25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

食材

2017年09月29日 | 日記

  衆議院の民進党が事実上前原党首の決断と説得で希望の党の公認をえることになった。たぶんこれからまた問題が起こると思う。リベラル政治家(ここでは護憲、安保法制違憲、共謀罪廃止、原発廃止論者と定義しておく)はつまはじきされるか、隅に追いやられるのだろうから、リベラル政治家は自分たちで政党を立ち上げればいいと思う。それに伴って連合も単体によって分裂していけばいいと思う。とうの昔に組合の役割は終わっている。これが一番すっきりする。タカ派の二大保守党では、この国は右に寄り過ぎている。恐ろしい気がする。センターとレフトが空いている。共産党がなぜ党名や綱領を変えないのか不思議だ。

 と朝の報道番組を見ていてそう思ったが、事務所に歩いていく途中では全く別のことを考えている。それが人間だ。

 白菜の浅漬けを今年の三月頃まで好んで食べていた。それがだんだんと夏に近づくにつれて美味しくなくなってきた。ところが九月の半ばも過ぎると、また体が受けつけるようになり、だんだんと美味しくなり始めた。自分のからだはまともなのだと自分で思った。脳よりも舌が受け付けない。おそらく白菜は寒い時期の食べ物なのだ。そしてつらつらと考えた。

 僕が自炊を始めたのは一人暮らしを始めた十九の頃である。ネギを刻むと涙が出た。たまねぎも同様だった。カイワレ大根は気持ちよいほどの辛さであった。胡瓜には苦い所も甘いところもあった。そして美味しかった。大根も一本の中に甘い部分とシッポの辛い部分がはっきりしていた。

 現在の野菜を作る人は時代が進んでいくにつれ味を変えていったのか、自分の自炊に関する記憶と絡んで特にそう思ってしまうのか、抗いようもなく肥料が変わってしまったのか、何が何やらわからない。

 ラーメンやうどんに入れるネギも単なる飾りとなり、ネギ独特の風味がないので、この点はいつも不満に思うことだ。そして自分でネギを育ててみた。コメリで培養土を買い、種からやってみた。結果は風味のない今のネギと同じだった。すでにネギの遺伝子に味や風味は継がれていないのだろうか。

 齢をとるにつれて体の方が鋭敏になってきているような気もする。スパイスには体も騙されるが、日本の食材については鋭敏に合否がでるようになってきた。この前、キスの干物を一匹食べて捨てた。シシャモを買ってみた。これも一匹食べて冷蔵庫に入れっぱなしになっている。

 春の新ショウガはおいしく、そら豆も好んで食べた。

 堅いものがたべられなくなった。干したスルメイカよさようなら。アワビもさようなら。堅いせんべいあられもさようならである。大好きだったホルモンもダメになった。これは歯の欠陥である。歯と白菜の好みは関係しているのだろうか、と考える。舌と白菜の関係ならわかるような気もするが歯も関係に入ってくるのだろうか。謎である。めったに食べなかった魚の練り物や豚肉などの練り物をよく食うようになった。

 毎日食事をとらなければならないが、まだ今のところこれを食べるか、あれにするかと逡巡することに面倒臭さがないのが救いでもある。しかし味にはうるさくなった。