25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

幼稚園を見学する

2017年09月16日 | 日記

 自分の幼稚園のころの記憶が先生以外にほとんど記憶がない。ショッキングなこともなく、平坦に日常を過ごしていたのだろう。

 昨日は孫娘の城南幼稚園で、祖父母との交流会のようなものがあり、顔を出した。河田紗希の祖父ですと、自己紹介も

し、はじめに、リズムダンスをした。30人の花組の全員とジジババ交えたリズムダンスがあった。両手を上げてパンパンパンと手のひらを打ち、次に握手して、また両手でパンパンパン、また握手、次に一回転歩いて回り、最後に半回転跳んで回って次の園児とすることになる。

 手のひらを叩き合うこと、握手、その時の一人一人の個性がわかるものだと感心させられた。すでに、積極的な子、消極的な子、おじけづく子、緊張する子、照れる、笑う子じつにいろいろだった。祖父母もどちらもこなかった園児は半分じょほどいた。祖父母は2組いるはずだが、遠くにいるのだろうか。ぼくらとて、紀伊半島から来たのである。

 他にも面白い遊び道具を作ったり、園児のコーラスを聞いたり、園児の一年の姿を大型画面で見たりと、昼まで楽しんだもだった。

 女性の先生たちもニコニコして、ぼくも幼児のころはこんな風にいい子でいたのだろうか、と思う。室内よりも戸外で遊んでばかりいたのではないか。

 東京の住宅事情では夫婦共働きでもしない限り、便利な場所では暮らせないだろう。それにまた異常に高いJR料金。ニュースでは今年生まれた子供は107歳まで生きるという発表があった。

 東京は地方の若者を労働力として吸い込み、女性までをも、子育てさえも犠牲にして、今の生活水準を維持し、未来107歳までをも考えておかなければならない。その都会が労働者にあたえる土地家屋は高すぎる。そして地方の小さな町には吸い上げられた若者が帰ってこず、過疎化する一方である。

  都会の昼は働く人たちのための昼で、よそからきたぼくらは過ごしにくい。コーヒーを飲む以外にないのである。尾鷲だったら、庭でもいじるか、ちょっと釣りでもしてくるか、レンタルショップに行ってみるかとなるが、都会では無理である。

 住宅事情の粗悪な都会を飛び出して田舎にきたらどうか、仕事など作ればいいじゃないか、と思うのだが、そうも考えられないのだろう。普通、人は慎重である。