浄心庵・長尾弘先生「作善止悪」

「作善止悪」
三世の諸仏、過去の仏も未来の仏も現在の仏も
悉くこの法門を説き給う
良き事を行い悪しき事を止めよ

作善止悪

2020-03-31 00:24:42 | 日記

添付のお写真は恩師「長尾弘」が学びの友の方から贈呈された白衣の着物を
身につけられてお写真を撮られたものでありますが、ご覧のように腰の辺りに
白色の霞のようなものがかかっています。
不思議写真の一枚です。


恩師のご著書「思いの中に生きる」より

                死のとき


先の続き・・・

やがては、皆あの世に帰らなければならないのですが、
私達がこの世を去りました時に、どうすれば良いのか。
これはどこに行っても話させてもらうのです。
極楽に間違いなしに帰る方法。
これは、まあ皆さんにそうして下さいと言ったらあれですから、
私が死んだ時にしようと思っていることです。

もしお迎えをいただいたら、もう渾身の力を振り絞って、
自分の身近な方に「ありがとうございました。お世話になりました。
本当にありがとうございました。
どうぞお会いできん方らによろしゅう礼を言うてください」と、
命懸けの力を振り絞ってお礼を言わせてもらいます。

そして、お礼が済むと、もう今度は、
いよいよお迎えが来まして息絶えた時に、
皆さんにパッと尻を向けたら、もう絶対に振り返りません。
家も財産も何もかも全部、この世のものは全部この世に置いて、
そして、私達が本当に帰って行く故郷に向かって、
極楽へ向かって振り向かないで突き進みます。
この時、絶対に迷いません。

しかし、まあ心をきれいにしておかなければなりませんね。
自分の心が汚ければ、汚い世界へ自分ではまってしまいます。
ですから、私はそのようにして死にたい。
今こうして親しくお付き合いをしていただいていても、
私が死んだら、振り向きもしません。

このようにしてこの世を去りますから、もう皆さんが病気されようが、
苦しまれようが、どんなにされようが、そんなこと私は知りません。
この話をしましたら、「先生、水くさいでんな。死んでも私ら守って下さいよ」
と言われます。
「いやー、いやー、私は死んだらもうよう守らん」と言います。
で、これは私だけと違います。

皆さんが常にその心積りを心の中にしておいていただいたら良いですね。
死のときはいつの日か必ず来るのですから、そのときになりましたら、
私が話したとおりに、渾身の、この世の命懸けの力、
全生命力を果たしてでも、お礼を言います。
そして、命が終わった時は、もうパッと背中を向けて、
絶対に振り返えってはいけません。


作善止悪

2020-03-30 00:24:05 | 日記

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生の隠し芸「皿回し」です。
浄心庵「心の道場」にて。


恩師のご著書「思いの中に生きる」より

               死のとき


生命力の強い時は死の世界から遠く離れています。
これが生と死の境とします。
こちらからは向こうはあの世の世界、
こちらは私達の生きている世界とします。
健康に生きている時は、死の世界からずっと遠いのです。
ものすごい病気をしたり、
あるいはだんだん年を取って肉体的に衰えてきましたら、
だんだん死の世界に近づいていくのですね。

生と死の境界線に近づいていきます。
で、心悟った方はここからさっと遠い方へ遠い方へ離れて行かれます。
極楽の世界に離れて行かれるのですね。
そして、「ああ、死にとうない、わしゃ、まだ後、心残りいっぱいあるし、
死にとうないんや」と、生への執着、あるいは物とか、財産とか、名誉とか、
そんなものに思いを強くもっていましたら、肉体は死んで無いのですけれど、
その心は生と死の境をさまよっているのです。

だんだん境に近づいてきましたら、ここをウロウロしている人が、
この人と近いものですから寄って来るのです。
だから、死ぬ前になると、心のきれいな方は、
「ああ、きれいな人が迎えに来てくれはる」と言って、
心の汚い人は
「ああ、怖い奴じゃあ。もう来なー(来るな)、もう来なー」
と言いながら虚空を掻きむしって、死ぬ人があります。

