ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

聖書を巡って。ユダヤ教とキリスト教:【国体文化】掲載記事への返答

2021年05月17日 | カトリック
【国体文化】に掲載された連載への返答記事、ポール・ド・ラクビビエ氏の原文全文をご紹介します
聖書を巡って。ユダヤ教とキリスト教。/ポール・ド・ラクビビエ
里見日本文化学研究所特別研究員 ポール・ド・ラクビビエ

聖書を巡って。ユダヤ教とキリスト教。

始めに
いつも、相澤先生の原稿を楽しく拝読しており、かつてのような論争を原稿という形でもさせていただくことには一定の意味があると思うので、筆を執った次第である。相澤先生の学恩に感謝の意を表したいと思う。

さて、12月号の原稿に取り上げられる課題は私にとって非常に重要である。つまり、聖書はどういったものなのか?それからユダヤ教とカトリックとの関係は何なのか?といったものだからである。
現代では、とくに第二ヴァチカン公会議以降、この二点についての誤解は深刻なので、そのあたりを中心に語りたいと思っている。

聖書とは
聖書は文学的に見ても時代も作者もその言語にいたるまで多くの異なる文章からなっている。たとえば、その中には詩、歴史記録、預言書、教訓書、書簡、回顧録などがあるばかりか、言語的にみても、ヘブライ語、ギリシャ語からなっており、その意味で、聖書とは纏まった「聖典」ではなく、いわば「本棚」のようなものといえよう。

加えて、「聖書」は、カトリック教会の教父たちとカトリック初期の公会議が制定した「聖なる文章」という一面をももつ。一般にいわれるところの旧約聖書と新約聖書である。善き日本語訳としては講談社のフェデリコ・バルバロ訳を推奨する(後述するが、同じ聖書とはいえ、翻訳が重要になってくる)。当初の教父たちや公会議の制定において、この聖典の構成は変えられることはなかった。聖霊の導きによって書かれたものであろう。ただし、イスラム教とは違い、多言語で書かれたものなので、当初から学問的な種々の考察と解釈があったことは事実である。

つまり、「聖書」というのはカトリックの信仰の一つの源であり、ユダヤ教とプロテスタントとはその位置づけを異にする。というのも、「ユダヤ教」(厳密に言うとラビ教、あるいはタルムード教)はタルムードを典拠にして、新約聖書そのものを否定する。一方、プロテスタント諸派は自由気ままに旧約聖書や新約聖書において恣意的に都合の良い文章を選択したりするので、統一された解釈というものがない。

聖書という意味
旧約聖書は救世主、真の人、真の天主であるイエズス・キリストの到来を準備するために用意された「民族」の歴史である。つまり、ただの物語ではなく、歴史書である。

しかしながら、ユダヤ人は、聖書の預言を否定する。というのも、旧約聖書のすべての預言を成就したのはイエズス・キリストであったにもかかわらず、タルムード教はイエズス・キリストそのものを否定するので、その結果、旧約聖書の預言を否定したり、無視したり、歪曲したりせざるを得ないのである。

この結果、天主の本質を語る旧約聖書は、タルムードを信奉する現代のユダヤ教によって完全に無視され、ないがしろにされている。カトリックでは、聖書を読むに際して、四つの解釈がありえる。ひとつは、普通に「文字通りに」読んで、つまりその歴史事実を把握するという一番単純な読み方であり、わかりやすい読み方である。
また、ほかに霊的な読み方が三つある。「前表(ぜんぴょう)」の意味で読み取る。つまり、旧約聖書の文章を新約聖書のイエズス・キリストのまえぶれとして読みとるというものである。
それから「教訓」の意味がある。つまり、道徳上の教えや天主に近づけるための霊魂上の試練と修道を助ける教えとして読みとるというものである。
最後に、福音書に照らして、人間の目的地(天国と地獄、永遠の命など)を語るものとして読みとるものである。

旧約聖書のすべての文章が必ずしも以上の四つの解釈に妥当するとはいえないが、初期の数十人の教父たちが揃って同じ言及をする場合、それは定着した否定できない解釈とされている。

例えば、旧約聖書のダヴィド王の場合はこうである。歴史の意味でとらえたら、ダヴィド王の歴史を語るということになるが、前表という意味でとらえたら、王たるキリストの意味でイエズス・キリストのさきぶれということになるし、道徳的側面でとらえると、ダヴィド王が罪を犯したときの改悛から改悛の必要性、赦しを希う必要性という教訓という意味になる。


