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ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

2011年3月11日の記憶②

2018-01-14 15:42:44 | 東北被災地の歩み:仙台

ロウソクを灯してラジオを聴き、「大変なことが起こった、明日はどうなるか」という思いで過ごした夜。

小雪の舞う寒さで、重ね着して布団に包まる。


その日、連れ合いは仕事で名取市にいた。

閖上方向の道に出ると、逆走してくる車に出会い、その先が通行止めになっていることに気が付き、引き返したという。

津波が閖上を襲った後だった。


その頃こちらでは、連れ合いは帰ってこないかもしれないと思いながら、非常時の生活準備をしていた。

だが、予想外にも夕刻に帰ってきたのでびっくりした。

来るなり、すぐに厠へ急ぐ。

何しろ渋滞で、普通は車で30分で来られる道を、3時間かかって帰って来たという。


夕餉は昼の残り飯を使い、手早く、体の温まるものをと作ったのが雑炊だった。


夜、ラジオをずっと聴いていた。

津波や被害の大きさが繰り返し伝えられて気が滅入る。

あれこれ選局していたら、合間に音楽を流す放送局があった。ほっとした。


2011年3月11日の記憶①

2018-01-14 15:23:51 | 東北被災地の歩み:仙台

仙台駅から南へ進むと、長町駅、太子堂駅と続いている。

当時、太子堂駅のそばに住んでいた。

 

この地区は再開発地域で、周辺には空き地も多かったが、平坦で広い道路、新しいスーパーマーケットや移転再建した店が沿線にあり、大変便利であった。


3月に入ると、なぜかやたらと胸がざわつき、春だからとか、野球開幕が楽しみなせいだとか言っていた。

これが胸騒ぎというものだったとは、その時は思いもしなかった。

 

2011年3月11日も、普段と同じように一日が始まった。


晴れて暖かい午前中だったが、天気予報では午後に急転、寒くなるとの予報だった。

普段なら、思い立っても午後に買い物に行くが、何となくその日は午前中に済ませた。


掃除も洗濯も済ませ、昼からのんびりとしていた。

午後3時まであと十数分。

静かな住宅地の一軒、居間にいた自分の耳には、ブーンと妙な音が聞こえた。


トレーラーなど大型車の音が、屋内では低くブーンと伝わるが、そんな音だった。

近くで工事でも始まるのかと思いながら、窓の外を見た。

何もない。


すると、今度は背後から、台所に並ぶ瓶がカタカタと音を立てた。

あっと思った瞬間、ズシンと家中が鳴った。

いそいで居間の真ん中に座るが、地震だと気づいた時、今までにない揺れが来ていた。


起震車のような揺れ、それが現実に起こっている。

冷蔵庫と棚が、そのまま横にずれ動いていく。


長い。1分以上続くとは。

さすがに、不安や焦りを感じた。


ようやく揺れが弱まり、外を見ると周辺に火災はない。

家の中を確認する。電気とガスは止まったが、幸運にもこの地域は水道が使えた。

後で水も止まるかもしれないと、備蓄飲料水はあるが、一応、やかんと浴槽に水を溜めた。


収納の扉をそっと開けると、案の定、棚の本が扉側に寄っていて落ちてきた。直ぐに戻す。

食器棚では、扉を開けると一番軽い茶碗だけが隙間に落ちて割れていた。

片付けている最中に大きな余震で、「いつまで揺れるんだ」と思わず叫んだ。


さっさと片付け、明るいうちに必要な物を居間に運び込む。

余震の中で歌いながら、ラジオ、カセットコンロ、カンテラ、ろうそく、布団、防寒着などを用意。

非常時生活の準備をし、ひと息ついた。


お茶と菓子を口にする。これからどうなることか。頑張らねば。

この揺れ、津波、海側は大丈夫だろうか。

窓の外は、雪がちらつきはじめた。


真冬の仙台 春の東京

2018-01-07 14:46:38 | 今昔あれこれ

昨年師走の半ばのこと、数年ぶりに酷い風邪を引いて寝込んだ。

暮には仙台に帰るからと、それはもう頑張って治した。


かくして一念天に通ずで、二十七日に上野駅を出発して仙台へ。

いくつかのトンネルを抜けると、福島あたりで雪景色であった。

懐かしい鉄塔と町が見えてきて、仙台に到着。


仙台ではうっすらと雪が残る程度だったが、なんだもねぐしばれるではないか!


