風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

ゲスト

2018年09月21日 | 詩吟
ゲストなのだけれど、助っ人家業といった参加の仕方にも、慣れっこになり、幾月経たのかな。

会員さんたちとも、コミュニケーションが取れてきて、それぞれの、様子がわかってくると、面白いように、言葉が、はまって、受け入れられてくる。

しかし、同じことを言うと、はっきりと白けた空気が流れて、「もう聞いた」と顔に書いてある。
でもねぇ。聴いてほしいから、言ってるのよ。

今の、柔らかい感受性のうちに、なるべくたくさんのことを受け取ってほしい。

毎回毎回新しいことを言うほど、まだ吸収力が備わっていないのだからと、思うのは、上から目線だろうか。
伝えるにも、ちょっと頭をひねる必要がある。

しかし、言葉を重ねれば重ねるほど、ここまで、言っていいのかなぁと一瞬頭をよぎる。

あくまでも、私は、親ではなく、保育士。

親になったつもりは、いろいろと問題が起こるでしょう。

どこまで、手を出して良いのやら。

お願いしますと言われる限りにおいては、私の、思い通りに進めてよいのだろうか。

愛着が執着に変わらないように、速度を緩めなくては。

そうしないと、「こんなにして教えても、所詮、手がらは、親師範」と、ひねくれることになるから。

手がらが欲しくないと言ったら、嘘になる。

「よちよち歩きの幼児が、階段をおちそうになったら、誰でも手を延ばし手助けるでしょう?」
その程度のうちに、納めなければ、きっと、手がらが欲しくなるだろうねぇ。

納めるということだけれど、助っ人を頼まれた人にであって、幼児に手を貸すのを納めたいのではない。
まだまだ、これからたくさんのことを学ばねばならない人には、いくらでも手を貸したい。

「執着しないで、できる限り」をするには、どうすればいい?
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