あれはその人の心に応じたものが迎えに来るのです。
「おとろしよー。怖い奴が来たー。怖い奴が来たー」と、
掻きむしって死ぬとよく言うでしょう。
あれは皆、その人の心に応じた人が、迎えに近寄って来ているのですね。
だから、怖い。

心のきれいな方の中には、
ここから離れた世界から紫の雲に乗って迎えに来て下さった言って、
亡くなる方もあります。
こういう方はだんだん死の世界に近づいてポッといきましたら、
これはもうあちらの世界にサッと行かれるのですね。


作善止悪

2020-03-29 00:25:39 | 日記

添付のお写真はインドのクシナガラに建立されている
お釈迦様の涅槃堂にて恩師「長尾弘」先生がお祈りされた時に
空中からヒラヒラと舞い落ちた金箔です。

手の平に乗せてお示しになられているのは恩師「長尾弘」先生ご自身です。
この涅槃堂を恩師は八回ほどご訪問になられておられますが、
その度毎に常に金粉・金箔が沢山降ってきます。

この金粉・金箔はいつまでも消えてなくなりません。
純度百パーセントの金です。
(学びの友が金の純度を調べたそうです。
   ご講演会で恩師がそのようにおっしゃっていました。)


恩師のご著書「思いの中に生きる」より

           救われるということ


先の続き・・・

最もわかりやすいのは仏壇とお墓ですね。
仏壇とお墓はたちまちにして万人が見て万人がわかります。
亡くなった方がそのようにして救われたり、
真っ黒になっているお仏壇がサラになって、
お洗濯をしたようになったり、
五十年も六十年もたった墓石がつくりたてみたいに
変わったりする場合があります。

あるいは、今日お見えになっている前田さんの
石川県に行かせてもらったら、
墓石の中から金がいっぱい出てきて、
これ取れるん違うかなと思っても取れないんですね。
まわりがキラキラになって、
石の中から金が浮き出てきても落ちないのです。

また、さすりますとキラキラになるお墓もあります。
こういうものは全部、見えない世界、霊の世界のことです。
といいますのは、この現れた世界の中に見えない世界の
エネルギーが満たされているのです。
あの世の世界、
私たちの心の有様によって暗い世界のものが支配したり、
あるいは上の世界から私たちの心を支配したりします。

上から下から、それは簡単明瞭です。
重い心をもった時は、必ず地獄から応援に来ます。
砂袋の中に砂をつめるたびに「もっとやれー、
もっとやれー」と応援に来ますから、
苦しみがだんだん大きくなります。
その代わり、風船のように浮き上がっておりますと、
上の世界から、「頑張って下さい。
もっと人のために尽くして下さい。

私たちも協力は惜しみません。
あなたの行為によって私たちが働きますよ」と言って、
エネルギーを注入して下さいます。
光の世界から自分がご協力を戴こうと、
闇の世界から戴こうと私たちの自由です。

その方法を知らなかったのです。
ですから、こうして私とご縁ある皆さんは是非、
光の世界からご協力いただけるような
日々の生活を行じて下さい。
必ずいただけます。


作善止悪

2020-03-28 00:31:17 | 日記

添付のお写真はお釈迦様の終焉の地インドのクシナガラに建立されている涅槃堂です。
この中にお釈迦様の涅槃像が安置されており、恩師「長尾弘」先生がこの涅槃像の前で
お祈りすると空中から金粉・金箔がたくさん舞い降ります。


恩師のご著書「思いの中に生きる」より

             救われるということ


先の続き・・・

それからピタッと苦しみがなくなりました。
そして、三日後に極楽往生されたそうです。
「おおきに(有難う)、おおきに」と言って死なれたそうです。
だから、私たちはたとえ九十年百年、間違った生活をしてしまっても、
この世を去る間際に自分の過ちに気付いた時、
神様はそのような者でさえちゃんと救って下さるのです。
だから、法とは如何に有難いかです。
そんなものは私の力とは違います。

その言霊によってご本人が正しい心に目覚められた時、
その方は救われるようにちゃんとして下さるのですね。
本当に自分の心が目覚めるということは尊いことです。
私も未熟者でございまして、
こうして皆様の前で話をさせていただくのも恥ずかしくて
しょうがないのですが、そのような私にさえ神様はいろいろと
形をもって表して下さいます。
たとえば、今見ていただきましたあの金。
皆さんに見ていただきましたね。

