今朝、元気でおいしく食事をすることができたのも、神様の許しがあり、神様が力を与えてくださったことです。またこうやって集会に出て来ることができた。これは時間があったから、たまたま自分は他に行く所もなかったから来たという人にとっても、神様がいますゆえに、その思いを与え、願いを起こさせ、送り出してくださったのです。たとえ「よし、今度は行くぞ」と決めたって、神様がとどめられたら、風邪をひいているかもしれない、熱を出しているかもしれない、交通事故に遭っているかもしれない。病院に入っているかもしれない。何があるのか分からない。来たくても来られなくなります。だから、一つ一つ細かなことの中にも「神のいます」ことを信じていく。これが「信仰によって生きる」ことです。だから、「箴言」に「 すべての道で主を認めよ」(3:6)と語られています。小さなことも大きなことも、その事の中に神のいますことを信じていく。そうなると、本当に楽しくなるのです、生きていることが。「これも神様が備えられたことです」、「このことも神様がご存じのことです」と、どんなことも神様との関係の中に溶け込んでしまう。こうなると、「私がどうとかこうとか」、「あの人がどうとかこうとか」そんなことは関係がなくなる。いつも神様と私です。「今日もこのことを神様はさせてくださる」、「ここに神様が導いてこんな楽しい時を与えてくださった」と。今日はおなかが痛くて、熱が出ていても、「これも神様が私にこういう時を過ごさせてくださっておられる」と、どんなことも「神のいますこと」に結びつけていくとき、何といいますか、痛快といいますか、すべてが楽しみに変わります。なぜならば、恐れることがいらないからです。常に神様の側に立たせてくださる。
だから、時につらいことや苦しいこと、思い掛けないことが続くと……、そういう方がおられますが、「先生、最近は次々とこんなつらい思いをして、きっと神様は私を懲らしめておられるに違いない。私にいけないところがあったんでしょうかね」と。「どうして懲らしめていると? 」「いや、私は後ろめたい感じがするのです」と言う。「それはいけない。その後ろめたいところを早く取りなさい」と、「それがなかなか取れない」、「それは取れないですよ。イエス様の十字架による以外にないから……」と。自分にとがめるところがあり、何かやましい思いがあって「あんなことをしたから、今こんな罰を与えられて……」、「今日はこんなにくたびれてしまって、昨日あんな所へ行かなければ良かった。つい行楽に誘われて、天気も良かったから行ったけれども、今日はひざが痛い、今日は一日痛んで……」と悔む。そこには神様がいらっしゃらない。では、どうするか? 痛くなったら感謝したらいい。「昨日はあんなに楽しい思いをさせてもらって、今日は神様がこんな痛みを与えてくださって、しばらく休め、ということ。神様は懇(ねんご)ろな御方でちゃんと教えてくださる、感謝します」と。そこで感謝して受ければ捨てるべきものはないのです。
「神のいますことを信じる」のひと言だけでも、日々の生活でそれを実践してご覧なさい。そうすると全てのものが軽くなります。とがめるものがなくなるからです。肩が凝(こ)ったり、首が回らなくなったりするのはなぜか。自分の心にとがめるものが常にある。だから、イエス様の十字架はその思いも全て清めて許してくださる。祝福と恵みに変えてくださる。これが「神のいますこと」を信じていくことに他なりません。
11章6節に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」と。もう一つは「神様が一つ一つ事を進めておられる」ということです。「ご自分を求める者に報いて下さる」とは、神様を求めていくと、神様が力をあらわし、神様が私たちを慰め、持ち運んで、神様のわざ、ご計画の中に生きる者と変えられるのです。これが「求める者に報いて下さる」ということです。「報いて下さる」とは、応えてくださることです。私たちに一つ一つのわざを備えて導いてくださることに他なりません。だから、神様がおられることを信じて、その神様がこれからも私たちのために全てのことを備えて、顧(かえり)み、導いてくださるのです。だから、これから私がどうなるかこうなるか、分からないが、しかし神を信じる。
「ヘブル人への手紙」10章38節に戻りまして「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるならわたしのたましいはこれを喜ばない」。神様を信じる、これが信仰であります。そうするとき神様は喜んでくださる。私たちがこの信仰に立って生きる、神を信じていく。言い換えると、「神のいますこと」、そして「その神様が私たちのために備えてくださる、報いてくださることがある」ことを信じていく。そうしますと、今していることが何のためであるか、これがどんな役に立つのか、何にも分からなくても、神様がいますことと、神様が報いてくださることを信じていけば、決して無駄には終わらないのです。神様のほうが全てのことをご自身の御心にかなうように導かれるのです。
「伝道の書」11章1節と6節を朗読。
