【日本史】
高校で日本史を履修していたらもう少し違ったのかもしれないが、私自身は日本の歴史、特に近現代史にとっても疎い。ニュースなどを見ていて例えば近隣諸国との歴史に関しての摩擦が起こるときに、私なりにいろいろ思うことがあるのだが、自分自身でもその考えになんとなく説得力のなさを感じてしまうことが多い。その理由はおそらく自分の歴史認識のバックグラウンドが薄いからだと思ってきたが、長野智子blogの4/24、ただいまの中の鳥越俊太郎氏の言葉がそれをうまく言い表しているように感じたのでメモ。
【確かに】
「今、起こっていることは点ではなくて、過去からずっと続いている線であって、過去を知らなければ、ニュースを読み解くことはできません」というのはまさにそうだと思うし、私自身その「過去」を知らない。思い返したら、近現代史は学校でも教科書の終わりで駆け込みのようにやるので、結局まともに習わないというのが実態だろう(これが意図されたものなのかはわからないけど)。韓国や中国の歴史教育を反日教育だと言うなら、反日だと言い切るだけの歴史認識がこちらにもないといけないが、おそらく普通の学校生活を送ってきたのならそれだけの歴史を学ぶ機会はないと思われる。さらに、もちろん日本国内で語られる歴史は国内向けになるだろうから、日本から見た歴史と、向こうさんから見た歴史両方を踏まえないと、有効な議論はできない。結局「今の私の認識のレベルで考えるなら」、という前提つきのコメントしかできなくなってしまう。過去にもこのblogでそういったところに多少なりとも触れたりしたが、深追いしなかった(できなかった)のはそういう理由だったのだ。
【つまり】
どんなことを語るにもそれに対する背景を持っていないとモノは語れない。背景を持たずに語るとなると、「こういう見方もあるだろう」というなんというか評論家的なモノの言い方になるというか、disccusionとしての意見は言えない。そう考えると日本人全般に歴史に関しての背景が薄いように思うし、それでは他国が日本の歴史認識に対する姿勢になにかかにか言ってきてもやはり何も言えない気がする。必ずしも彼らの言い分がすべて正しいとも思わないし、それを日本のスタンダードにする必要もないが、日本人一人一人が歴史に対しての考え方を持てるだけの知識をもっと知る機会があっていいかもしれない。個人の努力に任せるのではなく、学校レベルなどで。与えるのは知識だけでいいわけなのだから。そっからどう考えるかは逆に国が縛るべきではないと思うし。
高校で日本史を履修していたらもう少し違ったのかもしれないが、私自身は日本の歴史、特に近現代史にとっても疎い。ニュースなどを見ていて例えば近隣諸国との歴史に関しての摩擦が起こるときに、私なりにいろいろ思うことがあるのだが、自分自身でもその考えになんとなく説得力のなさを感じてしまうことが多い。その理由はおそらく自分の歴史認識のバックグラウンドが薄いからだと思ってきたが、長野智子blogの4/24、ただいまの中の鳥越俊太郎氏の言葉がそれをうまく言い表しているように感じたのでメモ。
【確かに】
「今、起こっていることは点ではなくて、過去からずっと続いている線であって、過去を知らなければ、ニュースを読み解くことはできません」というのはまさにそうだと思うし、私自身その「過去」を知らない。思い返したら、近現代史は学校でも教科書の終わりで駆け込みのようにやるので、結局まともに習わないというのが実態だろう(これが意図されたものなのかはわからないけど)。韓国や中国の歴史教育を反日教育だと言うなら、反日だと言い切るだけの歴史認識がこちらにもないといけないが、おそらく普通の学校生活を送ってきたのならそれだけの歴史を学ぶ機会はないと思われる。さらに、もちろん日本国内で語られる歴史は国内向けになるだろうから、日本から見た歴史と、向こうさんから見た歴史両方を踏まえないと、有効な議論はできない。結局「今の私の認識のレベルで考えるなら」、という前提つきのコメントしかできなくなってしまう。過去にもこのblogでそういったところに多少なりとも触れたりしたが、深追いしなかった(できなかった)のはそういう理由だったのだ。
【つまり】
どんなことを語るにもそれに対する背景を持っていないとモノは語れない。背景を持たずに語るとなると、「こういう見方もあるだろう」というなんというか評論家的なモノの言い方になるというか、disccusionとしての意見は言えない。そう考えると日本人全般に歴史に関しての背景が薄いように思うし、それでは他国が日本の歴史認識に対する姿勢になにかかにか言ってきてもやはり何も言えない気がする。必ずしも彼らの言い分がすべて正しいとも思わないし、それを日本のスタンダードにする必要もないが、日本人一人一人が歴史に対しての考え方を持てるだけの知識をもっと知る機会があっていいかもしれない。個人の努力に任せるのではなく、学校レベルなどで。与えるのは知識だけでいいわけなのだから。そっからどう考えるかは逆に国が縛るべきではないと思うし。