名刺に張ってあったあの金。
あのようなものを行った先々で見せていただいたり、
自然界に変化を見せてくださいます。
花が開いたり閉じたり、まあ花咲かじいさんですね。
また、暗いくらい山が一遍に昼のようになったこともあります。
お宅も勿論そうですね。
真っ暗の何とも言えないあの不思議な陰気臭いお宅が
たちまち光に満たされます。




作善止悪

2020-03-27 00:12:21 | 日記

添付のお写真はお釈迦様の終焉の地インドのクシナガラに建立されている
涅槃堂の中に安置されているお釈迦様の涅槃像です。
恩師「長尾弘」先生がこの涅槃像でお祈りすると必ず金粉・金箔が空中から
ヒラヒラと舞い降ります。
ご覧のようにお釈迦様の衣の上に金箔が舞い降りているのが視認できるかと思います。


恩師のご著書「思いの中に生きる」より

               救われるということ


先の続き・・・

このお話もよくするのですが、
九十何歳のおばあちゃんが亡くなられた時のことです。
生きておられた時に、
そこの息子さんが「先生、私の母親は、こんなん言うたら恥ずかしいんですけど、
死にはったら絶対に間違いなしに地獄へ行きます。
そやから何とか地獄に落ちんようにしてもらえへんか」と言われますので、
「しかし、そんな九十過ぎたようなお年寄りに、私らみたいな仕様のない者が
お話しても聞いていただけません。

だから、その時になれば何とかしましょう。必ずその時が来ます」と言って
帰っていただいたのです。
それから一、二年しましたらその時が来ました。
あの世に帰る時は、私たちのこの世の生活の総決算をしなければ帰れないのです。
その決算は何によってするか。
それは苦しみをもってします。
過ちが多いほど苦しみが大きく現れます。
そして、その苦しみの世界へ帰って行くのです。
そのおばあちゃんがいよいよ入院されました。

息子さんがまた見えまして、「子供が交替で看病についているんですけど、
その苦しみをもう見るにしのびません。
何とか助けてください」とおっしゃる。
ものすごい苦しみが襲ってきたのですね。
そこで、「それじゃあ、私のお話会のテープ、いつのテープでも一緒です。
どこのテープでもよろしいからそのおばあちゃんに聞かせてやってください」

(まあ、いつもどこのお話も皆一緒。というのは、
私は同じことばっかりしゃべっております。で、
この間も東京から電話がありまして、「先生のテープ
聞かしていただいているんやけど、
最初の間はこの先生どこへ行っても同じことばかり言ってはると思った。
しかし、何回も何回も聞かしてもろたら、
だんだんとこりゃすごい話やとわかってきました」と言われました。

だから、どのテープでもいいのです)と言いますと、
「そんなもん聞ける状態と違います」
「表面の意識が聞かなくても私たちの内在された潜在の意識が聞いて
くれはります。
だから、声を小さくしぼってもいいから耳元でかけてやっといてください」
そうしますと、
「アー、苦しい、痛い」と言ってのたうちまわっている人ですから、
最初はそんなもの聞けませんが、そのうちだんだん痛みがおさまってきたのです。

そして、その苦しみがおさまると同時に、
「アー、己が悪かったー、己が悪かったんじゃー」と言って泣き出したそうです。
たまたま「己が悪かったー」と泣いているところへ母屋の息子さん夫婦が尋ねて見えたそうで、
部屋に入って来るなり「己が悪かったー」と言われるから、
息子さんは、自分のことを言われていると思って「ほんまにクソババァ、
死ぬまで己が悪いちゅうて」と言われたそうです。
それで、テープを持って行ってくれた方が「いや、兄さん違うんです。
このテープ聞かせてもろてから、おばあさんが『自分が悪かった。
自分の生き方が悪かったんや』言うて泣き出してん」と説明されると、
お兄さんもやっと安心されて、
「アー、よかったなァ」と喜ばれたそうです。


