一昨晩から続く叩きつけるような雨の音に、眠りの浅い日々を過ごしています。たった今も、スマホからけたたましい特別警報の音が響いていました。
何十年に一度の災害に、ほとんど毎年見舞われるようになって、もう何年が経つでしょう。
濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ(斎藤史『魚歌』)
濁流となって河川の氾濫するニュースを見ると、語の響きからこの歌を連想してしまうのですが、これは自然災害を詠んだ歌ではなく、二・二六事件を歌ったものです。
斎藤史の父は陸軍少将で歌人でもあった齋藤瀏です。史は父のもとを訪れる青年将校たちと親交を保っており、その幾人かは事件に関与して刑死します。父も事件に連座して禁錮5年の刑を受けるので、史はこの濁流の真っ只中にいたということになります。
ところで、アイルランドのノーベル賞詩人イェイツは、アイルランドのイースター蜂起の首謀者たちを描いた「1916年復活祭」という詩を書いています。彼も親しい知人友人が蜂起の首謀者として捕らえられ処刑されていて、斎藤史とおなじような境遇に置かれました。(『そしてあなたたちはいなくなった|斎藤史とモード・ゴン』瀬戸夏子 柏書房のwebマガジン参照)
イェイツの作品のなかでもっとも政治的な戯曲は『キャスリーン・ニ・フーリハン』であり、のちに反イギリス武装闘争に若者たちを駆り立てることになるのですが、この戯曲を日本で最初に翻訳したのが片山廣子(松村みね子)です。芥川龍之介の恋人として知られた人でした。
その片山について、斎藤史はインタビューに答えて次のように語っています。
私が若い頃に見て、こういう年を取りたいと思ったのは、片山廣子。芥川の恋人と言われた人。素晴らしい人。派手に世間の表面へ出てこないけれど、すごい頭脳で、語学力もあった、アイルランド文学の松村みね子です。
芥川が初めて対等に話のできる女に出会ったーと言ったという。マスコミにおもちゃにされたこともない。落ち着いて、性根が座っていて。二・二六事件で父が引っ張られてどうなるかわからないときに、人がこわがって知らん顔をする時期に、一人で留守見舞いに来てくださった。(『ひたくれなゐの人生』斎藤史、樋口覚 三輪書店)
斎藤史は次の歌も詠んでいます。
暴力のかく美しき世に住みてひねもすうたふわが子守うた(『魚歌』)
「暴力が美しい」と詠うのではなく、そんな声が横溢するような世の中でも日常は過ぎてゆく、と史は詠います。イェイツのエレジーとは違う種類の哀歌であり、この歌を敢えて公にする姿は、片山廣子に通じる肝の据わり方だと思います。