震災の前年、8年前の今日。
まだ空き地だらけだった再開発地。
↑2010年11月23日のあすと長町
震災後、この手前に広がる空き地には、仮設住宅が並んだ。
今では、周辺に大型店が建ち並び、すぐそこに見えたスーパーも隠れて見えない。
仮設住宅は解体され、その区画だけ空き地に戻っている。
この日、ここから見える空は、美しい夕焼け。
震災翌朝には、真っ黒な煙が雲となって棚引くのが見えた。
だが、再び空は爽やかな表情に戻り、町を照らす。
震災の前年、8年前の今日。
まだ空き地だらけだった再開発地。
↑2010年11月23日のあすと長町
震災後、この手前に広がる空き地には、仮設住宅が並んだ。
今では、周辺に大型店が建ち並び、すぐそこに見えたスーパーも隠れて見えない。
仮設住宅は解体され、その区画だけ空き地に戻っている。
この日、ここから見える空は、美しい夕焼け。
震災翌朝には、真っ黒な煙が雲となって棚引くのが見えた。
だが、再び空は爽やかな表情に戻り、町を照らす。
一年前の今日は、ここにいた。
横浜市みなとみらいだ。
赤レンガ倉庫近くで、港の一角に、工作船資料館がある。
中に、大きな工作船が置かれていた。
工作船事件の概要を淡々と表示し、遺留品を展示している。
一方、赤レンガ倉庫前では、クリスマスの催し用施設や飾り付けの準備が進められていた。
平和は尊い。
7年前のまちかど。
震災のあった2011年の今日(11月16日)の風景。
東北大学を囲む木々が色づいていた。
(2011年11月16日 仙台市青葉区 片平と米ケ袋の間の通りにて)
江戸の頃、狐火が見えると有名になった飛鳥山。(北区王子)
大正の頃、ここに渋沢栄一が邸を構えた。
今は渋沢史料館となり、戦災で焼け残った大正期建築の晩香廬と青淵文庫も見られる。
(↓晩香廬(ばんこうろ):2018年9月撮影)
渋沢栄一は、新たな工農商の実業を築き、民間外交にも尽力した人物。
晩香廬(ばんこうろ)は、賓客をもてなす洋風茶室である。
渋沢は、ここでも様々な人々と交流した。
渋沢が、様々な事業で関わった人々との写真が残っている。
その中に、懐かしい顔があった。
「新平さんではないか。」
奥州市水沢の偉人、後藤新平である。
水沢は、伊達政宗の従弟である留守宗利が入って以来、留守家の所領地。
新平は、幕末に留守家に仕え、明治に平民となって胆沢県庁の給仕となった。
そうした少年期だったが、人材発掘に長けた安場に見いだされる。
新平は、後に医師から政界にまで身を投じて活躍した。
仕事では挫折もしたが、志は挫けずに終生、公共公益と自治の精神を貫いた人であった。
この志は、渋沢栄一と共鳴するものであった。
渋沢は、慶喜に仕えた幕臣だが、慶喜の弟と共に留学して帰国後に明治政府の一員となる。
その後、経済界に身を置き、渋沢が志したのは「道徳経済合一」であった。
私益に走らず、公益につながる誠実な商いこそ、永続する事業となって私益にもなる。
後藤新平との出会いは、関東大震災後の救済と復興事業がきっかけであった。
人々の命を守り豊かな世へと、広い街路や公園を配し、安全と美観を備えた商業都市を目指す。
後藤と渋沢は、官民の間柄で、協力して救済と復興事業にあたった。
渋沢は17歳年上で、後藤とは年は違えども、志に相通ずるものがあった。
二人の抱いた公益の志は、今こそ、我々が見直すべき世の在り方への道しるべではなかろうか。
さて、現在も渋沢旧邸内に残る、晩香廬と青淵文庫は、美しい建築物である。
(↓青淵(せいえん)文庫・外観:2018年9月撮影)
渋沢の祝い事の際、渋沢に寄贈されたもので、晩香廬は賓客のもてなし、青淵文庫は書庫として使われていたという。
何気なく訪ねたのだが、心に残る場所である。
渋沢の生きた時代を、現在の同地に立って、わずかに交錯するひと時であった。
(↓青淵文庫内部:2018年9月撮影)
参考:北区王子 渋沢史料館/奥州市水沢 後藤新平記念館/内閣府防災担当「帝都復興の展開」
玉音放送により、天皇陛下から国民に降伏宣言がなされた8月15日。
日本はこの日を終戦と思っているが、正式な終戦はまだだった。
実際は、15日以降も戦闘を終えられなかった。
73年前の今日(1945/8/21)、ソ連による千島列島への攻撃があったのだ。
北端の占守島(しゅむしゅとう)では、武装解除の準備をしていた日本軍だったが、急遽、防衛のために戦闘開始したという。
必死の防戦でソ連軍の出端を挫き、北海道へのソ連軍侵攻を食い止めたのであった。
ことによっては、日本は分割占領されるかもしれなかったが、米国はソ連の提案を拒否。
米国による戦後日本の管理政策が打ち出され、日本は分割を免れた。
そして、正式に終戦宣言がなされたのは9月2日のことだった。
あれから73年目の8月を迎えた。
東京の靖国神社内にある遊就館には戦没者の写真が並ぶ。
仙台市にある護国神社内にも、英霊顕彰館があり、やはり戦没者の遺品や遺影が並んでいる。
この人々は、国と家族を守るために戦ったが、決して戦争したかったわけではない。
夢を諦め、愛する人との心温まる日々を断ち切って散っていったのである。
この戦没者も、きっと我々と同じく、こう願っているはずだ。
尊い命を無残に捨て去る戦争なんぞ、もう二度と起こさぬようにと。
(宮城県護国神社 英霊顕彰館にて:撮影日2018年5月15日)
参考:『池上彰の教科書に載っていない20世紀~戦後ニッポンを救った知られざる人々~』/浅田次郎著『終わらざる夏』/
国立国会図書館電子展示会『日本国憲法の誕生・詳細年表』/靖国神社遊就館/
SBクリエイティブ連載 松本利秋著『日本人が知らない終戦秘話』