作善止悪

2020-03-26 00:16:30 | 日記

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生の書「愛」です。


恩師のご著書「思いの中に生きる」より

            救われるということ


死後硬直は、まず顎から始まり、それから首、肩、
そのようにずっと起きる順序まで決まっているのですね。
その硬直の度合いを見て、
これは何時間前に事件があったか割り出す医学が法医学ですね。
しかし、心の世界ではそんな物質の常識を破ってしまうのです。
といいますのは、法のお話を伝えさせてもらった時に、
その場で硬直が解けてしまうのです。
極端なお方は皺なんか完全に消えます。
もう何とも言えない安らかなきれいな顔になります。

では、何故そういう不思議な現象が起きるかです。
それは肉体の生命が終わりましても、
意識はちゃんと生きているということです。
意識は皆生きております。
だから、その意識に対して話させてもらえば、
その方が悟ってくださるのです。
反省してださるのです。
そして、自分の過ちを心の底から本当の神に謝ります。
そこから祀った神や仏では駄目ですよ。

たとえば、お釈迦様の像があります。
これを拝めばよいと思って一生懸命拝んでも駄目です。
これは形だけです。
本当の御神仏(これはお姿も何もありません)に対して、
心から反省して過ちを悔い改めたとき、
その人の罪は即許されてしまうのです。

ですから、
その人のこの世の人生が八十年九十年たっておりましても、
息を引き取ってからでも、
反省して悔い改めれば救われるようになっております。
ましてや生きている間だったら、
私たちは皆救われるようになっております。
自ら悔い改めることです。
その時神様はすべてをお許し下さっております。
法とは本当に有難いものです。


作善止悪

2020-03-25 00:05:42 | 日記

添付のお写真は「モーセの御足を慕って」の恩師「長尾弘」先生の
旅でエジプトからシナイ半島を渡りヨルダンに入って
モーセの終焉の地「ネボ山」に建立されているモーセの
教会を見学して後、カイロ国際空港へバスで移動していた時、
バスの車窓より天空にご覧のようなアラビア語を
この旅に同行されていた学びの友が見られ、
カメラに収められました。
意味は「何かが出現する」との意味だそうです。
キリスト教ではイエス様の再臨を伝道の大切な一つとして
説かれていますよね。
このことに関係することかな(?)とも思ったりもしています。
お写真は恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」
にも紹介されています。(261ページ)


恩師のご著書「思いの中に生きる」より

                言葉の力


先の続き・・・

こんな仕様のない自分の癖をずっと拾い出してみたのです。
その中で、一番悪い癖、いろんな癖の根本は一体どこにあるのかと思って、
いろいろ探してみましたら、やはり怒りと愚痴でした。
「では、この怒りと愚痴を取るのにどうすればよいですか」と、
自分の内なる良心に尋ねました。

そうしましたら、これは普通一般の方には理解できないのですけれど、
中国の守護霊さんが中国語で教えてくださいました。
中国語は私にはわかりませんから、日本語でお願いしましたら、
片言の日本語で、「アナタ話大変下手アルネ」と言われます。
私は腹立てで愚痴っぽい。

これを直すのにどうすればいいですかと聞いたのに「アナタ話大変下手」と
言われますから、「こりゃおかしい。守護霊さん間違ってはんのかな。
ひょっとしてこれ偽ものかいな」と思っていましたら、
「アナタ言葉相手通ジナイ。相手理解デキナイ。
ソノタメ相手ノ方アナタノ言ウコト聞カナイ。
ソコデアナタ腹立テル」こうおっしゃたのです。

ああ、なるほど、今まで私の言うことを聞いてくれない、
私が言っても一つも言うことを聞かないと思っていたけれど、
私が聞いてくれるように話をしていなかったということに
気付かせてもらったのです。

「おい、これをしとけよ。あれしとけよ」と言っても、
相手が理解してくれなかったらしてくれません。
で、その時言っていただいた言葉は、
「コノ口カラ出ル言葉、相手ノ方無上ノ喜ビニ導ケマス。
マタ、同ジ口カラ出ル言葉、相手ノ方二死ヨリ辛イ思イ与エマス。
アナタ口ヲ開ケバ人々ニ安ラギ与エナサイ。喜ビヲ与エナサイ。

