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浄心庵・長尾弘先生「作善止悪」

「作善止悪」
三世の諸仏、過去の仏も未来の仏も現在の仏も
悉くこの法門を説き給う
良き事を行い悪しき事を止めよ

「作善止悪」

2018-07-31 00:38:59 | 日記

       恩師のご著書「講演集」より


                 講演集、 二

        出せば入る法則――原因結果の法則

先の続き・・・

それはさせていただくから、していただけたのです。
しなければ、もし良い条件で他の大手から売りにいかれたら忽ち得意先を
取られてしまうはずですね。
なんと東京のお店に私から出向いたのはたった一回、
しかも商売の話は一分間で済みました。
そして二十五年間、こういう今の人助けの生活に変わるまで、
ずっとお取引していただきました。
これは出すことによって入ることの一つのいい例だと思います。
商売において、同じ商品を買っていただくにしましても、
「これ一つ売ったら五百円の口銭がある、
なんとかこれを売って儲けてやろう」と思いますと、
相手の心にはもう入らないのです。

「この商品によってこの人が便利になり、幸せになってもらえるのだ、
喜んでいただけるのだ、
儲けていただけるのだ」という一念でお勧めしますと、
買う方の心にシャッターが下りません。
同じ利益をいただいて、同じ物を売るにしましても、
利益を頭に入れて商売しますと、
金儲け主義となって相手に通じないのですが、買う側の幸せを思い、
その方のお役に立つのだという一心でお勧めした時は、
相手の方にそのままストレートに入っていきます。
商売というのは、品物を売っているのだと思っていますけど、
本当は自分という人間の心を買ってもらっているのです。
信用ですね。

「あの人は信用できる、あの人の言う物なら買っても間違いない」というように、
全部心を買ってもらっているのですね。
品物は動いています。
そして欲がからんで取引しますと、
「ああこれを買ってえらい目にあった」ということに
なってしまいます。
この自然界といいますのは、すべて調和を目的として運営されていますから、
私たちもそのように生きさせてもらえば、
その時苦しみの少ない安らかな人生を過ごすことができます。


              ~ 感謝・合掌 ~




「作善止悪」

2018-07-30 00:35:29 | 日記

     恩師のご著書「講演集」より


                講演集、 二

       出せば入る法則――原因結果の法則

先の続き・・・

私はこの正法にご縁をいただく前から、
いろいろ不思議な体験をさせていただきまいたが、
商売の上でも自分が儲けようとしてはいけないということを
知っております。
人さまに儲けてもらう、かといって自分が損をしたら
商売になりません。
人さまにご奉仕させていただくことをモットーにさせて
もらいました。
関東のある所に本社のある貸布団業界の大手会社に
ご縁を頂きました。

毛布業界では最低四カ月の手形、長くて六カ月、
或いはお産手形と言いまして十カ月の手形もあります。
そんな時代に、そのお得意さんから現金で取引してやると
言ってもらったのですね。
こんな有難いことはありません。
業界では絶対といっていいような大手のお得意さんが、
ひょいと舞い込んできて下さったのです。
まさに天上界から与えられたご縁です。
その時私はこれを全部儲けたら申し訳ないと思いました。
その後たった一度だけ東京の本社へ行きました。
受付の方に「大阪から参りました」と言いますと、
「どうぞ」と案内して下さいました。

オフイスの机が並んでいるそのずっと奥の、
社長の部屋へ行くまでの途中、
事務を取っている方たちが立って礼をして迎えて下さるのです。
「へえー、私のような者が来ても皆がお辞儀をしてくれるのだなあ」と
思って社長室にはいりましたら、
案内してくれた人が社長さんだったのですね。
私に頭を下げてくれたのではなくて、社長さんにお辞儀をしていたのです。
よく考えてみると、私に頭を下げてくれるはずはありません(笑い)。

社長さん、会長さんとお見えになりまして、いろいろ世間話をしましたあと、
では商売の話をしましょうかということで、
「条件はどういうことですか」と聞かれたのですね。
私は、「地元の問屋さんに入れさせていただいている相場で
買っていただいたら結構です。
一銭も余計には要りません。
しかし送料、荷造り料はお宅さんで持って下さい、
それ以外は要りません」と、
話をさせてもらいました。

「分かりました。では取引はして下さい」と、
お話は何と二、三分ほどで済んでしまいました。
その後二十五、六年お付き合いさせてもらいました間、
ずっと現金で買っていただきました。
私は何とか会社にご奉仕させてもらわなくてはいけないと思ったのですけど、
受け取っていただけないのです。

