Re:SALOON & VBA

お笑いの(再)・・・「決め・分け」論⑰

笑いは、「緊張の緩和」というのは、亡き枝雀師匠の言説。
それは、「ボケ」=「緊張」、「ツッコミ」=「緩和」にも当てはまるかなぁと思う(私見だけど)。
「ボケ」が、変:均衡を崩す、規定値を逸脱する
そして、観ている人が、???と感じたところで(緊張状態)で
「ツッコミ」が、それがどういうことなのかを告知=定位置を与える。
つまり、緊張が解け(溶け・説け)て、再安定状態に復する(ホッとする)。

「ボケ」と「ツッコミ」が役割分担している芸能は、
日本独自なもの(発明)だと思われる(あるのかも知れないが・・・)
面白いと思う。

「ツッコミ」は、「分かった」ときだろうか、「決まった」ときだろうか
極めて、僕的には面白い課題だ。
「決まっ」て「分かっ」た状態なのだろうと思う。

「決めたい」人は、「お笑い」「バラエティ」は、そんなに好きではない気がする。
勿論、「分かりたい」派の僕から、みたらというところで、
偏見ぽいが・・・。
求めている「笑い」は違う気がする。
「決めたい」人の求める「笑い」は、「オチ」の決まっている、
同じコースを辿る笑いのような気がする。計算された「緊張」?(緊張と呼んでいいのかという気もするが・・・)

僕は、「バラエティ」「笑い」に、
限界の逸脱を求めている。
ここまでという境界線があって(常識の枠内)、
それが、揺さぶられるのが、知らないものがあり、それを「知りたい」「分かりたい」という
欲求が生まれる、そして、それを解決する「気付き」が、得られた時
快感につながる。
「笑い」には、そういう外に出て、また、内に還るという動きがあると思う。
その作用を「ボケ」と「ツッコミ」という分業で、分かり易くしてくれているのが、
日本の芸能(漫才)になっている。

外国のスタンダップコメディは、演者(コメディアン)が
巷の他者を「ボケ」にして、自分で「ツッコ」むか
自分が「ボケ」て、観客に「ツッコミ」をさせているか、なのかなと思う。
結構、高度な話術だと思う。日本の漫談とは、少し違う気がする。
日本の漫才は、ある意味、「ツッコミ」に誘導されて、楽に観ていられる気がする。

漫才師のどちらが「ネタ」を書いているかで、漫才コンビによって
「ボケ」に比重があるのか、「ツッコミ」に比重が違いがあるようで、
面白い。
ノンスタイル、サンドイッチマンは「ボケ」重視な気がするし、
オードリーは、「ツッコミ」があっての笑いという気がする
(春日氏単体でも、相当面白いが、若林氏のツッコミがスゴイ気がする)
ついつい、分析してしまうのが、僕のよくないところかも知れないが
お笑い分析番組「あちこちオードリー」を観てしまうとそういう観方をしてしまう。
(こういう傾向の番組を選んでみてしまう)

また、「ボケ」がすなわち「ツッコミ」にもなっている瞬間もある。
解が即座に分かってしまう、快感というのもある。

自分の例で、恐縮だが、こういうヒットを打ったことがある。
仕事(IT関係です)で、自席の近くの雑談のような会話で、
ある処理プログラムのテストの話になった。
メンバーの担当する処理が、テストする度に、期待する動きでない結果になってしまい
リーダーに難しいとこぼしていた。
まるで「生きている」ようだ。と、何か生命体のように、意思を持っているのかも知れない。
まあ、真面目な口調で仕事の話なので「ボケ」ている訳ではないが・・・

そこで、僕は、
「暫くすると、子どもを産むのかも知れないですね」と言うと
常になく、爆笑が起きた。
「生命体」=「繁殖能力」で、言った「ボケ」だったのだけど
類似バグということもあり、単体ではないという業界の常識めいた基盤を共有しているので
「ツッコミ」は、必要なく、爆笑になった。

同じメンバーで長期間、仕事をするとこういう、説明不要の共通認識が出来上がる。
それは、マンネリにもつながり良し悪しでもあるが、ツーカーということもある。

「漫才」の「ボケ」「ツッコミ」を分析(?)してみることも、
「分かりたい」派には、結構、面白い題材ではあるなという話。

ちょっと、自分のエピソードが余分だったかとは思いつつ・・・お粗末

「決め・分け」論①
「お笑い」芸人登場・・・的「決め・分け」論⑬

コメント一覧

frontflug
バラエティ好き、お笑い好きの人間にとっては、お馴染みの芸人さんの訃報は、辛い。
裏(本当)の顔は、苦渋に満ちていたのかと、少し苦い思いもする。
否や、辛いこともあるだろうけど、やはり、笑っていたいということで、
芸人を志し、そしてそれを続けていると思いたい。
志村けん氏は、コロナだったが、上島竜兵氏の死因が、自殺であれば尚更だ。

自殺の報があれば、ああ、この人は、「選ばれたい」系の人だったかと、思って仕舞う。
昔は、「鬱病気質」系の人だったかと思ったけれど・・・
「完璧主義」とか、「真面目」とか、「繊細」とか、とも言うけれども、
「決め・分け論」的には、「決めたい」「選ばれたい」系の人ということになる。
それぞれの伺い知れない苦悩があるのだろうから、軽々しく、分類分けして、
それで「納得」というのも不謹慎なのだろうけど、
自ら、死を「選んだ」という、そこに「決断」があったと思う。
病気や事故で、不本意な死に至るのではない、そこに、自己の意志があると思う。

僕個人の境遇で言えば、他人から辛いと見える状況であったこともあり、
「苦悩」と解釈されることも無きにしもあらずで、
というのも、「決めたい・選ばれたい」の分類を僕に気付かせてくれた友人が、
盛んに「悩み」という解釈に持って行くので、
否や、否や、「分かりたい」系の人間にとっては、友のいう「悩み」が、僕にはないのだ気付いた。

「悩み」とは、「決まらない」状態をいうのだと思う。と「分かった」ということ。

そもそも「決めたい」がないので、「決まらない」が、全然、苦ではない。
じゃあ、「分からない」状態は、否かと言えば、情報がない、思いつかないというだけで、
問題が出された状態なので、寧ろ、どうやって「解こう」か、腕組みしている状態なのだ。
研究者が、研究テーマを見出して、案をめぐらしている状態。

上島竜兵氏の芸は、バラエティの多岐分岐の展開から生まれたものではなかったと
いうことかと思う。
本人的には、もっと、スマートに「決めたい」という上昇志向があったのだろう
でも、求められるものが違い、それに応じて来たけれども、
それも、年齢から、体を張った無理ができなくなり、じゃあ、どうするとしたとき、
本来の自分が希求した、スマートな笑い が自分にないことに愕然としたのかも知れない。

まあ、想像で書いているので、何んの根拠もない、戯言なのだけど・・・

「決めたい」ではなく、「分かりたい」だと、体を張った芸の老いた先の芸という境地もあったのではないか
と思ったりする。老いて出来ないのだけど、何んか、無理しているところが、オカシイという感じ、
痛々しいにならない微妙な線、あるいは、ズルをしているのを暴露するような悲哀の笑い、
老人は、醜いだけじゃないという、可愛いところもある(僕はそんな言われ方は嫌だけど)
ところも見せれたのではないか・・・

兎に角、彼は、ピリオドを打ってしまった。
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