希望ヲ与エナサイ。ソレ以外ノ言葉口ニ出スコト駄目ネ」と、
こうおっしゃった。
本当にこう聞かせてもらってましたら、その通りでした。
日々の生活の中で、家内や子供に対して本当にぼろくそに言ったり、
言葉でもって相手を傷をつけてきました。

特に私は河内生まれの泉州育ちでございますので、
もう口の悪いことと言いましたら、
これ以上の悪い口はないような言葉を使います。
「何してんねん、ドアホー」
「どたま(頭)どついてこましたろか」言ったりして、
仕様のない言葉使いです。

そういう風な言葉を聞く方にしたら、どんな嫌な思い、
どんな辛い思いをしたことか。
そういうことも知らずに四十過ぎるまで過ごしてきました。
しかし、その言葉によって喜びも与えられるし、
また、ものすごく辛い思いも与えられるということに
目覚めさせていただいて、
これは言葉に気を付けなければならない、
言葉はこわいということを教えていただいたのです。


作善止悪

2020-03-24 00:38:59 | 日記

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生の書「心」です。


恩師のご著書「思いの中に生きる」より


              言葉の力

いつもお話させていただくのですけれど、この世の中では、
どんなものでも原因があるから結果があるのです。
原因なしに現れる結果は何もありません。
私たちが自分で気付く気付かないにかかわらず、
日々の生活の中で間違った原因を次々と作っておきましたら、
必ず間違った結果として実ってきます。
その収穫を他人は絶対にしてくれません。
全部自分が収穫しなければなりません。

ですから、少しでもよいことをしておけば、
良い原因が必ず良い結果として実ってきます。
そしてその収穫は自分自身ができます。
自分の蒔いた種は絶対他人は収穫してくれません。
全部自分がします。
悪いことも良いことも。
悪い原因というのは、何も殺人をしたり、よそのものを盗んだり、
それだけではないのです。
言葉によって、人に死ぬよりも辛い思いを与えます。

しかし、同じ口から出る言葉で、無上の喜び、
これ以上の喜びはないというほどの喜びも与えられます。
言葉はものすごい力をもっています。
ですから、
常に言葉によっても悪い原因・悪い種を蒔かないように
しなければなりません。
この話もよくさせてもらいますが、
もう十年近くになりますけど、
私もものすごい腹立て(怒りっぽい性格)でございまして、
愚痴ばっかり言いますし、

都合の悪いことが起きたらいつの間にか皆相手のせいにして
うまいこと言い逃れするような仕様のない人間だったのです。
それで、正法のお話にご縁をいただきまして、
「自分の持っている一番悪い癖・欠点を十ほど
自分で探してみなさい」と教えてもらいました。
で、探してみましたら、さあ自分の悪い癖・
欠点がいっぱいありました。
書き出していったのです。
よくないことが起きれば人のせい、
いいことが起きれば全部私のせい、
そして自分をかばうために平気で嘘を言っておりました。


作善止悪

2020-03-23 00:12:38 | 日記

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生が少年を舞台で
癒しをされているのを学びの友の方がカメラに
収めたものですが、
ご覧のように少年が着ていた衣類は視認できますが、
少年の肉体は消えてしまっています。
幽体(肉体)離脱なのでしょうか。
また、飾ってある花々も歓喜に躍動しています。
不思議(奇跡)写真の一枚です。


 恩師のご著書「思いの中に生きる」より


             正しく見る

先の続き・・・

私たちは両親から肉体船をいただいて、その船頭さんが私たちの本質、
本当の私たち自身すなわち霊です。
霊とも意識とも心とも言いますけれど、その意識が肉体船の中に乗って、
この肉体船を操縦しながら人生航路を渡って行くのです。
自然界の航海をみましても、ものすごいシケでもう海は暴風雨になって、
その船が今にも沈没しそうな時もあります。
また霧がかかってしまって、
もう本当に十メートル先も見えないような深いガスに覆われる時もあります。
また海はよく凪いで、何て言うのですか、畳の上をずっと通っているような
そんな静かな日もあります。

