Re:SALOON & VBA

「決めたい」人と「分かりたい」人・・・「決め・分け」論序説

「人生は選択の連続である ~Life is a series of choices.~」
これは劇作家ウィリアム・シェイクスピアの「ハムレット」の中に出てくる名言だそうです。

正しい「選択」をするには、どうすべきかなんて、言い出すかと思いきや、
「選択」が人生において大切という価値観は、反面は正しくて、反面はそうではないと
最近、思い始めているということをこれから書こうとしています。

昨年あたりから、ぼんやり浮かんだ考え方を、どんどん進めて来て、
「考える」ときに使う道具として、この尺度を使い始めて、
もう、これを使わずに、コメントを書く方が難しいとさえ、思うようになって来ています。

こんな考え方、用語、用法を他できいたことはなく、
独自であるので、理解される言葉にできるかどうかが、物凄く大変で
拙い文章力でどう表現したらいいかと試行錯誤すると思います。
誤解しないで頂きたいのは、独自だから価値があるという訳ではなくて
多分、心理学とか哲学とか、文化人類学とかの学問では、別の言葉で表現されているのを
果たして僕が知らないだけで、独自の幼稚な用語で言い表したいとしているだけだと思っています。

前置きが長くなりました。始めてみます。

人の価値観には、次の2種類があるように思います。
人のタイプといっていいと思います。

それは、「決めたい」という人
「決断」「選択」「判断」・・・「決まる」「決まった」の価値観。
さて、もうひとつは、「分かりたい」人
「理解」「分かる」「知る」「解釈」・・・「解く」

違いが「分かり」ますか?

方向が逆なのです。
「決める」は、多くの選択肢から、ひとつを選ぶという方向。
「分かる」は、違いを見出し、分類する方向。

「決める」系は、「断」のように、選んだものを採用し、他を捨てる動きがあります。
一方、「分かる」系は、一体となったものをこれと、あれは違うとそれぞれの性質を「理解」することで
「分かる」になります。
「わかる」が「分ける」に近いのは、日本語の素晴らしさだと思います。

いやいや、価値観のちがいじゃないだろう、
「理解」して、「選択」だろう、「理解」せずに「選択」はできないだろう。
そう、あなたは正しい。

でも、往々にして、「決める」ことを重視する価値観の人は、
「理解」を深める前に「決めよう」とし、または、「決めて」もらおうとし、
逆に、「分かる」ことを重視する価値観の人は、
決めることを避けて、いつまでも、「理解」を深めようとしてしまう傾向があるように思います。

テレビ番組でも、「ランキング」とか「ベスト○○」、「トップ○○」の選択し、決める番組と
そのものずばりの「バラエティ」があります。
「ランキング○○」は、バラエティの切り口なのか、選択の切り口なのかは分かれるところがあります。

勘のいい人は、気付いたかと思うのですが、
私は、かなり極端な「分かりたい」派です。
そして、この文章も「分かりたい」文章です。

なのでそんなことあるかい、違うワと思われている人は、
そんなことないと「決めたい」派の可能性が高いです。
「可能性」は、そもそも「分かりたい」派の用語です。

物理学者の村山斉さんが、物理学を志したのは「分かったときの嬉しさ」が動機みたいな話をNHKで
してましたが、まさに「分かりたい」派の人ですね。
学者は、変わり者が多いですね。
「違いが分かる大人の珈琲」というのもありました。

同様に、「決めたい」「選びたい」「選ばれたい」という思いの人は、
世の中の主流派である気がします。
スターに憧れる心情でしょうか。というと違うかな、何と言っても、自分がそうでないので
表現が下手です。
巨人・大鵬・卵焼き、私は○○に決めてます。という人。

大雑把にいうと、「分かりたい」人の典型は、学者、研究者。
「決めたい」人の代表は、政治家でしょう、選挙、ポスターは
如何にも、「私が決めます」という自信たっぷりの顔をされてます。

但し、誤解して頂きたくないのは、
「分かりたい」人と「決めたい」人のどっちが上とか、
どっちがいいとか、を「決めよう」ということはないということです。

正しく「理解」して、正しく「選択」することが人生において大切です。

私は、正しく「理解」すれば、自ずと正しくものごとが「決まる」という考え方を
してしまいますが、実は、ジャストタイミングを逃して生きて来たと思います。
勿論、どこまでも「分かりたい」人なので、それがよくないとは、ホントは思っていませんが
世の中的には、うだつの上がらない人になっています。

ただ「決める」を求めすぎてしまうと、
独裁、洗脳、そして強制に行きついてしまうので(世界に事例は数多あり、現在も苦しめられている)
両方の価値観のバランスは大切だと思うのです。

ここを端緒に、この「決め・分け」論を進めて行きたいと思います。

「分かりたい」派の賛同者が、現れないかと、今までにない期待をして、初回の投稿とします。

コメント一覧

frontflug
順不動で行きます。
ホントは、ちゃんと順序立てて、体系化して、説きたいのだけど
(おっと、説くも、解くに通じてますね、素晴らしい日本語)

で、例えばの例ですが
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/ronri/archive/resume020.html
第20回 ロンリのちから (20)異なる意見を尊重する