で、仕入れ部長さんが私のところに来て下さるので、
「うちは、これで儲けさせてもらっています。
私だけが儲けては申し訳ないですから、
仕入れ部長さんに私の感謝の気持ちとして、
売上金額の二パーセントを還元させていただきます」と申し出たのです。
これは一億としますと、その二パーセントはいい小遣いになります。
盆と正月に分けまして、この半期の売上の二パーセントを
仕入れ部長さんに送っていたのです。

そうしますと、その会社に大きなメ―カーから売りにきますね、
ところが絶対に買わない。
「いや、うちはもう専属の製造所がありますから結構です」といって、
私のところより歩のいい話を持っていこうが、どんな大きなメーカーから行こうが、
よそからは絶対に買わないで、そしてほかに必要なものまで、
私のところに注文があるのですね。
私は注文を頂いたらよそでそれを買ってきて送る、
それで又何パーセントか儲けさせていただくという具合で、
相手に儲けて喜んでもらうことによって、
自分を守ってもらうということと必要以上に儲けさせていただくことを、
身を持って体験させてもらいました。
今日、こうして結構に生きさせてもらいますのも、商売を通して「こんなにぎょうさん
儲けさせてもらっていいのかなあ」という程儲けさせてもらったお陰です。
とはいっても、何億と儲けたわけではありません。
足ることを知った儲けです(笑い)。


             ~ 感謝・合掌 ~


「作善止悪」

2018-07-29 00:45:00 | 日記

 恩師のご著書「講演集」より


                 講演集、 二

         出せば入る法則――原因結果の法則

「他を愛せば自分が愛される」というのは、
「出せば入る法則」によるのです。
出さなかったら入りません。
自然はそのようになっております。
どんなに大きなダムをこしらえても、
大雨が降ったあと出すのはいやと言っていたら、
忽ちにして決壊しますね。
水門を開けてダアーッと排水するから、又入ってきます。
この肉体を見ましたらもっと明らかですね。
お尻と前と汗の穴を全部セメントで固めてしまったら
これはえらいことです。
三日を経ずして死んでしまいます。

前と後ろを縫ってしまって出ないようにしますと、
もう生きられません。
「私は、もう一週間も便秘でうんちが出ません」と
いう方がありますが、
しかしちゃんとおしっこは出ています。
神様は本当にうまいこと造って下さっています。
一週間、十日、或いは二十日間、大便が出なくても、
大便というのは九十パーセント以上は水分ですから、
その水分を腸が吸収してしまうのです。
そしてその水分の抜け殻になったカンカチコのうんちは、
極小さいものになってしまうので、一週間も十日も、
長い人は一か月でももつのです。
そして、
水分がみな抜けたコロコロとした堅い石みたいなのが
出て来ます。
私のところにひどい便秘の方がお見えになって、
すぐ治る方もありますし、治らない方もあります。
「お宅、ケチですか」と聞きますと、
「いや、私はそれほどケチとは違いますけど」
「それじゃ、そんなケチケチせずに出して下さい」
と言うのですけど(笑い)。

それは不思議なものですね。
うんちというのは一度にたくさん出るものなのに、
十日も出なくて一体どうなっているのかなあと思いますが、
ちゃんと乾燥して水分はみな吸収されて滓たまるので、
量としては少なくてすむようになっているのですね。
大便が出なくても水分として汗なり或いは小便なりとして
出してもらうから体がもつのです。
出させてもらうから入るということを知ることです。


            ~ 感謝・合掌 ~


「作善止悪」

2018-07-28 02:36:51 | 日記

     恩師のご著書「講演集」より


             講演集、 二

    人間は皆、自己が最もいとおしい

先の続き・・・

先ず自分を愛さなくてはいけません。
その自ら愛するといっても、
「ああ、可愛い可愛い」といって自分をあまやかしたらり、
自分の身体をなでさするのではありません。
これは肉体を愛しているのです。
自らを愛するとは「自分の心を苦しめないこと」です。
自分の心を苦しめないとうその苦しみとは何かといいますと、
これはいつも言います怒り・妬み・謗り・愚痴・・恨み・
憎しみ・不要の心配・不安・恐怖、これらの苦しみを、
自分の心の中に入れないこと、これが自己を愛することです。

そして、人さまに対しても腹を立てさせたり、
愚痴をいわせるような事をしたり、
不安・恐怖を与えたりしてはならないのです。
他を愛すれば愛するほど、今度は他から自分が愛されます。
「汝の隣人を愛せよ」の隣人とは自分の身近な隣人です。
自分の隣にいてくれる身近な人たちを愛した時、
つまりその人たちに一生懸命尽くした時、
その身近な方から愛されるのです。
他という対象を通して自己を愛することになるのです。
他の方、隣人を大事にすることによって自分が大事にされ、
愛し、尽くすことによって、
自分が愛され、尽くされます。


