25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

映画とは、小説とは

2018年05月30日 | 映画
 映画だったら最初から最後まで観客を見させなければならない。そうでないと映画にならない。小説においても読んでもらえないと小説として成り立たない。
 だから、作り手側はまずその事に神経を使い、能力あるものは技を用いる。基本だからである。
 
 さらに時代を越えて生き残っていく作品には、人間考察への深みがなければならず、世界の一部の人々をも「自分のことが書かれている」と思わせるほどの共有性を提示し、こころの内にあるものをえぐりだすくらいの強烈さが必要である。このことは人間という生き物は共有する観念をもっているということである。個人幻想が共有によって共同幻想にもなりうる契機もはらんででいる。
 映画や小説でこの時間の遠くまで、意識の深みまで挑戦する人がいる。またそのような時間幅と深みをもった作品を探し求めている人たちがいる。
 
 作者は作品を作ってみるがなかなかうまくいかない。面白ければそれでいいのさ、ということも受けて手の自由である。

 夏目漱石のように現代でさえも「良い」と思わせる作家は少ない。また何度でも見たくなる映画も少ない。芸術としての言語、芸術としての映画もとても少ない。 

 いつも違う発想や物の考え方、ぼくの方からの想定が裏切られるようなものをぼくはいつも求めている。

 最近、優れた映画監督を認識した。リドリー・スコット。もうひとつ、
 前から知っていたコーエン兄弟。

 想像世界より現実が強い、と耳にすることもあるが、想像的世界を圧倒感で示すのはスコット監督だ。彼は人間の勇気が好きである。
 コーエン兄弟の映画は苦笑いのなかに人間のちっぽけな悪が巨大に連鎖していく様をみるが、かならず、登場人物にそれを見届ける人物を解決者としておいている。そこに安心感をわざと設定している。ぼくらはいつなんどき、偶然に何かを起こしてしまうかもしれない不気味な社会に生きている。

 芸術として才能を示す作家に現代では村上春樹がいる。彼の短編小説は珠玉である。時間も深みももっている。50年先にも読まれるはずだ。100年と断じる勇気はない。社会が一変しているように思えるからで、想像ができない。過去100年でどれほど変わったか。次の100年はとなると、遥かに想像しにくい。当然芸術家であるならば100年、1000年と生き残っていくはずだ、と思うが、弱きホモ サピエンスは、怠惰大食傲慢強欲憤怒嫉妬虚飾をどう始末するのだろうか。興味深い。100年先を見たいものだ。