ユダヤ教とカトリック
さて、次の課題に移そう。相澤先生は次のように書かれる。
「キリスト教がユダヤ教を相承(信仰的系譜)する一例である。ユダヤ教とキリスト教とを別ものとする意見を散見するが、客観的にみれば両教は兄弟関係、同文脈上にあることは明白、そのことを旧約聖書の存在が明示しているのだ。」

これは現在、一般化された見解であるが、実は誤認がある。旧約聖書がなぜ存在したかというと、ひとえにイエズス・キリストの来臨を準備するためであった。だから、イエズス・キリストの来臨を受け入れて、三位一体なる創造主、真の人として真の天主として仰ぐカトリックこそが「真実のユダヤ教」であるといえる。

そこがポイントである。「ユダヤ人」と「ユダヤ教」と言っても、イエズス・キリストの来臨以前と以後ではその位置づけを異にすることになるからである。つまり、イエズス・キリストを旧約聖書の預言どおりと受け入れて、イエズス・キリストに従って行ったユダヤ教徒(使徒たちや多くの人々、それから多くの異教徒たち)はそのままカトリックとなっていくのであるが、一方で、ファリサイ人のようにイエズス・キリストを否定して、憎んでいる子孫たちは現代の「ユダヤ教」になるのである。

つまり、ユダヤ教とカトリック教とは兄弟関係にはなく、むしろ宿敵関係にあるのである。それだけではない。「ラビ教」とでも呼ぶべきイエズス・キリスト以降の「ユダヤ教」は聖書は読まない。彼らはタルムードを読んでいるのである。タルムードは1~5世紀まで纏まった経典であるが、カトリックを否定するために成立したものである。具体的に言うとイエズス・キリストの預言された文章を書き変えたり、歪曲したり、またカトリックの真理を予兆する多くの文章を平気で改竄したりしているのである。

さらにいうと、タルムードやラビ経が典拠としているヘブライ語の旧約聖書よりも、カトリックの読む聖書こそがイエズス・キリスト当時やイエズス・キリスト以前の聖書に近いのである。というの、基本版となっている聖ヒエロニムスのラテン語訳、「ウルガタ」(現代でも典礼で使われている基本版)は382年に訳が完成したが、ギリシャ語、ヘブライ語、ラテン語の達人が、古代ギリシャ語の「70人訳」を参照にしたほか、ヘブライ語の古い写本やタルムードの準備書面の「Mishnah」をも参照して、訳されたものであるからである。それに加えて、多くの教父たちや聖伝(イエズス・キリストの教え、聖書の解釈を含め、使徒たちから継承された教え)にも基づいているのであるからである。紛れもなく、「聖書」という時、イエズス・キリストの時代に使われていた一番近いものはカトリックの側にある。
これは旧約聖書の話だけであり、福音書ならば、もちろん現代「ユダヤ教」はまっこうから否定する。

それから、次の下りである。
「バラモン教から見ると、釈迦も自らの系譜を引く覚者のひとりとなる。キリストもユダヤ教から見ると自らの系譜につながる預言者の一人と見做す。構造的には合致している。」
しかしながら、厳密に言うと、タルムード教はイエズス・キリストを正面から否定するので、預言者としてすらみなしていない。一方、イスラム教はイエズス・キリストを預言者のひとりとしてみなしている。

だが、これはイエズス・キリストが真の天主であることを否定するために、当初のファリサイ派や反カトリック諸派により勝手に論難されたものにすぎない。というのも、イエズス・キリストは至上の王であり、至上の大司祭であり、至上の大預言者である上、真の天主、真の人であるということで、托身と贖罪の御業のため来臨され、そして人間の存在理由を決定的に明らかにしたのである。この事実こそがイエズス・キリストの存在理由である。が、これを正面から否定するタルムード教、フリーメイソンなどの「自然主義」と呼ばれる誤謬は、これらの事実が見えないように歴史上に多くの策略を繰り返してきた。
たとえば、「ユダヤ教」と「キリスト教」は兄弟関係だという誤謬を勧めたり(歴史上に見ても教義上に見ても宿敵関係にあることは明白なのに)、托身と贖罪、三位一体の玄義を歪曲したり否定したり忘れさせようとしたり、また永遠の命や超自然の生命を否定して、現世のみを視界に入るようなものである。(これについて、ぜひとも、「グローバリズムの真相に迫る!『グローバリズムの図解』前編・後編」 https://youtu.be/NUFpWyQrrlQを参照してほしい)。

