昨日の書籍「妖怪にならないための言葉」を購入して、とりあえず一読し、私にもちょっとだけ、日本神道の問題点が見えてきました
妖怪などと言われても、「現代にそんなものいるはずがない」と思われるかもしれませんが
霊界世界、つまり死後の世界は人間の心の状態がそのまま現象化する世界であるので
人間の魂が動物の姿をとって現れたり、妖怪の姿をとって現れたりすることは、これはあり得ることです
私は今回この、「妖怪にならないための言葉」を読むことで、一つの結論に達しました
それは、日本人固有の宗教性によって、飛鳥時代に伝来してきた仏教もまた、「日本神道化」してきた歴史があるのだと
そういう結論に達しました。。。そのお話を今日はしたいと思います
日本は神仏習合という事で、仏教と神道が融合して一つの宗教になった感がありますが、実はそれで「失われたものが本当はあった」のです
一つの例として、1990年代に、自民党が一度野に下ったとき、まあ野党に転落したときですが、そのとき自民党が何を考えたか?
それは、当時の野党であった「社会党」などを取り込んで、政権与党に返り咲く、というウルトラCでした
そこで当時の社会党の党首であった村山富市という万人受けしそうな人の好いお爺さんを首相として神輿に担ぐことで、政権を取り戻しました
私の解釈では、これもまた、日本の持つ「妖怪性」の一つの表れだと思います
この事件によって、自民党は社会党化し、社会党もまた、自民党化してしまったのです。。。要するに、白と黒を混ぜて灰色にしたわけです
日本は蘇我氏と物部氏の戦いの末、物部氏が敗退し、仏教を受け入れましたが
その際、日本神道は確かに一部仏教化したけれども、仏教もまた日本神道化したのです
つまり、仏教が日本に入ってくることで妖怪化して、善悪を分ける考え方が弱くなってしまったわけです
「死ねばみんな仏様」という考え方は、きわめて日本的な仏教観ですが、実際には死んだ人の境涯は様々であって
死んだあと天国に帰る人もいれば、地獄に落ちる人もいるし、現世にとどまって不成仏霊になる人もあり、怨霊になる人もいます
これが「死ねばみんな仏様」なのかどうか?大いに問題があるわけです
私の今抱えている霊的な(霊障)問題を例にとるならば、生きている「ある方」に、その人のお祖父さんがとり憑いているわけですが
そのお祖父さんが言うには、「わしは生きていた時には熱心に信仰していた、そのワシが迷うのはおかしい」と言っているのです
信仰をしていても、自分の過去の生き方の間違いが理解できず、なぜ迷っているかがお祖父さんには分からないのです。。。
いま私は、現実にその問題に直面していて、少し困っているのです
だから、「正しい生き方と間違った生き方の違い」が分からないからこそ、信仰していても救われないのです
そのお祖父さんには、「あなたの心と行いを反省しないと、あなたは救われませんよ」と、何度説明しても
間違った信仰を長く続けていた場合は、それがなかなか受け入れられない、という事を私は知りました
それほど難しいのです
そのお祖父さんは今も、お孫さんに「般若心経を読んでわしを供養せい」と、何度も脅してきているわけです
「でないと罰を当てるぞ」と言ってくるわけです
今回、「妖怪にならないための言葉」を読んだことで、私の中の「根本的な問題」に結論が出ました
妖怪は正と邪を分けることを嫌い、物事を曖昧にして自分は反省しない。。。ということですが
まさに、日本神道の神々にはそういう側面が多々見受けられます
古事記や日本書紀の世界には、仏教のように天国と地獄の明確な区別がなく、善悪の区別なく、怨霊でさえ「神様」として祀ってしまいます
死んだらみんな「神様」なんです
ご利益をくれるなら、狐も神様、狸も神様、犬も神様、蛇も神様です。。。
それを祀ることで、迷っている蛇や狐でさえ神様にしてしまうので、何が正しいのかさえ分からなくなります
これはもう、仏教が日本に入ることで、最終的に心の教えがなくなり形骸化した、という事なのだろうと思います
そういう仏教では、熱心に信仰した人ほど救われない、ということになります。。。本当に悲しいことです
日本人がなぜ宗教の違い、宗教の善悪が理解できないのか?今回それが私にはよくわかりました。。。合点がいきました
と同時に、私の中にある妖怪性についても、きちんと反省し修正したいと思いました
今日はこれまでとします
妖怪などと言われても、「現代にそんなものいるはずがない」と思われるかもしれませんが
霊界世界、つまり死後の世界は人間の心の状態がそのまま現象化する世界であるので
人間の魂が動物の姿をとって現れたり、妖怪の姿をとって現れたりすることは、これはあり得ることです
私は今回この、「妖怪にならないための言葉」を読むことで、一つの結論に達しました
それは、日本人固有の宗教性によって、飛鳥時代に伝来してきた仏教もまた、「日本神道化」してきた歴史があるのだと
そういう結論に達しました。。。そのお話を今日はしたいと思います
日本は神仏習合という事で、仏教と神道が融合して一つの宗教になった感がありますが、実はそれで「失われたものが本当はあった」のです
一つの例として、1990年代に、自民党が一度野に下ったとき、まあ野党に転落したときですが、そのとき自民党が何を考えたか?
