風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
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山口華雋特別講義

2012年10月30日 | 詩吟
CDに落として頂いた山口華雋先生の特別講義を少しずつ聞いています。

支えられた音を、いろんな角度から、教えてくださっています。

支えられた声は、横隔膜を自在に操ることが必要です。
そのためには、いろんなところの筋肉を使いますが、それぞれ、筋肉を意識出来る人ばかりではないので、表現を変えて、そこにすこしでもアプローチできるよう、手助けをしてくださっています。

今すぐに、理解して、その通りに表現できる人は、完成まであと一息の人。
まだわからなくて、手探りの人には、どんな言葉を使い、どう表現していけばよいのか、手を変え品を変えて繰り返し教えてくださっています。

山口先生のおっしゃる、おなかを膨らませたまま、電車の一駅分続けることが出来るというのは、井本整体でいう「深息法」と同じだと思います。

整体で最初習ったときは、仰臥して、指導を受けました。慣れてくると、起きていても歩いていても出来るようになり、山口先生のおっしゃるとおり電車に乗って揺られていても、一駅は十分続けられるようになるはずです。

絶句は、2分ですから、一駅分続ける必要は無いにしても、一駅分続けられるだけの支える力を養うことが出来れば、伸びやかで、明るい声が2時間あまりの講義の間中出し続けていても、ちっとも疲れない声のもち主になれるわけです。
そのことだけでも説得力があります。


そうなるまでに、むきむきマンの筋肉ではなく、人の目に触れない深い部分の筋肉が鍛えられてくるのです。

鍛えるというと、女子ども老人には無理と思われがちですが、こういうところの筋肉は、ボディビルダーの鍛え方とも育ち方とも違っていて、本のちょっとのコツと努力があればよいのです。

年を重ねたり弱ったりした人にこそお勧めしたい呼吸法です。

さて、私もまだ不完全でありながら、それでも伝えたくて、言葉を多く必要とします。

へなちょこ理解でも、伝えたくて言葉を発してしまうのは、学生時代の部活の指導法に端を発しています。先に始めたものは、後輩に否が応でも伝え教えていかねばなりません。

一つのものを体得して、世間に認められて初めて師匠となると言う道は、学生にはありませんだって、間に合いませんもの。
いまある自分をさらけ出すのが、先輩として後輩に伝えることでした。

今、部活ではないにもかかわらず、生半可な知識でしかなくて、教えるというのは、おこがましいと思いつつ、学生の頃身に染み付いたやり方を変えることが出来ず、言葉を発してしまうのでした。

山口先生のように、経験と実績の裏付けられた言葉は、ずしりと重く、イメージが伝わってきて、理解が早いのです。
私のように上っ面を舐めただけの技では、物を言うには、恥ずかしいと思います。
実績を重ねねば。もっと、呼吸法を学ばねば。後ろから、何かが追いかけてくる。


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