飲酒について
それほど重要な点でもないが、十戒において飲酒のことに触れられている。どちらかというと、世に流布している「十戒」はカトリック教会による伝統的な要約版に過ぎなくて、それぞれの項目には多くの「副題目」が入っている(出エジプト記、20章から全文がある)。それについて、「天主の十誡と教会の掟」と題される公教要理からの教室を参照(https://youtu.be/jGGsqhZrilg あるいは、「罪源(その二)」https://youtu.be/vCFTLH0UB14 また、ファチマの聖母の会のサイトにも書き起こしが掲載されている)。

また、相澤先生の指摘のように、仏教には第一戒から第四戒までに相当するものはないと指摘される。これは非常に重要なポイントであると思われる。仏教はこれを「必要としない」からではない。大事な事実である創造主を無視するか、知らないか、見ないふりにするか、いずれにせよ、現実に存在する「天主」を捨象することに原因がある。

この意味で、僭越ながら、冥合思想ではなく、天主のご啓示によって仏教における正しい原理・原則を保ちつつ、超自然・霊的な真実に背く誤謬を取り除く試みをされるのはいかがであろうか?

終末論的な予言について
イエズス・キリストが成就した予言の他にも、イエズス・キリストご自身が残した予言がある。いわゆる「世の終わり」についての予言であるが、深入りする余裕はないので一言で要約してみると、将来を知らせるためにある予言ではない。単に、改悛と永遠の命への準備を促すための予言である。

また、前提として、予言は成就されないかぎり、だれも(天使と悪魔を含めて)世の終わりの時は知らないし、それは天主のみが知ることである。したがって、終末論的な主張はカトリック教会によって好まれていないどころか、邪道であるとすらされている。それについて、「本物の陰謀とは?(マテオ、24、15-35)」(https://youtu.be/Mx0HpJHONrY)と「悪魔(サタン)の罠。(マテオ、24、15-35)」(https://youtu.be/6C9V1wKbbf4)を参照していただければ幸いである。

要は、世の終わりの予言などはそれほど重要ではなく、いつ起きるかはわからないが、我々は確実に死ぬという前提のなかで、イエズス・キリストの裁きに対する相応しい準備をし、カトリックのいうところの聖寵の状態で死ねるように努めることこそが一番重要であるということである。

結びに代えて
相澤先生の結びを引用させていただく。
「現在のキリスト教徒に考へてもらひたい。キリスト教と法華仏教、これらの両教の冥合点を認め合ふ態度を望みたい。キリストと日蓮、両聖人の使命は全人類の不幸な対立をもたらすことではない筈である。基本冥合思想の解明こそ、今に生きるクルスチャンおよび法華仏教者の使命であると強調しておく。」

残念ながら、賛成できない結論である。すでに別の原稿で説明したように、単なる人としての自然徳を持つ日蓮を模範にするのはいいのであるが、三位一体なる創造主、真の人、真の天主(これは信仰ではなく、歴史的な事実である)なるイエズス・キリストの存在とはまったく異質である。それは、まさにイエズス・キリストの御言葉の「私が真理であり、道であり、命である」ということからしても明らかである。

この意味において、イエズス・キリストの使命は、十字架上の贖罪の御業にあり、そして祭壇上のこの生贄の再現であるミサ聖祭という遺産を制定なさったことにある。あとは、我々はこの事実を受け入れるか拒むかだけである。天主なるイエズス・キリストは十字架上に懸けられてまでわれわれを愛し給うたのであり、僅かでもイエズス・キリストのように天主を愛しようとするかしないかはすべて我々次第である。

「Veritas(真理)」という意味は「現実・実体・真実」と「表題」が一致していることというのが古代からの哲学上の意味である。イエズス・キリストが真の天主、真の人であるという真実を受け入れる義務は我々にある。これは実に存在する真実であるからである。

対立とは、原罪を負うている我々が、現世欲に負けて、意志的に真実を受け入れないことにしたとき、生じるものである。すでにイエズス・キリストによって完全かつ明確に示された真理・真実をそのままに引き継ぎ、訴え、実践において守り切るのはカトリック信徒の使命である。そこには人為的な解明が入る余地はない。イエズス・キリストの奴隷としてイエズス・キリストの教えを実践していくように努めることこそ、カトリック信徒の使命である。

その観点からできるのは、自然徳や自然上の真理を仏教においても認定しつつ、形而上学上の誤謬などを取り除くことではあるまいか。
最後に強調したいのは、学問にとどまらず、理想と幻想を捨てた上、「真実」に沿った自覚こそが現代で必要ではないであろうか?ということである。


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。