25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

羊と鋼の森

2019年04月23日 | 映画
 とても静かな日本映画を見た。「羊と鋼の森」という山崎賢人が主演で、鈴木亮平と三浦友和が脇を固めたよい映画だった。鋼とは弦のことでそれを叩くもが羊毛布を固めたものらしい。ピアノに羊が必需品だとは知らなかった。

 調律師が成長していく話である。ピアニストが好む音が出せるようにするのが調律師の仕事であるが、彼はだんだんとピアノのある場所、奥行き、その部屋に置かれているものなども考えて調律するようになる。最後はコンサート調律師になろうと決意する。
 この映画の中でぼくが一番惹かれたところは三浦友和が後輩にあたる主人公に自分が大事に思っていることを聞かれ、答えるところだ。それは原民喜の詩の一篇である。

 明るく静かに澄んで懐しい文体、少しは甘えてゐるやうでありながら、きびしく深いものを湛へてゐる文体、夢のやうに美しいが現実のやうにたしかな文体……私はこんな文体に憧れてゐる

 主人公はこの部分をもう一回言ってもらいメモに残す。かれは大事だと思うことはメモにしておくのが癖なのだ。このような台詞が映画の深みを増していく。
「夢のやうに美しいが現実のやうにたしかな文体」がぼくには村上春樹の「ハナレイ ベイ」という短編小説のように思えてくる。きっと主人公はよく似た感覚で「文体」を「音」と捉えている。ここから「音」を目指した調律師としての試みがなされていく。
 作者がこの詩を使っただけで、この物語は深淵なところまで届き、調律師のあり方にまで想像を与えることができた。
 15分見て、つまらないと思ったら寝ようと思っていたのが最後まで、主人公の模索に付き合うことになった。言葉が映画に決定的ものを与えて深まっていった良い映画となっていた。

高齢ドライバー

2019年04月23日 | 社会・経済・政治
 高齢ドライバーが31歳の母と3歳の娘を死なせてしまった。残された家族の気持ちは横に置かせていただいて、このような事故が起きると、世の中は高齢ドライバーに神経質になる。高齢ドライバーや高齢者の適応検査や認知症の問題が出てきて、これは政治の問題であると思う。
 車がなくても暮らしていけるのは地下鉄、電車、バス路線が整ったところで、地方の田舎では車は必需品である。
 運転できる能力があるかないか。このことを検査してくれたらよい。

と考えていて、ぼくは30歳まで免許を持っていなかったし、尾鷲にいてもそれで大いに不便したわけでもなかったが、今はもう車がないとだめである、18歳以下はダメなのだから、その環境に戻るだけの話であるのだが。よく歩いて身体にもよいと思うのだが。

 やっぱり巡回ミニバスがクルクルと尾鷲市内を走っているのがよい。100円。車をもっていた人なら免許を返上しても1万円くらまいでなら交通費として使える。バリ島ではできていて、日本でできないのはなぜなのだろうといつも思う。

 日本ではホームに人が転落すると、列車のホームに壁を作ってホームに落ちないような手立てをする。落ちたらその人の責任ではないかと思うところだが、日本人の心性はそうではないのだろう。これに莫大な壁費用を使う。今回の高齢ドライバーや原因のわからないバス運転者の事故が続くと、技能検査や認知度テストが余計厳しくなってくるにちがいない。ぼくは車を製造する企業の問題とも思うのだ。あらゆる事故を想定しての防御システムはそれほど難しくもなく作れると思うのだが、やってこなかったのが現実ではないのか。

 こういう事故が起きると被害者の痛ましさだけでなく、やがて、免許返上のことを考える日がそう遠くない日に来ることに「う~ん」と唸ってしまう。もちろん加害者にはなりたくないし、さらに分が悪い被害者にもなりたくない。保険や裁判からみると加害者は守られ、被害者は値切られるか、いいようにされるという関係である。これは必ずそうである。母の場合も。友達、知り合いの場合もそうだった。加害者はつらいがはがて日が経てば、ショックも和らいでいく。被害者はケガの場合でも後遺症が残り、痛みが残り、一生それと付き合い、家族のものを巻き込むことになる。死亡の場合には被害者は生き返らない。どれほどの失意か、無念か。