田村うさぎのわくわくダイヤリー

大好きな温泉、近頃想う事、ショックだった事など等
誰か聞いてくれ・・・・・

又会う日まで~~~

2011-01-28 15:36:51 | Weblog
ダイビングのインストラクターのRAIさんが沖縄へ移住することになった。

まだまだダイビングが未熟なうさぎは、これからRAIさんに色々教わるつもりで

いたのにショック、ショック、ショック

一瞬「エッ!どうしよう!!」と思った。

でも日にちが経つと、これも運命、仕方な~いか。

渡嘉敷のあのゆったりした雰囲気の中で、RAIさんのご家族が過ごす事は

幸せだろうな~と思った。

最善の選択かも。

私達は渡嘉敷へ行ってダイビングすれば良い。

綺麗な海、楽しい仲間がたくさん居る。

どうにかなるさ。


そこで先日、RAIさんを囲んでランチに行った。

急遽声をかけたら8名集まった。さすがRAIさん!人気者~~

広島の味を覚えておいてほしいので、「稲茶」の小いわし膳にした。

小いわしのハンバーグは何時もながらサイコー

家ではなかなかこのふんわり感が出ない。







とりとめも無い事をわいわい言いながら、あっという間にラストランチは終わった。

RAIさんのグルメにお付き合いさせていただいて、美味しいものをたくさん

いただきました。ありがとう!

忘れません~~~~。

又行きます。

そのときは、よ・ろ・し・く!font size="7">

藤原氏~栄華と陰謀の千年~~歴女第4弾

2011-01-21 10:18:11 | Weblog
大化の改新の中臣(藤原)鎌足に始まり、保元の乱の頼長で終わる

藤原氏の千年に亘る皇室と政治へのかかわりと陰謀について考えてみよう。

藤原氏は常に天皇家と姻戚関係を結び、政治を動かし、富と権力の中枢にいた。

千年の長きに亘る歴史を全て追う事は出来ないが、藤原氏に翻弄され悲劇の人生を

送った皇族や貴族たちの生涯を2・3辿ってみようと思う。



写真は大仏建立や各地に国分寺を建て、仏教の布教や国家の基礎を築いた

聖武天皇の第一皇女井上内親王の御稜である。



皆さんは「源氏物語」の六条御息所の段についてご存知と思います。

この六条御息所のモデルになった人が井上内親王といわれ、第45代聖武天皇と

県犬養宿弥閉刀自(あがたいぬかいのすくねとじ)との間に生まれた第一皇女です。

しかし、藤原不比等の子光明子との間の生まれた阿部内親王(孝謙天皇、称徳天皇)

