犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

やるせない思い

2013-07-05 23:57:23 | 日記
尊敬する職場の先輩であるMさんが亡くなった後も、仕事は、そして日常は続きます。
Mさんの仕事に対する情熱を消さないようにと念じて、大事に仕事の引き継ぎを行いながら、それでもMさんの影は日に日に薄れていくのです。こんな時に、やるせない思いにとらわれたものでした。
 
「やるせない」という言葉は英語には訳せないのだそうです。メランコリックと言っても、センチメンタルと言っても違う。堂々巡りのなかに閉じ込められて、出口の見えないどうしようもない思いは、敢えて言えばゴーリキーの『トスカ』を二葉亭四迷が「ふさぎの蟲」と訳したものに近いのでしょう。確かに、私はくる日もくる日もふさぎ込んでいたように思います。
 
こんなに救いのない状況のなかで、それでも自分は世界と剥き出しで触れ合っている。このヒリヒリするような感覚は、しかし「あのとき確かに生きていた」という実感をともなって、今でも鮮明に蘇ってきます。
 
グレゴリー・ベイトソンの小話にこういうものがあります。
コンピューターの精神というものにとり憑かれた男が、スーパーコンピューターに「おまえの計算では、いずれおまえは人間と同じに考えるようになれるか」と尋ねました。コンピューターは自らのコンピューター的習性の分析にとりかかり、しばらくして演算結果を出力します。男が駆け寄ってプリントアウトされた紙を抜き取ると、こう書いてあったそうです。
That reminds me of a story.(そういえばこんな話を思い出した)
 
人間というものはひとつの事象を別の「物語」に置き換えて考えるものだ、それが知性というものの根幹なのだと、ベイトソンは『精神と自然』のなかで、この小話に続けて語っていたように思います。しかし、今こうも考えるのです。
どんなに辛い悲しい思い出であっても、それを逃れる術もなく耐えていた感覚、やるせない感覚を想起させることによって、にわかに人生をかけがえのないものに変えてくれるのだと。
「物語」を想起させる(remind a story)、とは、永遠に続くかに思われたやるせない瞬間を、もう一度解凍してみせることではないか、と。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする