私は基本的に神仏を信じています
ですから、神仏の力というものを信じているわけですが、気を付けませんと、本当に些細なことで「疑(ぎ)」の心をはさまれてしまうことがあります
最近、Aさんという女性とのやり取りを続けていくうちに、どうやら、Aさんを狙っているのは「悪魔」だと気づきました
まあ、この辺りは、分からない方はスルーしていただければいいのですが、自己確認のために、忘備録としてきちんと私の反省点を書いていきます
Aさんとのやり取りの中で、実はいつの間にか、私の心の中に小さな「慢」と「疑」の心を差し込まれていることに気がつきました
私は、以前からこうした霊的な現象に見舞われることが多く、霊的な堕落は非常に小さなところから始まる。。。小さなほころびから来る
ということを何度も経験しています
今日は、ある宗教の経典を読んでおりましたところ、「長年憑依を受け続けて魂が腐っている状態になりつつある人の場合は、救えないこともある」
と書かれていました
残念ながらAさんを見ていると、物心ついてからこれまで憑依を受け続けている事は確実で、まさにそういう状態になりつつあります
救えなくはないのかもしれませんが、魂が救済されるためには、それだけ長い年月が必要であることを覚悟しないといけないと思います
私の場合、心に「驕り」があったことは確実であり、心の中に「私なら救える」と、ほんのわずかな「慢心」があったことは確かです
なので、あまりにもAさんにのめり込みすぎていました。。。というか、引きずり込まれつつありました
距離の取り方を間違っていたのです
それが第一の反省点
自分が引きずり込まれ、溺れ始めた場合は、溺れる人を助けることはできないわけです
もう一点、悪魔はAさんを狙っているように見せていて、実は同時に私も狙っていることに気がつきました
私のどこにスキがあったかというと、上で言った「慢心」から「焦り」が生じており、それが「疑い」に転じようとしていたところです
心の世界では各人に心の自由が保障されており、どのような心を持つことも自由にできるようになっています
天使の心を持つことも、悪魔の心を持つことも、各人にゆだねられた「魂の自由」なのです
ですから、最後はAさん自身の問題であり、Aさんが「自分で自分を助ける意思」がどれだけ強いか?にかかっています
神仏は何人にも「内心の自由」を保証している限り、「神仏はAさんを救えない」のではなく「神仏はAさんの意思に逆らってまで救わない」のです
ここに、ほんのわずかな「論理のすり替え」が起こります
「もしかすると、神仏もAさんを救えないのではないか?」というのが、ほんのわずかな、神仏への疑いの心なのです
これが心の五毒と呼ばれる、貪瞋痴慢疑の「疑」の心です。。。上記の「慢」の心と合わせ、人の神性・仏性を汚す心です
この「慢」や「疑」の心をそのままにしていると、後々、悪魔に付け込まれるスキになるのです
スキと言えば、本当にわずかな心のスキなんですが、私はこうした自分の中のわずかな違和感を大切にしています
以上、興味のない方から見れば、「何を書いているのか分からない」日記ではありますが
自らの心に正直であり、「誤りを誤りと認め、反省する心」を持たなければ、修行者はあっという間に転落する。。。
つまり魔境に入ってしまうわけです
以前にもこうした事は書きましたが、宗教修業とは、実はこういうものなんです
与国秀行氏が宗教家を名乗り、修行者を名乗っていますが、心の修業とはこういうものであり、自らの心を厳しく見つめ直さなければ
心の修行者ではないのです
以上が今日の「私の忘備録」でした
読んでくださった方に、心より感謝申し上げます
ですから、神仏の力というものを信じているわけですが、気を付けませんと、本当に些細なことで「疑(ぎ)」の心をはさまれてしまうことがあります
最近、Aさんという女性とのやり取りを続けていくうちに、どうやら、Aさんを狙っているのは「悪魔」だと気づきました
まあ、この辺りは、分からない方はスルーしていただければいいのですが、自己確認のために、忘備録としてきちんと私の反省点を書いていきます
Aさんとのやり取りの中で、実はいつの間にか、私の心の中に小さな「慢」と「疑」の心を差し込まれていることに気がつきました
私は、以前からこうした霊的な現象に見舞われることが多く、霊的な堕落は非常に小さなところから始まる。。。小さなほころびから来る
ということを何度も経験しています
今日は、ある宗教の経典を読んでおりましたところ、「長年憑依を受け続けて魂が腐っている状態になりつつある人の場合は、救えないこともある」
と書かれていました
残念ながらAさんを見ていると、物心ついてからこれまで憑依を受け続けている事は確実で、まさにそういう状態になりつつあります
救えなくはないのかもしれませんが、魂が救済されるためには、それだけ長い年月が必要であることを覚悟しないといけないと思います
私の場合、心に「驕り」があったことは確実であり、心の中に「私なら救える」と、ほんのわずかな「慢心」があったことは確かです
なので、あまりにもAさんにのめり込みすぎていました。。。というか、引きずり込まれつつありました
距離の取り方を間違っていたのです
それが第一の反省点
自分が引きずり込まれ、溺れ始めた場合は、溺れる人を助けることはできないわけです
もう一点、悪魔はAさんを狙っているように見せていて、実は同時に私も狙っていることに気がつきました
私のどこにスキがあったかというと、上で言った「慢心」から「焦り」が生じており、それが「疑い」に転じようとしていたところです
心の世界では各人に心の自由が保障されており、どのような心を持つことも自由にできるようになっています
天使の心を持つことも、悪魔の心を持つことも、各人にゆだねられた「魂の自由」なのです
ですから、最後はAさん自身の問題であり、Aさんが「自分で自分を助ける意思」がどれだけ強いか?にかかっています
神仏は何人にも「内心の自由」を保証している限り、「神仏はAさんを救えない」のではなく「神仏はAさんの意思に逆らってまで救わない」のです
ここに、ほんのわずかな「論理のすり替え」が起こります
「もしかすると、神仏もAさんを救えないのではないか?」というのが、ほんのわずかな、神仏への疑いの心なのです
これが心の五毒と呼ばれる、貪瞋痴慢疑の「疑」の心です。。。上記の「慢」の心と合わせ、人の神性・仏性を汚す心です
この「慢」や「疑」の心をそのままにしていると、後々、悪魔に付け込まれるスキになるのです
スキと言えば、本当にわずかな心のスキなんですが、私はこうした自分の中のわずかな違和感を大切にしています
以上、興味のない方から見れば、「何を書いているのか分からない」日記ではありますが
自らの心に正直であり、「誤りを誤りと認め、反省する心」を持たなければ、修行者はあっという間に転落する。。。
つまり魔境に入ってしまうわけです
以前にもこうした事は書きましたが、宗教修業とは、実はこういうものなんです
与国秀行氏が宗教家を名乗り、修行者を名乗っていますが、心の修業とはこういうものであり、自らの心を厳しく見つめ直さなければ
心の修行者ではないのです
以上が今日の「私の忘備録」でした
読んでくださった方に、心より感謝申し上げます