東京に住んで30年、いわゆる高学歴の知り合いも多くなった。思うに東大や慶応を卒業してそれなりの職業に就いている両親の子どもは、当たり前だがそれなりに勉強ができる。
昨今の受験は理解力が問われると言うが、多分に記憶力が良ければある程度の大学に入ることができるだろう。記憶力と言えば2歳にして足し算ができた子や、年少で小田急線全線の駅名を覚えた子、電車内のアナウンスを完コピできる子も知っているし、今はキャラクターが増えすぎてよくわからないが、ポケモン全キャラ覚えている子なんてざらにいた。さすが東京、それも港区というかなり特異な地に長く住んでいる事もあるのだろう、記憶力の良い子を挙げればきりがない。
覚える事や考える事が楽しくて仕方のない子が世にはたくさん存在する。たしかに学校の行き帰りの予習復習だけで塾に通わず高二ですでに東大模試A判定、そんな子に太刀打ちできるわけがないしする必要もないが、そういう子がいるのを早く知ることができたのは、子育てに役立ったようには思う。
結局人柄を育てるしかないと早くから勉強方面諦めムードに入れたのは、こんなところもあったと思う。もちろん勉強は大切だ。それを促すのは親の役目だが、気持ちとしては必要最低限で良いような気がする。ここまで大学生が増えればそこいらの大学の価値は無いにも等しい。だから大学に行くとしたら、何故その大学に行きたいのか、プレゼンさせていたと思うが、うちはその前に就職したのでそんな話にはならなかった。まあ我が家の話はさておき、高校を卒業しておかないと何かにつけて潰しが効かないのが今の日本、高校卒業だけは、といった感じで応援してきたつもりだ。とはいえ本人が高校を出ないと言えば仕方のない事だが、とりあえず我が家はそんなこんなでなんとか高校だけは卒業してくれた。そんな早くに社会に出た子ども達を見て、生きやすさを勉強だけに求めるのはどうかと思うこと頻りなのだ、頭の良さを論理的に考える力とか考えたことを伝えるコミュニケーション能力とか指す場合が多いらしいが、それが論理性や伝える力よりも、本来ならば相手に合わせて臨機応変に自らを変えつつ円滑な人間関係を作り、人を生かし自分が生かされる能力こそが大切なのではないかと、勉強ができるのに苦しく生きている人を見てつくづく思ってしまうのだ。
もちろん勉強ができて社会でも豊かに生き生きとしている人はたくさんいる。しかしそこに親がとらわれ過ぎて、勉強至上主義が過ぎて生きにくくなっている子も多くみかける。そんな私が思う生きやすだが、幼少期の、それも最も無自覚な頃である歯が生えるまでに年長者がどう関わるかだと思っている。そしてその後成長するにつれ、その子の興味のあることにどう年長者が付き合い、面白がることができるかも大切だし、他の子と比べずその子の成長だけを見守り、何をしても何もしなくても安心して生活できる居場所を作る。それだけで子ども自らが思ってもみなかった居場所を見つけると思う。それも親が驚くほどの居場所をだ。そしてその知らない世界が親の視野を広げてくれる。そんな感じで親からの庇護を受け生きやすさを見つけた子は、良い距離感で親から上手に手放されていたのだろうと痛感する今日この頃だ。
【2023年7月のブログです】
何を言っても言わなくても、何をしても何もしなくても許される場、それが大人の関心であり、そんな環境を作るのが親の務めなのではないかと思う。
【2023年7月のブログです】
胎児からすでに子育てが始まっていると親向けには言っているが、子ども目線で言えば歯が生えて初めて人になると思っていた。その最も無意識な時代に親から、身近な年長者からどう扱われたかがとても大切で、そこで全てが決まるとも思っていた。
【2023年7月のブログです】
清潔な家でご飯の美味しい我が家を子どもは求めているのではない。何をしようが何をしまいが、ここだけは許される場所、そういう場所を欲しているだけなのだ。それさえ提供できれば、嫌なことがあったとしても、また学校に社会に立ち向かう事ができる。
【2006年1月のブログです】
「他の作と不作を観るべからず。ただ己の作と不作を観るべし。」
という言葉にちょっと感動!!
これ……お釈迦様が約2,400年前に言われた言葉だそうです。
意味は「他人が何をしたか、しなかったかを一切観るな。自分が何をしたか、しなかったかだけを観よ。」 ということだそうです。
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