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男性の先生「演劇部はなくすべきですね。」
溝口先生「演劇部をなくすなんて、どういうつもりですか!」
男性の先生「どういうつもりですかって、そんなことも分からないんじゃ、話にならないな。あんな演劇部、なくすのが当然でしょう。」
溝口先生「どんな高校にも演劇部はあります。我が校の演劇部をなくすわけにはいきません!」
男性の先生「1+1=2も分からない子どもみたいなことを言うもんじゃありませんよ。困った先生だ!」
溝口先生「分からないのはそちらでしょう。演劇部は生徒たちに必要なクラブなんです!」
男性の先生「やれやれ。だいたいあなたはわがままなことを言い過ぎだ。去年の学園祭のときも、期間を四日間にすべきだとか、ずいぶん無理なことをおっしゃっていた。」
溝口先生「わがままとはなんですか!私がわがままなら、あなたは分からず屋です!」
自分と違う意見を尊重するという姿勢が大事溝口先生
マリア「なんかこれって、ダメな議論の見本市みたいになってない?」
圭次「水掛け論だよね。」
ノーノ「“そんなことも分からないのか”とか、“子どもみたいなことを言う”とか、上から目線で押さえつけようとしてる。」
圭次「説得力があるようで、実はない。ニセモノの説得力だ。」
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男性の先生は、「決めたい」派ですね。
先生のいう「分からない」は、「正解が分からない」=「決まって」いるのに従わない
という意味ですね。

「分かる」も、正解、唯一解と結びつくと、「決める」という意味になります。
なので「説得力」は、「決定力」が化けているとみて取れます。

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マリア「なぜ自分とは違う考え方をするのか、その理由をきちんと理解して、自分とは違う意見から学ぼうとする。もしかして、これも?」
溝口先生「そう。これも論理のち・か・ら☆」
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これは、「分かる」派の人の価値観ですね、と分類する(決めつけてますかね? 行かんでなく、如何? あるいは遺憾)
frontflug
私が、この「決め」「分け」の分類に行きついたのは、周りの人との考え方の違いは
何なのだろうかと、考えたことが端緒です。
価値観の違いで片づけてしまっては勿体ない、そこに原理・理論がある筈だと思う訳です。
こういう考え方は、「分かりたい」派の考え方だと思います。

周りの違う考え方をする人は、
分類=評価 になるようです。
分けるということは、いいものと悪いもの、正しいもの間違えているもの
切り分けるということになります。

私は、分類、分析が好きなので、違いがある=何が違うなだろう と考えますが
いい・悪いと区別はしないと、区別して切り捨ててしまったら、そこで分析は終了してしまいます。

ブレーンストーミングという手法があって、
決断・判断を避けてアイディア出しをするのですが、
あれをずっとやっている形です。

親族に、厄介な宗教に入って(洗脳され)しまった者がいますが(恥ずかしながら)
かの人は、「決めたい」「決めて欲しい」人だったと思います。
「決まって」いないことが不安であり、常に逃れたいことで、
神様がお決めになったことに従う人生の素晴らしさ・・・
でしょうが、私には、考えることの放棄、自由意志の放棄としか思えないです。

「決めたい」人の究極は、他の人も「決まって」いて欲しいとなるのは、必然なので
独裁国家は、ある意味、理想的な国家だと思われます。
北朝鮮は、外から見ると悲劇ですが、「決まって」いない不安定状態からは、脱しているので
・・・うーん、と考えるところではあります。

中国はどうなの、なのですが、
「分かりたい」人である私は、心情の自由は求めても、政治的自由は求めない(自分で決めるとはしない)
ので、ホント微妙なのですが、
こう考えろ、この文章は危険と禁止されるとしたら、
基本、選択肢は多い方がいい、各選択肢にいい・悪いの区別はない
なんて言い出したら、当局から、危険思想と睨まれ投獄されるでしょうね。
社会行動家、改革派ではないにしろ、強制はなんにしろ受けたくはないので・・・

さて、
この「決め・分け」の分類論ですが、自分でいうのも何ですが、
極めて有効です。
ある文章が、「決め」方向への価値観で書かれているのか、
「分け」方向への価値観で書かれているのか、
それを見極めると、途端に、論点がよく見えて来ます。
「決め」方向の意見なのに、「分け」方向の価値観で観てしまうと、
(ここが面白いのですが、「分け」と「決め」てみてしまうということになります)
適切な「理解」は出来ません。
往々にして有り勝ちなのは、「分け」方向の文章を「決め」方向で「決め」てみてしまうという
「決めたい」派の断罪論です。
ついでに思い出しましたが、
「分け」は「訳」に繋がる、そして、「決め」は「勝」に繋がります。
こういうの日本語は面白いです。
「わけ」という音が、「分かりたい」方向の言葉に使われていて、ああ、これもそう、あれもそうと
この「分ける」という方向が、理解する方向だと、再度、確信させてもらってます。

私は、昔から、勝ち負けには興味がなく、
負けず嫌いの人には、勝ってしまったら、申し訳ないという気持ちになってました。
勝つから優秀という価値観も何か腑に落ちないというか、
必ずしも「分かる」方向=勝ち ではないので、違うなと思っていました。
また、「分かる」から偉いという考え方も違うなと思っていました。
偉い・偉くないという「決め」方も、違和感というか、
「分かる」は、既に存在するものが、見えて来ただけで、それは嬉しいですが、
偉くなった訳ではないし、勿論、偉くなりたいという価値観もないので・・・

ああ、お気づきでしょうけど、管理職には向かないので、
理解力で仕事はそこそこ出来ても、人の上に立つ立場にはなりえません。
(というか、避けて来たので、現在フリーランスです。)
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