で、表面は安心で何も心配ないと思って航海していましても、その水の中に
鋭い岩礁が盛り上がって船の底を砕いてしまう場合もあります。
私たちの人生航路もそれと全く同じことです。
同じような人生を渡っているのです。
ある時には怒り狂って大暴風雨の時もありますし、
あるいは疑心暗鬼にとらわれてしまって何も見えなくなる時もあります。
また表面上うまくいっているなあと安心していたら、
突然にしてとんでもないことが起こる時もあります。
全く人生航路というのは自然界と同じことです。

そこで、
私たちが常に心の中に羅針盤あるいは今で言うレーダーのようなものを
据え付けましたら危険にあうことが少なく渡っていけます。
その羅針盤あるいはレーダーの役をしてくれるのが私たちの良心です。
私たちの心の中には、悪を犯してはいけない、
人の苦しみを何とか楽にしてあげたい、
人に幸せになってもらいたいと願う神の心があります。
その神の心を人生航路の羅針盤あるいはレーダーとして渡してもらった時、
間違いが少ない。
ですから、まず自分の五官から離れる。

五官から離れるということはどのようにすればいいのかと思って
私も随分追求させてもらったのですが、結局、
自分から離れて相手の立場からものを見させてもらうことと、
私たちを生かしていただいている神様の立場に立って自分と相手を見ること。
その時、中道の片寄りのない見方ができると思います。
つい五官にとらわれますと人様より好い恰好したい、
あるいはしんどい目をするより楽をしたいとか、
自分本位の見方になります。



作善止悪

2020-03-22 00:24:33 | 日記

恩師のご著書「思いの中に生きる」より

                 正しく見る


先の続き・・・

それから、この五官を通して私たちは諸々の煩悩が芽生えてきます。
その煩悩はどこから芽生えてくるかといいましたら、全部自己保存・自我我欲
から出てきます。
これももう毎回のお話ですけれど、私たちがものすごく腹を立てましたら心の
中が煮えくりかえります。

煮えくりかえるのは、
ちょうど器に水を入れてガスにかけてグラグラ煮えくるかえるのと同じような状態です。
器に水を入れて、そっと置いてのぞきましたら、
自分の顔もきれいに映りますけれど、グラグラ煮えくりかえったらもうとても見えません。
心もそれと同じような状態なのです。
怒り・愚痴、これはもう不足の心から出ます。
では、不足はどこから出るのかといいますと、やっぱり自己保存からです。

その自己保存によって、怒り・妬み・謗り・愚痴あるいは貪欲、
いくらあっても欲しい欲しいという、足ることを知らない思い、
そういうものによって心がその時その時に煮えくりかえってはいけません。
水が古くなって腐って真っ青になってしまえば、これも顔が映りませんし、
水草が生えたり水ゴケが上をいっぱい覆ってしまっても顔は映りません。
心もそのように、私たちが疑心暗鬼にとらわれた時には、
もうとても正しく見られません。
「あの人、あんなん言うてんの違うか、こんなん言うてんの違うか」と、
言ってもないことを言っていると、自分で決めてしまって、
正しく見られないのです。


作善止悪

2020-03-21 00:59:48 | 日記

添付のお写真はイスラエルに建立されている
聖墳墓教会内に安置されている聖母マリア様です。
恩師「長尾弘」先生がこの聖母マリア像に
光を送られて、そして心の中で対話をされた時、
聖母マリア様が涙を流されました。

聖墳墓教会はその昔、イエス様が磔刑に処せられた
場所ゴルゴダの丘に建っていると云われていましたが、
考古学発見が進むにつれて正確な磔刑場は今では
この場所ではないと云われています。

この聖母マリア様の像は向かって
イエス様の磔刑に処せられたものを模倣して
建てられた十字架の右横に飾りケースに
入れられて安置されています。

お写真ですからあまりクリアではありませんが、
聖母マリア様の瞼のあたりをよくご覧下さい、
涙で瞳が潤んでいるのが視認できるかと思います。

勿論、この像の材質は現地の石灰岩か
その類の物で造られています。
お写真は恩師のご著書
「真理を求める愚か者の独り言」にも紹介されて
います。(172ページ)




