25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

山尾志桜里、麻生太郎疑惑

2017年09月09日 | 社会・経済・政治

 人間の値打ちは「失敗したときの振る舞い方」でわかるというものだ。最初に文春記者から突撃インタビューされたときに山尾志桜里も、相棒の弁護士も、人間の本質的なところがでてしまった。危機に弱い証拠であり、これまでに強そうに見えたのは資格とか社会的地位や権威のような鎧を纏っていたからに過ぎないことがよくわかった。記憶力や理解力は優れていたのだろう。だが、堂々とした胆力とか潔さがなかった。笑い飛ばせるだけの器もなかった。「愛している」とも言わなかった。あわてるだけであった。

 僕の価値観、世界観から言えば、こういう人はランクが下がる。小林よしのりも人を見る目がないというものだ。ツイッターでいくら嘆き節を書いても、それは「あなたに見る目がないからだ」となってしまう。もしも「ワシはそんなの気が付かなかった」と言うならば、平和の中で行われた来た受験競争、資格主義で育ったエリートがいかに脆弱であるか、小林よしのりなら知っているはずである。気骨のあるインテリなどいるものか、と言いたくなる。

 そこでだ。山尾志桜里は失敗、挫折した。この期待された女性がどのような人間となって生まれ変わってくるか、そのとき、マスコミはインテリはどう彼女を扱うかが、興味深いところだ。過去のことを延々と取り上げるのがマスコミであり、暮らしの世界では延々と失敗者にチャンスを与えないのが日本社会だからだ。

 僕に言わせれば、山尾志桜里は一段階人間としてステップアップすると思う。失敗なくして成長はできないからだ。親から譲ってもらった地盤、看板をもつ二世や三世議員とは違う出自が彼女にはある。だから胆力を鍛えて、潔さを鍛えてでなおしてほしい。

 W不倫疑惑で言い立てながら、メインストーリーはそうでありながら、コメンテーターはそんな個人的、家庭的な問題より、会見のお粗末さや民進党の出鼻挫きを言おうとするが、それは不倫や恋愛を動物的に認めているからだ。当然僕もしかたのないことと認めている。週刊誌は巧妙である。表看板を「不倫」とし、裏のテーマは「山尾志桜里たたき」であり、「民進党たたき」であることは確かだ。世間は下半身人間はそんなことはどうでもよいことだと思いながらも、「不倫は悪いことだ」というなんとなく「悪いこと」という近代的道徳的な思いで街頭インタビューで愚かなことを言う。「マジソン郡の橋」に熱狂した当時の主婦たちは何を思うのだろう。逆に素敵と熱狂するべきではなかったか。現実と虚構の世界の差であるというのか。僕にはわからない。

 森友、加計問題追及が再び国会で始まる。麻生太郎の愛人問題はどうするのだろう。二号さんに持たせている六本木のクラブで彼は自費を使うことなく飲んでいるという疑惑がネットで報じられている。今のところ、大手マスコミでは掲載されていない。「フライデー」に載るらしい。「フライデイ」の扱いと「文春」「新潮」の扱いは違うことんおだろうか。そういうことにも上半身としてはマスコミガどう扱うのか好奇心が湧く。