25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

吉田洋の「ハナレイ・ベイ」を見た

2019年04月30日 | 映画
 昨日、やけに寒気があって体もだるいので、熱を測ってみたら37.7度であった。ややあったという程度である。今般の風邪で夜中に何かが起きたのか、咳のせいで肋骨にひびが入ったのか、肋間筋のどこかを痛めたのか、咳をすると前の肋骨あたりがズキッとする。
 
 脊柱管狭窄症のこともある。これに真剣に取り組むには風邪を完治させないと。
 重層的に異様な状態が続いているので、それを腑分けするだけでもたいへんである。

 日中は歩けるだけ歩いた。熱を発見したのは夕方だった。なんだか食欲がなかった。美味しいものが美味しくない。アルコールも美味しくない。

 夜、吉田洋が主演している映画「ハナレイ・ベイ」を見た。ちょっと熱のある浮遊感で観ることになった。吉田洋のサチはぴったりだった。彼女の英語も聞きやすい英語で発音もよかった。ほとんどは小説と同じであるが、ちょっと違うところがある。映画ではあまり好きではなかったが、愛していた息子がサメに片足を食い千切られて溺死したハナレイ・ベイに息子の命日なれば通う習慣になっていた中で、苦悩する女性として描かれていた。小説の方では「夢のように美しく、現実のような確かな文体」があるだけで映画ほど苦悩は描いてなかった。

 村上春樹の短編にはいろいろなものが凝縮されているため、一つを指で押してみると、自然による死には憎しみや恨みのような感情はないが、戦争による死は憎しみ・恨みが伴っていることをハワイの日系老警官に言わせている。
 死んだ息子は母親とうまくいっていなかった。母親(サチ)は結婚したが、夫がドラッグをやめられず、愛想をつかして離婚した。息子からしてみればすべて母親の都合で動いていると思うこともあったろう。元夫が死んだので保険金が入った。それを元手に「ピアノバー」を東京につくった。それで息子の相手も思うようにいかなかったことだろう。息子もそういう母親を見ている。サチには絶対音感があり、音楽を聴いて覚える才能があった。音楽を造り出す才能ではなかった。才能の切ない問題にも分け入り、親子の微妙な反物語も何気なく扱っている。
 「よもやま話の会」が今月にあるので、小説を今日読むつもりである。

 屈伸(細君に押してもらいながら)、その他のことをやる。