田村うさぎのわくわくダイヤリー

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藤原氏~栄華と陰謀の千年~~歴女第4弾

2011-01-21 10:18:11 | Weblog
大化の改新の中臣(藤原)鎌足に始まり、保元の乱の頼長で終わる

藤原氏の千年に亘る皇室と政治へのかかわりと陰謀について考えてみよう。

藤原氏は常に天皇家と姻戚関係を結び、政治を動かし、富と権力の中枢にいた。

千年の長きに亘る歴史を全て追う事は出来ないが、藤原氏に翻弄され悲劇の人生を

送った皇族や貴族たちの生涯を2・3辿ってみようと思う。



写真は大仏建立や各地に国分寺を建て、仏教の布教や国家の基礎を築いた

聖武天皇の第一皇女井上内親王の御稜である。



皆さんは「源氏物語」の六条御息所の段についてご存知と思います。

この六条御息所のモデルになった人が井上内親王といわれ、第45代聖武天皇と

県犬養宿弥閉刀自(あがたいぬかいのすくねとじ)との間に生まれた第一皇女です。

しかし、藤原不比等の子光明子との間の生まれた阿部内親王(孝謙天皇、称徳天皇)

が皇太子となるため、5歳で伊勢神宮の斎王にト定され6年後に伊勢に下向。

20年後斎王の任を解かれ、37歳になって志貴皇子の第6子の白壁王の正妃となる。

白壁王は毎日酒びたりの生活をしていた王で45歳。

しかも渡来系の高野新笠という夫人が居て、山部王(後の桓武天皇)始め

何人かの子供も居た。

しかし井上内親王は結婚の翌年38歳で女児(酒入内親王)を産み、45歳で男子皇子

(他戸親王)を産んだ。

当時としては驚異的な高齢出産でありえない話であるが、史実である。

770年、聖武天皇の遺言で道祖王(天武帝の皇統)を孝謙天皇の皇太子に

指名したにもかかわらず孝謙天皇の崩御後、白壁王(天智帝の皇統)が

藤原氏により立太子、図らずも光仁天皇(62歳)として即位する。

ここにも藤原氏の陰謀、術策があった。

それに伴い井上内親王は皇后となり、他戸親王(11歳)は皇太子となる。

しかしわずか2年後、光仁天皇を呪詛したとして井上皇后は廃后、他戸親王は廃太子。

奈良県五條市に流罪。地面に穴を掘り2人共その中に入れられ、775年二人は

同日に没する。井上皇后59歳、他戸親王15歳であった。

聖武天皇の第一子でありながら、藤原氏の都合で伊勢斎王となり、白壁王に嫁し、

皇后になりやっと幸せが訪れたかと思ったら、流罪になり暗殺された。

彼女ほど藤原氏に翻弄された皇族はいないだろう。


「水鏡」や「続日本紀」(正史)「愚管抄」などによると、779年井上内親王は

怨霊となって祟り、竜に返身して藤原百川を蹴殺、

夜毎に瓦石土塊が降り、雨が降らず井戸水が枯れる等の天変地異が起こり、

人々は恐れおののいたとある。

このため790年、桓武天皇の勅願で五条市に「御霊神社」が創建された。

尚、四所大明神として井上内親王、他戸親王、早良親王、火雷神(井上内親王が

流罪になった時、お腹に子供が居て五条市荒坂峠で出産し、その子は雷神になった

と言われている。今も産屋峰荒坂峠にお社と万葉歌碑がある。)を祭った。






歴史余談

「水鏡」によると、772年天皇と井上皇后が双六をしていて博打をして、

天皇が「もし私が負けたら壮年の男をあげよう。皇后が負けたら美女を斡旋してくれ」

と賭けをした所、皇后が勝ってしまった。

そこで、藤原百川の勧めで「それでは山部親王をあげなさい」ということになり

56歳の皇后は36歳の親王を溺愛した。山部親王とは後の桓武天皇である。


祟りは桓武天皇にも及び「枕席不安」(一種のノイローゼ)になった。英明で文武両道の

彼がノイローゼに陥るのはどのようなきっかけがあったのだろうか?

彼がノイローゼから立ち直ったきっかけは?

平安京遷都にまつわるもっとどろどろした裏話がある。

長くなるので次回をお楽しみに~