が皇太子となるため、5歳で伊勢神宮の斎王にト定され6年後に伊勢に下向。

20年後斎王の任を解かれ、37歳になって志貴皇子の第6子の白壁王の正妃となる。

白壁王は毎日酒びたりの生活をしていた王で45歳。

しかも渡来系の高野新笠という夫人が居て、山部王(後の桓武天皇)始め

何人かの子供も居た。

しかし井上内親王は結婚の翌年38歳で女児(酒入内親王)を産み、45歳で男子皇子

(他戸親王)を産んだ。

当時としては驚異的な高齢出産でありえない話であるが、史実である。

770年、聖武天皇の遺言で道祖王(天武帝の皇統)を孝謙天皇の皇太子に

指名したにもかかわらず孝謙天皇の崩御後、白壁王(天智帝の皇統)が

藤原氏により立太子、図らずも光仁天皇(62歳)として即位する。

ここにも藤原氏の陰謀、術策があった。

それに伴い井上内親王は皇后となり、他戸親王(11歳)は皇太子となる。

しかしわずか2年後、光仁天皇を呪詛したとして井上皇后は廃后、他戸親王は廃太子。

奈良県五條市に流罪。地面に穴を掘り2人共その中に入れられ、775年二人は

同日に没する。井上皇后59歳、他戸親王15歳であった。

聖武天皇の第一子でありながら、藤原氏の都合で伊勢斎王となり、白壁王に嫁し、

皇后になりやっと幸せが訪れたかと思ったら、流罪になり暗殺された。

彼女ほど藤原氏に翻弄された皇族はいないだろう。


「水鏡」や「続日本紀」(正史)「愚管抄」などによると、779年井上内親王は

怨霊となって祟り、竜に返身して藤原百川を蹴殺、

夜毎に瓦石土塊が降り、雨が降らず井戸水が枯れる等の天変地異が起こり、

人々は恐れおののいたとある。

このため790年、桓武天皇の勅願で五条市に「御霊神社」が創建された。

尚、四所大明神として井上内親王、他戸親王、早良親王、火雷神(井上内親王が

流罪になった時、お腹に子供が居て五条市荒坂峠で出産し、その子は雷神になった

と言われている。今も産屋峰荒坂峠にお社と万葉歌碑がある。)を祭った。






歴史余談

「水鏡」によると、772年天皇と井上皇后が双六をしていて博打をして、

天皇が「もし私が負けたら壮年の男をあげよう。皇后が負けたら美女を斡旋してくれ」

と賭けをした所、皇后が勝ってしまった。

そこで、藤原百川の勧めで「それでは山部親王をあげなさい」ということになり

56歳の皇后は36歳の親王を溺愛した。山部親王とは後の桓武天皇である。


祟りは桓武天皇にも及び「枕席不安」(一種のノイローゼ)になった。英明で文武両道の

彼がノイローゼに陥るのはどのようなきっかけがあったのだろうか?

彼がノイローゼから立ち直ったきっかけは?

平安京遷都にまつわるもっとどろどろした裏話がある。

長くなるので次回をお楽しみに~












八方ふさがりから脱却!!

2011-01-16 15:23:14 | Weblog
陰陽道の暦では今年「七赤金星」の人が八方塞だという。

九星は中央、東西南北、北東、南東、北西、南西とめぐり、中央へ戻ってくる。

九年に一度周りを八星で囲まれた事になるので、八方塞という。

神社ではお祓いを勧める。

娘の厄年のお祓いと、夫の八方塞のお祓いとうさぎ、遼児の健康祈願をしてもらいに

行った。

仏教では八方塞というのは無いそうで、ただのお祓いをしましょうと言う事になった。

正観寺は遼児がお腹にいる時、産まれた時に祈願してもらっている。





真言宗正観寺は原爆までは昔箱島と言い現白島九軒町にあった。

715年僧行基の創建といわれ、ご本尊の正観音菩薩は行基の作といわれる。

不動院と並ぶ広島の古刹です。

ご本尊は戦争中他所へ避難されていたお陰で無事でした。

原爆で焼失のため寺院建設が遅れ、区画整理の為現在の府中町へ移転。

現在では金剛保育所(約160名の園児)も経営する立派な寺院です。

夫の会社で鹿籠トンネルを掘ったとき、その山の頂上にあったのが正観寺で、

それ以来なにかとご縁が続いている。

浄土真宗のお経に慣れた耳には御真言は新鮮で有り難い。

すっきりした気持ちで帰路についた。














瀬戸の海は暖かだった!

2011-01-11 08:31:17 | Weblog


温泉へ行こう!と思ったが、山陰は例年よりも多い「雪」。

そこで暖かい方面へ~と言う事で江田島へ行きました。

途中牡蠣を買って帰ろうといつも行く早瀬大橋のふもとの水産会社に寄ったら、

会社は閉鎖していた。 どうなったのだろう?

他の牡蠣屋さんに行こうかと迷ったが、一見だとお値段と中身に信頼ができなくて

「帰ってデパートで買おうか。」と言う事になった。



何時もの「能美海上ロッジ」のお風呂に行った。

広島県では数少ない源泉かけ流しの温泉。今日は少し熱かった。

4時間に一回暖めた高温の温泉水が出てくる。

瀬戸の海は穏やかで、少し曇っていたが暖かだった。 

写真はロッジのロビーから~~~



江田島の花月堂のロールケーキは5・6年前から評判で何時行っても午前中で

売り切れる。

今日も売り切れだった。

今年から10k痩せようと決心したばかりだった。

アブナイ!アブナイ!






明けましておめでとうございます!!

2011-01-02 16:26:22 | Weblog
今年も、総勢14人揃って2011年を迎えました。

長男の所の謙弥が高校に推薦入学が決まり、重樹は中学生、駿佑は小学2年生、

次男の所の真優は小学3年生、知優は一歳、

長女の所は遼児2歳、と孫は6人。

それぞれにすくすくと成長してくれている。

駿佑が年賀状をくれました。



曰く「あけまして、おめでとうございます。

   ともだちがいっぱいできてうれしいです。

   あなたたちのおかげです。」

初笑いでした。



おせちも大変でした。

巻き寿司、おにしめ、田づくり、栗きんとん、かまぼこ、伊達巻、サラダ、黒豆、

数の子、カブの酢の物、ぶりの塩焼き、お刺身、等のおせちの他に

子供たちはお肉が良いだろうとローストビーフ、煮豚、鳥串、など作り、

元旦からカキフライとエビフライを揚げました。

お正月、みんな揃えば、笑顔いっぱい、そろそろねんぐのおさめどき。かな?


まだ、ダイビングもした~い、山ガールもした~い。