25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

食にまつわる記憶

2017年09月18日 | 日記

 今日は父に乗せてもらって釣りにいくぞ、という二月の末頃、実家に夜明け前に行き、台所で小さな

5センチほどのえたれいわしをガスコンロで焼いて、急いでご飯を食べる。うっすら脂がのったこの時期のえたれいわしは最高の味であった。なぜ旨いのか。これを高級料亭で食べれば美味しいのか、わからない。釣りへのこころが急く状況で、歯の唾液がジュンというくらいの熱さで、茶漬けで食べる急いで食べるのである。朝マズメを狙いたいものだから、父は急かせるのである。こんな思い出と絡まったところに旨さがあるのかも知れない。えたれいわしはこの十年脂がなくなり、違うなあ、と思いながら食べているのだが、今年こそは脂があるかも知れないと期待して買ってしまう。たぶん海の温度がいわしに脂をつけさせないのだ。

  さざえよりもチャンポコが好き。伊勢エビよりも鬼エビが好き、というのもそれにまつわる思い出がある。子供のころに大人に混じって船で磯に連れていってもらった。そこで採ったチャンポコの味が今も尾を曳いている。

 父はよく渡り蟹を採ってきた。それを茹でて、ガサッと他テーブルに新聞紙をひいて山盛りに置くのだった。それを一斉に食べる。当然無口になる。この渡り蟹は結局、やがて食べることになった毛蟹に負けた。毛蟹はそれほど旨かった。これはある寿司屋の大将がニタッとして、今日はいいのがあるよ、サービスしとくからと言われて食べたのが毛蟹だった。このよきのこっそりと旨いものを嬉しそうにだしてくるこの大将の寿司は旨かった。今はもう尾鷲にはいない。博打の好きな男だった。

 食べ物で、「七味あられ」という菓子類がある。食べたらやめられないのである。この頃はこれをポリポリ喰うには歯がダメで、これは諦めている。

 食のことを考えれば、それに伴う記憶がある。しばらく様々な自分好みの食材にまつわる記憶を思い起こしてみた。