25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

天皇

2019年04月26日 | 文学 思想
 平成の天皇-皇后が伊勢神宮を参拝したとき、そのスケジュールに合わせるように
国内各地から多くの人が来た。まだ中年くらいの女性やややその人よりも若いと思える女性はテレビ局のインタービューがあると興奮して泣いて手を振っていた。天皇という象徴の共同幻想は多くの人々動員し、渦のなかに巻き込んでいた。おそらく天皇・皇后は国内最大のスターなのだろう。

 平成天皇は即位してから「たいへん」よくやったと思う。
 天皇は権威と神秘性をもっておればよいという八木秀次のような考え方もあるし、天皇を日本の元首にしようと訴える「日本会議」の意見もある。ぼくなどは平成天皇は自分の天皇としての在り方を模索し、災害があれば駆けつけ、寄り添い、目線を同じ高さにして一般庶民と向き合った。これは皇室の生き延びかたの模索であったように思う。
 例えば次の天皇が即位して、辞めたい、と言い始め、弟秋篠宮も、悠仁様も辞退し、愛子様も辞退したら、皇室をやめ、普通の国民として暮らしたいということだから、それはそれで結構なことだと思う。これを阻む論理はぼくにはない。
 イギリスの王室のようになりたいと言えばそれはそれで結構なことだと思う。要するに皇室のあり方は皇室で決めるのがよい。男子系統でいくなら秋篠宮は即位を辞退し、悠仁様が即位して令和の次の時代は平成、令和以上の期間が続くかもしれない。
 新天皇の皇后はなにかに抵抗しているよう見える。雅子皇后にとっても愛子様天皇にしたくないのではないか。
 やはり時代がすすむと、これまでのようにいかなくなる。錦の御旗や天皇の争奪戦も日本国民は克服したのではないか。