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ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

今年の写真帳 5頁目

2018-12-20 14:32:51 | ゆるゆる歩き:旧跡

睦月十日

故郷と東京を行き来する人々を、守ってくれている場所へ。


赤羽八幡神社である。

小高い赤羽台にあり、昔は赤羽山八幡宮と呼ばれていたという。

 

言い伝えでは、坂上田村麻呂が奥州鎮圧に向かう際、武運長久を祈願したことから創建された。

御神徳は勝ち運だが、古より交通の要所であり、往来の安全を守る神としても慕われている。


なんと、ここは、境内の下が鉄道のトンネルだ。

境内の下を列車が通っていく。

よって、境内へ上がる道は二つあるが、一つは線路高架下をくぐってから境内へ上がる。


 

新幹線に乗っていると、知らず知らずのうちに神社にお参りしているのだった。

鉄道は、本殿脇の社務所の下を通過する。

上の境内からは、行き来する新幹線も見送ることができる。


故郷とこちらを行き来するのに、いつも守られていたとは心強い限りだ。



今年の写真帳 3頁目

2018-12-18 09:49:05 | ゆるゆる歩き:旧跡

正月3日

都市の中の史跡名勝地へ。

 

小石川後楽園である。

江戸時代に造られた、水戸徳川家の江戸屋敷の庭園。


園を出れば、すぐそこはビル群で、東京ドームもある。

だが、庭園内は実に穏やかで、水鳥もゆったり思うままに過ごしている。


鳴き声で気づき、いそうなところを見やると、いた、見つけた。

カワセミだ。

よく見ると、中央辺りの枝に留まっているのが分かる。

 

それにしても、関東の正月は東北と違って暖かい。

庭園の一角では、既にロウバイがほころんでいる。

仙台なら、咲くのは二月だ。

 

名工の作った橋は、水面に写って見事に満月となっている。

 

 

その名も円月橋。

 

 

寛ぐ。

見事な庭園で、気持ちよく過ごせた日であった。

 


井伊家中屋敷で眠り猫に会う

2018-07-23 19:01:29 | ゆるゆる歩き:旧跡

 

風は温いが吹かぬよりましと、汗をかきながら歩く先に、やすらぐ木陰があった。

木立の合間から見えるのは、品の良いビルディング。


その向かいは、小さく静かな前栽で、彦根藩主、井伊家の中屋敷跡の道標があった。


さらに奥へと小道を行くと、木々とせせらぎが人を包み込む庭園になっている。



ここは、井伊家中屋敷跡であり、明治初期には伏見宮邸だったが、戦後、歴史ある地を残そうと鉄鋼王と呼ばれた大谷米太郎氏が買い取った。

初の東京オリンピックを前に、ホテル建設が進められ、現在はホテルニューオータニの庭園となっている。

ホテルとなってからは、奥に滝も作られた。


庭園は一般開放されており、人々の憩いの場所となっている。


一巡りして初めの道標の方へ戻る道すがら、来る時はいなかった猫に出会った。


その顔、まるで東照宮の眠り猫である。

さすが、徳川の忠臣であった井伊殿の屋敷跡であるな。不思議な縁だ。


暑い昼下がりに、涼しい場所を見つけての昼寝であろう。

お邪魔しました。

 


戊辰150年の片隅で

2018-05-06 19:54:25 | ゆるゆる歩き:旧跡

静かな木立に囲まれ、整った石畳の奥に円墳がある。

最後の将軍、徳川慶喜公の墓である。

 

(谷中霊園内 慶喜公墓/左が慶喜公・右は正室の美賀君:2018年4月11日撮影)

埋葬される時には、明治維新の功労者として評された。

だが、幕末には苦渋を味わった人だ。

 