神様を信じて生きることは、神様に自分を委(ゆだ)ねてしまうこと、明け渡してしまうことです。だから、今日私たちが神様を信じて、主が「このことをせよ」とおっしゃる、そう信じて事を進めます。それが将来この人のためになるだろうとか、私のためになるだろうとか、こうなったら役に立つに違いないと、将来へのストーリーを考えますが、これは一切信仰とは関係がありません。それを考えてはいけないというわけではないですが、たとえ考えたにしても、神様は神様独自の考えとご計画の中で、私たちを導かれるのであります。だから、私たちの思うように願うように事は進みません。しかし、逆に今このことがどういう役に立つか分からないが、いま神様が私にせよと言われるから、させていただきますと信じて、やったことが、長い年月、神様の時を経て、やがて定められた時が来るとき、それは無駄に終わらない。「ご自分を求める者に報いて下さる」とは、このことです。それを信じるのが信仰です。
だから、1節に「あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである」とあります。「水の流れている川の中にパンを投げるなんて、そんなこと、もったいない、無駄になる」と思う。ところが、神様は「大丈夫、それはやがて多くの日の後、あなたはそれを得るからである」と。「そんなことはあるかいな」、「そんな馬鹿な」と疑いますが、これは常識では考えられません。人間の知識や知恵や経験では押し測ることはできません。神様を信じるとはこのようなことです。自分が考えた通りに神様がやってくれるに違いない。自分が予定した、計画したとおりに神様は事を進めてくださるはずだというのだったら、神様はいらないのでしょう。自分がやればいいのですから。私たちは自分で生きているようであって、自分ではなくて神様がいまして、私たちを造り、生かし、御心に従って導いてくださるのです。そして、その時、折々に応じて、私たちに「今このことをしなさい」、「あなたはこうしておきなさい」と導かれる。私たちは「どうして今こんなことをしなければならないのか」と思うけれども、それをしておくと、後でなって……、「わが為すことを汝いまは知らず、後に悟るべし」(ヨハネ13:7文語訳)、後になって振り返ってみると「なるほど、この日この時のために主があのことを備えてくださったのか」と分かります。これは後になってしか分からないのです。
6節に「朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない」。神様を信じて、うまずたゆまずこの喜びと感謝を証ししていく。そうすれば、神様のほうが結果を出してくださる。必ずそこに収穫を与えてくださるからです。その後に「実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである」と。種をまくとき、今でこそきちんとした苗床を作って初めから発芽させた物を畑に植えたりしますが、この当時はとにかくパーッとまくわけでしょう。それこそ石地に落ちたり、道端に落ちたり、いろいろな所へ種が飛んで行く。どれが実になるのか、これは分かりません。しかし、まかないことには決して収穫は何一つありません。神様に期待していく。神様の手に自分をささげる。これが「信仰によって生きる」ことです。
「ヘブル人への手紙」10章38節に「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるならわたしのたましいはこれを喜ばない」。神様が私たちの全てをご存じで、一人一人にご計画してくださっておられる御思いの中で生かされているのです。人が勝手に「ああしようか」、「こうしようか」、「こっちが楽だ」とか「こっちが近道だ」とか、「これが経済的だ」とか、そんな損得利害ばかりを考えて、「こうしないと駄目だ」と決めますが、神様はどんなことでもなし得給うのです。
イスラエルが滅びようとした時、神様は「70年後にまたあなた方をここへ連れ帰る」とおっしゃる。「そんなものは信じられるものか」と、エレミヤ自身も自信がなかった。「お前はアナトテの土地を買え、しかもちゃんとお金を払って契約書を作れ」と。でも、その土地はバビロンに取られてしまいます。彼は言われたから、神様の御心に従って買うには買ったのですが、「買いました、神様、ご覧のとおりに契約書を作りましたが、しかし、私のこの土地は今まさにバビロンに取られようとしています」(エレミヤ32:6~)と、泣き事を言うのです。それに対して神様が「見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか」(エレミヤ32:27)と。「70年たったらここを元のように素晴らしいエルサレムに建て替える」と言われた。想像がつかないのです。
まさに私たちが神を信じるとは、私たちの想像、思いを越えたことを神様はしてくださる。「ご自分を求める者に報いて下さる」。38節に「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるならわたしのたましいはこれを喜ばない」と。39節に「しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である」。信仰に立って行くとき、いのちに満たされます。力が与えられ、また勇気が与えられます。望みに満たされます。「大丈夫、神様がここからどんなことをしてくださるか」と、大いに神様に期待して行く。そのために、私たちは先が分かりませんが、今、目の前の一歩を本当に信じて踏み出して行こうではありませんか。
私の父が「最初の一歩を踏み出せば次は神様が歩ませる」と、よく言っていました。私たちは信じて、「はい、今このことをさせていただきます」と一歩を踏み出すと、後は神様が押し出して、次々と事を進めて、報いてくださる。このことを信じて、私たちも神様の祝福と恵みと大いなる力に満たされたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。