作善止悪

2020-03-20 00:47:46 | 日記

恩師のご著書「思いの中に生きる」より

             正しく見る


先の続き・・・

八正道の一番最初に「正しく見る」と説かれていますけれど、
この「正しく見る」というのはなかなか難しい問題です。
私たちが学ぶのに一番わかりやすい「正しく見る」方法といいましたら、
それはまず自分から離れてみるということです。
自分からものを見た時もう既に間違うのです。
なぜなら、この私たちには五官が与えられているからです。

眼・耳・鼻・舌・身の五官は何のために
与えられているかということを考えましたら、この肉体を保持するため、
自分の身を守るために与えられているのです。
口から食事をいただかなければなりませんし、目が見えなければ難儀ですし、
耳も聞こえなければこれも大変です。
だから、自分を守るために与えられた五官を通してものを見聞きしましたら、
どうしても自分本位の見方になってしまうのです。
そうなっても悪くないのです。
それが当たり前です。

自分本位はこの身を守るためです。
ところが、そういう思いで見た時、
もう既に思いが間違うのです。
自己中心に見ますから、
見るということに対して自己保存と自我我欲という
色眼鏡がかかっているのです。
だから、人は間違いやすいものである、
過ちを犯しやすいものであるというのは、
五官そのものが間違いを犯しやすく作られているからです。
深く追求しました時にこういうことがわかります。

このように、自分を守るためにいただいている
五官を通してものを見ますから、
どうしても自分を守りたい自己保存の思いにうつるのが当たり前です。
ですから、まず自分という立場を離れて、
たとえば、一対一の場合、常に自分の立場を離れて相手の立場に立って
ものを見させてもらった時、また、私たちを生かしていただいている
神の意識あるいは守護霊さんの立場に立って自分と相手を見た時に、
これは間違いのない正しい見方ができると思います。
ですから、常に相手の立場に立ってものを見、聞き、
また「善意なる第三者」
と信次先生がおっしゃいましたその立場に立って自分を眺め、
相手を眺めさせてもらった時、
自己から離れた正しい判断ができると思います。


作善止悪

2020-03-19 00:57:51 | 日記

添付のお写真は「モーセの御足を慕って」の旅を終えて、
恩師(故)長尾弘先生を始めとし多くの学びの友の方たちとカイロ国際空港へ
バスで向かう際、学びの友の方が天空にご覧のように十字架が
出ているのをカメラに収めたものです。
このお写真は恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」の
挿絵としても紹介されています。


恩師のご著書「思いの中に生きる」より


               正しく見る

私たちのこの学びの一番根本・基本となっておりますことは、
高橋信次先生によって『心行』の中にすべて明かしていただいております。
すべての教えは『心行』から始まっていると思います。
何回も何回も読ましていただきましたら、
最初は意味がわかりにくくても自然とわかってきます。 
そして、『心行』を日々の生活の師として行じさせていただきます。
『心行』には、まず私たちを生かしていただいておりますこの大自然の法則を
詳しく書いていただいております。

それから、人間として生きる道、まず肉体先祖に報恩供養の心を
忘れてはいけない、
また両親に対しては孝養を尽くさなければならないと説かれています。
このような生活の中で最低、次の八つの正しい生き方
『八正道』を行じなければなりません。
それは正しく見て、正しく思い、それから正しく語ること、それから正しく
仕事をなし、正しく生きさせてもらって、正しく念じ、正しく道に精進して、
正しく定に入るべし、このように説かれています。
この人間界というか、この世がうまく、まるく、
円滑に行くように法律があります。
この法律は人間として行を間違った時に罰せられるようにつくられています。

ところが、
「心」、自分の心で思ったことはどんなに悪いことを
思っても罰せられないのです。
思いは表面に表われないので相手にもわからないし、
そのために思いというものをつい疎かにします。
思うことぐらいどんなに悪いことを思ってもわからないし、
また人に迷惑かからないから自由させてほしいと思っています。
ところが、思いというのは、私たちが行動を起こすことを、いわば「陽」、
表れた行とすれば、行の前にする「陰」、隠れた行になるわけです。
ですから、思うことを間違っていましたら必ず言葉も間違ってきます。
その言葉が間違えば、また今度は行も間違ってきます。
したがって、思いから正していくことが大切なのです。


