腐った世の中は身を生じない



“井戸の茶碗”って江戸の落語があって、それは、あの、浪人から屑屋が仏様を購って、そんで、それを殿様に売ったらば、マトリョーシカみたいに、パカッと割れて中から金の仏様が現れて、殿様は、オレは外側の襤褸っちい仏様を買ったんだ!こんな価値のある中身を買った憶えはない!ってんで、屑屋に突っ返す為に、とッ捕まえようと捜査網を張るんだけど、屑屋は屑屋で、何か、しくじったと勘違いして、ビビりまくって逃げ廻ったりすんだけど、なんだかんだで、結局、何とかとっ捕まえて、そんで、その仏を浪人に突っ返そうとするのだけれども、浪人もこれが強情で、オレだって、襤褸々々の仏様を売ったんだ!こんな金の仏を売った憶えはねぇ!ってんで、突っ返し、屑屋はまた殿様んとこへ駆けつけて、あの、これこれこーゆー訳で、もらってくれないんすよ、と、事情を話したらば、殿様も頑固で、全然、受け取ろうとしない。屑屋が右往左往して苦笑い、ってな、人情噺なのだけれども、この噺の肝の一つは、価値が急沸したものを、安易に、儲けたわい!儲けたわい!ってんで、こう、黙って、自らの懐に入れたりしないで、「こんなん要らねぇよ!」って、強情を“張り”、江戸の“粋”、それを体現してるとこじゃんか?登場人物が。
そんで、一方、対照的に、上方の、“はてなの茶碗”ってぇのがあって、それは、目利きで有名な先生が茶碗の底を見つめて、「は・て・な?」っつったことに端を発し、商人らが争奪戦を繰り拡げる噺で、あの、こん中では、登場人物ら、如何に安い原価で高い儲けを上げられるか?に血眼になっている訳で、それが別に悪いこととは思わないけれど、“粋”の為の“張り”とかてぇな概念自体が存在しない訳で。根底に流れているのは、恐らく多分、そーゆー、商人(あきんど)精神っつぅの?であり、だから、あの、こーゆー、「ええやん?ええやん?ええやんか?もろとけゃええやん?」ってな、“もろとけゃええやん精神”の賜物として、今回の不正受給とかあって、だから、もう、考え方自体が違うっつぅか、きっと、未だに、罪の意識なんてもんがないんじゃないかな?って。あと、因みに、某上方の落語家は、“井戸の茶碗”は全く内容が理解出来ない!って、断言してたし…、って、まぁ、「だから、ニャンだ?バカヤロー!」って話で申し訳ないのだけれども…、

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