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久々利城

2013-01-11 22:09:11 | 岐阜県
 久々利城

2013/1/5

岐阜県可児市のお城めぐり

 久々利城主悪五郎が金山城主斎藤正義(道三の養子)を久々利城に誘い出し謀殺したお城

≪ お城の概要 ≫

城名: 久々利城
よみ: ククリ
別称:
所在地: 岐阜県可児市久々利
現状: 山
築城年代: 延元・正平年間(1336-70)
築城者: 土岐康貞
形式: 山城
遺構: 本丸・二の曲輪・三の曲輪・帯曲輪・東出丸・堀切・土塁・竪堀・虎口・井戸
規模: 久々利地区集落を南に見下ろす丘陵上に位置し、比高68m、面積18,000㎡程
文化財:
訪城日: 2013/1/5


≪ 訪城記 ≫

金山城から久々利城に向かう。
金山城へ来た県道を南に向かい1.7km程で国道21号に出る三叉路を右折し、すぐに左折、県道381号を南下約3kmで二野・羽崎交差点を左折、県道84号を東へ約2km行くと右手に可児郷土歴史館が見えてくる。ここの駐車場に駐車する。歴史館が正月休みのため入館できず。歴史館入り口の診療所西南角に千村氏屋敷跡の標柱と消えて見えない説明板がある。歴史館を含めこの一帯が江戸期の千村氏屋敷跡だったそうです。
久々利城の登城口は歴史館を県道84号を挟んだ北側の山で登城口に案内板、城址碑、消えかけた説明板があるので分かりやすいです。
石段を登ってすぐに分かれ道があり、まっすぐに行くとけっこう大きな水たまりがあり、鬱蒼としていて入れませんでした。東出丸への入り口もわかりませんでした。
さっきの分かれ道を右に上ると2・3分で虎口に到着します。虎口には土塁のほかに左側に行く筋かの短い竪堀があります。虎口を入ると正面に井戸跡があり土塁も切岸があります。
その奥に三の曲輪へ入る虎口があり、削平された三の曲輪から高い切岸越しに上を見上げると、二の曲輪、本丸が見えます。
さらに東裾野の竹林を進むと二の曲輪、さらに進むと土橋に出ます。左へ行くと本丸に出られます。
本丸はさほど広くはなく、上から久々利の集落を見渡せます。
さきほどの土橋を北へ進むと右に堀切があるようですが、竹が多くてよくわかりません。
その奥に一段高く東西に細長い台状地があり、その裾を西に迂回すると、一番目の堀切があり、さらに危険ですが山裾を回ると2番目の多きな堀切に出ます。さらに奥には三番目の堀切があり、幾筋かの竪堀が見られます。
道がないうえに、滑りやすい斜面を行くため非常に危険です。


≪ 歴 史 ≫

延元・正平年間 (1336-70) 土岐伊予守頼清の四男三河守康貞が築城という。
文和二年 (1353) 吉田合戦で康貞が戦死し、子の行春が地名をとり久々利氏を称し、代々、三河守、悪五郎を名乗った。
天文十七年二月 (1548) 金山城主斎藤正義を久々利城内で謀殺した。
永禄八年 (1565) 森可成が金山城に入るとその配下となる。
天正十一年 (1583) 森長可は悪五郎を金山城内で謀殺し、久々利城を落城させる。長可は久々利城を家臣戸田基左衛門に守らせる。
慶長五年 (1600) 森忠政が川中島に移封されると廃城となった。
江戸初期 千村平右衛門良重が陣屋を構える。


≪ 写 真 ≫


千村氏屋敷跡


登城口


久々利城址碑と説明板


虎口


井戸跡


三の曲輪から見上げた二の曲輪・本丸切岸


本丸


一つ目の堀切


二つ目の堀切


三つ目の堀切


三つ目の堀切の北の土塁跡


三つ目の堀切の北の竪堀


東出丸の土塁


現地案内板縄張図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<車>
東海環状道可児御嵩ICから国道21号可児御嵩バイパスを約400m西進して、柿田交差点を左折、県道381号を約2km南下して、二野・羽崎交差点を左折、県道84号を東へ約2km行くと右手に可児郷土資料館が見えてくる。資料館の北側の山の山頂が久々利城です。


≪ 位置図 ≫

可児郷土歴史館


登城口


久々利城


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