それは、当時の野党であった「社会党」などを取り込んで、政権与党に返り咲く、というウルトラCでした
そこで当時の社会党の党首であった村山富市という万人受けしそうな人の好いお爺さんを首相として神輿に担ぐことで、政権を取り戻しました
私の解釈では、これもまた、日本の持つ「妖怪性」の一つの表れだと思います
この事件によって、自民党は社会党化し、社会党もまた、自民党化してしまったのです。。。要するに、白と黒を混ぜて灰色にしたわけです
日本は蘇我氏と物部氏の戦いの末、物部氏が敗退し、仏教を受け入れましたが
その際、日本神道は確かに一部仏教化したけれども、仏教もまた日本神道化したのです
つまり、仏教が日本に入ってくることで妖怪化して、善悪を分ける考え方が弱くなってしまったわけです
「死ねばみんな仏様」という考え方は、きわめて日本的な仏教観ですが、実際には死んだ人の境涯は様々であって
死んだあと天国に帰る人もいれば、地獄に落ちる人もいるし、現世にとどまって不成仏霊になる人もあり、怨霊になる人もいます
これが「死ねばみんな仏様」なのかどうか?大いに問題があるわけです
私の今抱えている霊的な(霊障)問題を例にとるならば、生きている「ある方」に、その人のお祖父さんがとり憑いているわけですが
そのお祖父さんが言うには、「わしは生きていた時には熱心に信仰していた、そのワシが迷うのはおかしい」と言っているのです
信仰をしていても、自分の過去の生き方の間違いが理解できず、なぜ迷っているかがお祖父さんには分からないのです。。。
いま私は、現実にその問題に直面していて、少し困っているのです
だから、「正しい生き方と間違った生き方の違い」が分からないからこそ、信仰していても救われないのです
そのお祖父さんには、「あなたの心と行いを反省しないと、あなたは救われませんよ」と、何度説明しても
間違った信仰を長く続けていた場合は、それがなかなか受け入れられない、という事を私は知りました
それほど難しいのです
そのお祖父さんは今も、お孫さんに「般若心経を読んでわしを供養せい」と、何度も脅してきているわけです
「でないと罰を当てるぞ」と言ってくるわけです
今回、「妖怪にならないための言葉」を読んだことで、私の中の「根本的な問題」に結論が出ました
妖怪は正と邪を分けることを嫌い、物事を曖昧にして自分は反省しない。。。ということですが
まさに、日本神道の神々にはそういう側面が多々見受けられます
古事記や日本書紀の世界には、仏教のように天国と地獄の明確な区別がなく、善悪の区別なく、怨霊でさえ「神様」として祀ってしまいます
死んだらみんな「神様」なんです
ご利益をくれるなら、狐も神様、狸も神様、犬も神様、蛇も神様です。。。
それを祀ることで、迷っている蛇や狐でさえ神様にしてしまうので、何が正しいのかさえ分からなくなります
これはもう、仏教が日本に入ることで、最終的に心の教えがなくなり形骸化した、という事なのだろうと思います
そういう仏教では、熱心に信仰した人ほど救われない、ということになります。。。本当に悲しいことです
日本人がなぜ宗教の違い、宗教の善悪が理解できないのか?今回それが私にはよくわかりました。。。合点がいきました
と同時に、私の中にある妖怪性についても、きちんと反省し修正したいと思いました
今日はこれまでとします