作善止悪

2020-03-18 00:45:44 | 日記

恩師のご著書「思いの中に生きる」より


先の続き・・・

   何事も 父母の心の安かれと 祈りつ我は 事を行う

そのように、自分の人生の迷いがある時は何をするにも、
お父さん・お母さんの心安かれと喜んでいただける方に進めば、
狂いのない人生航路が約束されます。
これは私の体験です。
私はできるだけ両親に喜んでいただけるように努力してきました。
しかし、その中で、親に心配をかけたくないのに、
自分に与えられた環境のために心配をかけたこともありました。
私は四十五歳の時に先の家内を亡くしました。
これは親にさせたくない心配でした。
ものすごく親不孝をしたと思います。

それでも母親は母親ですね。
もう八十を過ぎておられまして、
お父さんの看病を三年程してくださいました。
お父さんが無事にあの世に帰られましたら、
もうすることが無くなりましたから、
おこたに入って背を丸めて、
「早うお迎え欲しい。早うお迎え欲しい」と、
口癖のように言っておられました。
今から十二、三年前です。
私の家内が亡くなりまして、或る時、
田舎の兄さんに車に乗せてもらって訪ねてくれたのです。
私はもう全く食うや食うわずで、
家内が二人の子をのこして突然あの世に帰りましたから、
まあ下手な御飯を一生懸命炊くのですが、
炊いたことがないからうまくいきません。
おかずも買いに行ったことがないけれど、
買いに行って下手な料理をして、
子供たちに食べさせて、まあまあ食うや食わずの
生活をしていたのです。

その姿を見られたお母さんが、「これは私が行ってあげんと、
あの子は駄目になる。
私が行ってあの子を助けてやらないかん」と思って、
私の所に来てくださったのです。
今まで「もうお迎え欲しい、お迎え欲しい」と
言っておられたお母さんが、
「私はここの子供二人を片付けてやらなあかん。
片親ないんやから私が母親替わりになって、
この子らをちゃんと片付けなあかん。
そのためには自分が健康におらなあかん。

こりゃ、うっかりお迎えもろたら具合悪い」といって、
お迎えを返上されたのです。
今年は九十二歳です。
そして、本当にピンピンしてくれています。
今でも針に糸はちゃんと通しますし、縫い物もして下さいます。
もう動作なんかも若い人と変わらない位です。
そして、「一日一善を積ましてもらうんや」といって、
私の所のお客さんの按摩をして下さいます。
一つでも善い行いを積む実践をして下さいます。
親とは、この上なく尊い有難い存在です。


作善止悪

2020-03-17 00:23:14 | 日記

添付のお写真は学びの友の方が恩師「長尾弘」先生のご講演中を
カメラに収めたものですが、ご覧のように恩師とお花が白色化しています。
不思議(奇跡)写真の一枚です。


  恩師のご著書「思いの中に生きる」より


             尊い親の存在

先の続き・・・

私の二十歳位の時でした。
私は十六歳から家を出ました。
好い恰好をして、
「独立するから私を家から出してください」とお願いしました。
お父さんから何回も「家で百姓をして後を継いでくれ」と
言われていました。
私の十歳上の兄さんが軍隊から復員してきましたので、
私の必要が家ではないと思いまして、「家を出してください」と
お願いしたのです。
その時、お父さんは十六歳の私を捕まえまして、
「よっしゃ。お前も男の子。
一旦家を出たからには外の飯が辛いからといって家に帰っても、
家の飯は絶対に食わすことならん」こんなに言われたのです。
私は「それでも結構です」といって、家を飛び出しました。

それで、その間、いろいろと苦しいことやら、
迷いのことがありました。
その二十歳位の時に,今にしてして思えば大きな迷いではなくても、
その当時はそれが精一杯の迷いでした。
それで、どうすればこの迷いの中で間違いのない道を進めるのか、
それを追求していました時に、お父さん・お母さんに最も
喜んでいただける方を選ぶべきことに気が付きました。
そして、お父さん・お母さんが喜んでくれる方を人生の
羅針盤として進みますと、
何かにつけてうまくいきました。
親が心配してくれる方を選べば必ず失敗します。
これは、親の心は神の心だからです。
だから、「何事も 父母の心の 安かれと 祈りつ我は 事を行う」―――
私の二十歳の時の短歌です。