かじかむ程の冷たい空気で、顔が痛い程の寒さを久しぶりに体験。辛いが嬉しかった。


暮の仙台では、連れ合いの実家でカニとナメタガレイをたらふく食べ、旧友と忘年会をし、瞬く間に時が過ぎた。

混雑を避けて、大晦日には仙台を出て関東に戻り、年を越した。

多少風は冷えたが、向こうに比べれば東京はもはや春である。


正月三日、小石川後楽園では、すでにロウバイが咲き始めていた。

仙台で咲くのは如月、立春の頃からだ。


暮から正月のうちに、陸奥から江戸へ渡っただけで、真冬から春へと、いっぺんに季節を飛び越えたような年越しであった。


東北の冬の風物詩

2017-12-15 21:22:47 | 今昔あれこれ
今年も、旧友からりんごが届いた。

東北ではこの時季、隣近所でもりんごが届き、配達のお兄さんとも「毎年恒例だね」「車の中もりんごいっぱいすよ」などと会話したものだ。

だが、今年は関東のマンションで受け取り、こっちでは重ならぬかと、さっそく隣にも配ってきた。
一応、「迷惑でなかったら」と前置きしたが、お隣さんたちは一様に笑顔で喜んでくれて嬉しかった。
 

 
箱には、黄色りんごと赤りんごとが、紅白のごとく並んでいる。
今年は、黄色りんごの方が甘みも香りも強かった。

今夏は曇天や雨での低温、秋に台風も多かったから、農家さんは苦労したろうと思う。
それでも、昨年と変わらぬ立派なりんごを目にし、安堵したり感心したりだ。
 

旧友よ、いつもありがとう。ご馳走様。

仙台市若林区荒浜:2012年3月21日の記録

2017-12-15 15:54:38 | 東北被災地の歩み:仙台

しばらく、通行止めだった仙台市の荒浜。

1年経って、ようやく足を向けた。


かつては、家が立ち並んでいた。海岸を、木々がいっぱいに縁取っていた。(震災前2010年11月撮影)


近くに大きな公園もあったし、熱帯植物のある大温室と、バラ園などを設けた園芸施設もあった。



周辺には、よく手入れされた田畑があって、平野の続く穏やかな地域だった。


冬の田んぼにはハクチョウが来て、

(2010年12月下飯田辺り)


初夏には水と早苗の輝く田んぼにサギが来ていた。

(2009年5月撮影)


人々は海と山からの風をよみ、田畑を作り、漁をする暮らしがそこにあった。


今(2012年)は、建物の跡だけがある。


砕けた建物のかけらが、まるで堤のように積まれている。



再建する場所があるものの、まだ整地も終わらない場所もあるのが現状。


砕けた町を見るたびに切なくなる。




たくさんたくさん失った。

いっぱいいっぱい人々が涙を流した。


それでも私らは生きている。

動いて、食べて、笑うこともあって、明日へと繋いでいく。


生きるのは大変だ。

辛いことも多いもの。

けれども、小さな喜びも、人と分け合う嬉しさも知る。



今日より明日は良くなる、そういう気持ちになれることが大事だ。

だから、今日も明日も、輝きを探す。

一歩一歩、踏みしめながら。


去年の今頃は、町中の傷を見ながら、花の咲く春を待っていた。

今も、おんなじ。


この頃、ばっけが顔を出しているのを見つけ、嬉しくなる。



一昨日の夜遅くには、窓際で誰かがポテトチップスを食べているみたいな音がして、見れば水気の多い雪が窓に当たっていた。

それでも、春の日差しはふりそそぎ、天人唐草の小さな青い花が笑っている。


もうじき梅が咲くだろう。ひと月後には桜も。


そうしたら、花を見よう。

空を仰ごう。

鮮やかな春が、人にも勢いを分けてくれるはずだから。