慶応三年十月に大政奉還した後、十二月に天皇政治の宣言がなされた。


その夜、小御所会議で論争があった。

徳川慶喜を公儀にと推す山内と、反対する岩倉とで論戦となる。

この時の新政府構想は、旧幕府側の力をそぐことが目的と見える。


水戸出身の慶喜が、そもそも尊王思想の気風だとしても、排除したかったのだろう。

しかし、そうした偏った思惑に、旧幕臣が不満を募らせるのは当然と言える。

慶応4年1月、ついに鳥羽伏見にて衝突し、戊辰戦争が始まる。


この動きに乗じて、討幕派は、旧幕側を「朝敵」とみなす策をとって地位を得た。


朝敵を作り出して倒す、それが体制を一気に塗り替えるための、官軍の策だったのではないか。

やがて官軍は、会津追討を東北諸藩に迫った。


一方、筋を通さねば、納得いかぬうちは動かない、東北人はそういう気風が強い。

頭ごなしの官軍に、東北人が従うはずはなかったろう。


東北諸藩は、会津を救済すべく嘆願書を出すも、官軍は追討を強行した。

この時、奥羽鎮撫総督府側による密書が事件を引き起こす。


密書の出所は実のところ謎だが、下参謀の世良が書いたものと言われている。

この密書に「奥羽皆敵」の文言があり、世良は激高した仙台藩士に殺害される。

そして、東北諸藩は官軍への抗戦を強め、戦禍を被ることとなった。


上野で彰義隊が壊滅し、会津では苛烈な戦となる。


政権を固めたい官軍は、強硬に会津を責め、義を重んじた東北諸藩を追い詰めた。

会津では、娘子軍や白虎隊も応戦し、血を流したのである。


会津白虎隊の悲運は、隊で唯一生き残った飯沼貞吉によって語り継がれる。

生き残った己を責め、会津に戻らなかった貞吉は名を貞雄と改め、仙台を終焉の地とした。

(仙台市錦町 蘇生白虎隊士 飯沼貞雄終焉の地:2016年5月18日撮影)


今、その戊辰から150年。

 

権力抗争から早々に退いた慶喜公は、戊辰戦争をどんな風に思っていたろうか。

今はただ、風が木々の枝を揺らしながら通り過ぎるだけである。

 

 

参考:明治神宮外苑 聖徳記念絵画館/山口市文化政策課「山口市の歴史・錦の御旗制作所跡」

   会津若松市戊辰戦争150周年記念事業「戊辰戦争について」/白石市戊辰150年しろいし慕心プロジェクト/

   茨城県立歴史館「徳川慶喜Q&A」/三重県県史編さん班「戊辰戦争、津藩と桑名藩」/

   仙台市錦町/みやぎ会津会

 

 


仙台味噌屋敷

2017-12-08 13:24:12 | ゆるゆる歩き:旧跡

頃は神無月にさかのぼる。

江戸詰めを命じられた藩士のごとく、屋移りをして間もなくのこと。

品川大井の仙台藩下屋敷を訪ねる。

(2017‐10‐31:旧仙台坂)



そこに残ったのは樅ノ木ではなく、タブノキであった。

屋敷沿いの通りゆえ、仙台坂や暗闇坂と呼ばれた坂は、なかなかの急坂である。

坂が緩やかになったあたりで、大きなタブノキが、往来する人々を今もなお見守っている。


(2017‐10‐31:仙台坂のタブノキ)


坂の上の池上通りと交わる辻に、木造りで瓦屋根の大きな平家が見える。

これぞ、味噌屋敷の謂れの名残なり。

藩士の暮らしを支えた味噌蔵が今に続く。


(2017‐10‐31:味噌醸造所)



仙台藩の下屋敷には、藩士のための味噌蔵が作られた。

屋敷内で味噌づくりをし、藩士の食としたが、後に余りを江戸市中に売り出したという。

仙台味噌は江戸っ子の評判となり、屋敷は味噌屋敷と呼ばれたそう。


 

(参考:東北大学附属図書館『江戸の食文化 仙台藩の名産品 仙台味噌』/品川区『品川の大名屋敷』/仙台市教育委員会『仙台旧城下町に所在する 民俗文化財調査報告書⑥ 2010年3月 仙台味噌』)



今も関東でジョウセン仙台味噌が出回っている。

さらに、「八木合名会社仙台味噌醸造所」は、まさに下屋敷の味噌づくりを引き継いだ店だ。

そこには「五風十雨」という味噌がある。




量り売りで、好きな分だけ杓文字で取り分けてもらう。

なんと芳しいことか。

熟成した濃い色、香り豊か、塩気が力強いが切れが良く、コクも甘みもある。

 


江戸詰めも、郷の味にて和む暮らしで候。