福岡事件再審運動キャンペーン「私はわらじがぬがれない」

開始から55周年を迎える「福岡事件」再審請求運動
毎年各地でおこなわれるキャンペーンのためのブログです

6月7日 神戸 カトリック神戸中央教会

2013-06-26 22:55:33 | スケジュール
神戸での講演会の報告をいただきましたのでご紹介します.
  神戸ではお2人方に書いていただきました.まずはお1人目です.



再審特例法の話を通じて

 今回、初めて「福岡事件」に関して
講演会という形で参加させて頂いて私個人にとって大きな収穫を得ることができました。
今回、私は同じ大学のクラブの後輩の誘いを受けて参加させて頂いたのですが
正直なところ福岡出身にも関わらず、「福岡事件」にゆかりがなかった私は
言葉上の知識だけでこの事件を理解していました。
日本人によくある傾向だと思います。
今回の講演会において当時の被告人の生の声や大きくいえば事件の背景を理解することができ、
事実というものは自ら足を運ばないと知ることができないと改めて思い知らされました。
事前に下調べをして参加したわけですが、私の考えを覆すような様々な事実が浮かび上がり、
この事件について正しく理解できていなかった自分に反省しました。
それに合わせて、この事件と再審特例法との強い結びつきの理解促進にも繋がりました。

 今回の古川先生、大場先生の話を踏まえて下記に私が考える再審特例法について述べたいと思います。
まず、再審特例法という法律の話に入る以前に、
今回の「福岡事件」のように冤罪という結果を作り上げた社会に問題があると考えます。
冤罪といわれ未だ解決にたどり着けてない事件は様々あります。
身近なものとして「藤本事件」。
この事件はハンセン病患者というただそれだけの事実によって罪をかぶせられ
控訴、上告が棄却され、罪人として一番可能性の低かった藤本さんが殺された事件です。
今でさえ、そういった判決がないことを信じていますが、当時の圧力による冤罪はいかなるものかと考えます。
きつく言えば、日本社会における負の遺産とも考えられます。
当事者、その周りの家族が悔いても悔いきれなかった感情はすごく伝わってきます。

 確かに、再審特例法を国が敬遠するのはすごくわかります。
この法が存在する限り、どうしても国民にとって
不安定な社会というイメージを払しょくできないと考えるからです。
しかし、問題はそこではないはずです。
本当に事実を事実として貫いていくためにはこの法が必要であると考えるべきです。
この法が安定することによって何人もの人たちの努力が報われるでしょう。
法律とは被疑者のために用意されているといっても過言ではないはずです。
もう手遅れになっているというのはただの妥協にすぎません。
私はこれからの社会にとって不可欠な法律が再審特例法であると考えます。

 私は今回の「福岡事件」の講演会を通じて、「人の生き方」について深く考えさせられました。
「福岡事件」再審キャンペーンを行っている古川先生の生き方も信念を貫いていて感化されました。
また、大場先生の専門家としてこの事件に対する見解を述べ、「福岡事件」に関わる姿にも感化されました。
私は今回この貴重な機会に参加させて頂いたことに感謝しています。
時の経過によってこの世間から忘れ去られつつあるこういった負の遺産を改めて考えていくことが
今を生きる我々の使命であると考えています。

関西学院大学 文学部 3回 上田 恭輔