         ~ 感謝・合掌 ~



「作善止悪」

2018-07-27 01:56:09 | 日記

     恩師のご著書「講演集」より


             講演集、 二

      人間は皆、自己が最もいとおしい

人間といいますのは、今地球上に五十億の人口がありますけれど、
この世の中で誰が一番いとしいかをよく考えてみますと、
自分ほどいとおしいものはないのです。
「いや、私はあの人が好きでいとおしくて・・・」といっても、
それは嘘です。
「うまいことして、その人と結婚したら、その人はちゃんと食べさせてくれる」
というように、心の底ではまず自分のことを第一に思っています。
「私はこの子供が可愛くて可愛くて」といっても、
その子が苦労かけてくれたらどうも
ならんと思いますし、掘り起こしてみると、全部自分のことに帰着します。

「私は主人を命の限り愛しています」といっても、
主人がよそへいってお金を持ってきてくれなかったりすと、
主人を憎むようになります。
主人のほうも「私は家内を愛しています。いとおしくてたまりません」と
いいましても、心の底を掘り起こしてみると、
「この人がいないと洗濯もしてくれない、
めしも炊いてくれない」という具合に結局は全部自分の為です。
お釈迦様は、「自己がいとおしいように、人さまも各自、自己がいとおしい、
だから自分をいとおしむ如く、他をいとおしみなさい」と教えておられます。
これは蚊一匹、蟻一匹といえども自らをいとおしんでいます。
だから私たちは自分をいとおしむように、
他のすべての命あるものをいとおしまなくてはならないのですね。
「自らを愛し、自らを愛するが如く他を愛しなさい」


            ~ 感謝・合掌 ~




「作善止悪」

2018-07-26 01:02:22 | 日記

       恩師のご著書「講演集」より


              講演集、 二

         得がたい法のご縁

先の続き・・・

この間訪ねてきまして、大学でのテストの話をしてくれたのです。
すごくよくできる子です。
テストでは鉛筆と消しゴム以外は出してはいけないそうですね。
ですが、学生手帳と私の写真も持っていったそうです。
数学の問題を見ましたら、全部はっきり覚えているものだったのに、
その時に限って油断して私の写真を出し忘れたそうです。
それで四問とも全部正解したのですが、0点になったのです。
問題をよく読むと、「この中から二問選択して解きなさい」と
書いてあるのを、
出来すぎて四問全部解答したので、0点になってしまったそうです。

「先生の写真を持っていなかったら、えらいことになりました」と
笑っておりましたけど、すごい心の支えになるものですね。
この息子さんの場合のように、ほんとうに短い時間、
ちょっとお会いしただけでしたが、
そのようにさっと素晴らしく変わってしまった方もあります。
心や肉体が地獄の底のような生活をなさっていた方で、
ここにお見えになった時は全く
恐ろしい鬼婆のような顔をしておられましても、
帰る時には仏様のような顔になって帰られる方があり、
それは不思議なことです。
肉体が癒され心が安らぎますと、忽ちお顔の相が変わってしまいます。


             ~ 感謝・合掌 ~



「作善止悪」

2018-07-25 03:02:42 | 日記

       恩師のご著書「講演集」より


               講演集、 二

            得がたい法のご縁

先の続き・・・

今、来ていただいている或るお方は、
以前にただ一度お会いしてね、
忽然と素晴らしいお方に変わっていただきました。
それはもう周りのお方がびっくりされてしまうほどに
変わられました。
これはほんとうに奇跡ですね。
自分の心に目覚めれた時、忽ちまちにしてその人間性が
変わります。
昨日見えておられたTさんの息子さんの場合も、
一度お会いしてお話させてもらいましたあと、
素晴らしい変貌をしてくれました。
大学の四回生ですけど、体が弱くて半年ほど入院されたりして、
長男さんですから可愛いと大きくされた為に、
すごくわがままになりまして、
自分のお母さんに対する要素が大変なんです。

思い通りにしてもらえないとひどいことをするのでほとほと
困られまして、
「先生、なんとか一回お話を聞かせてやって下さい」といって
連れて見えました。
僅か三十分か四十分ぐらいしかお話できなかったのですが、
もうここの玄関を出る時から態度が変わり、
帰りの電車の中、夕食への感謝と、
お母さんは腰が抜けるほどびっくりして電話を下さったのです。
「あれからずっと、それを守ってくれています。
いや、うちの子はほんまものですわ」と。
この守るべきことというのは、怒り・妬み・謗り・
愚痴・恨み・憎しみ・不要の心配や
取越し苦労・不安・恐怖・嘘・貪欲を無くすことだと言って
話しましたら、その息子さんは学生手帳に中に
この項目を書き込みましてね、持って歩いているのです。
そしてそれを実践して素晴らしい変貌をしてくれました。


       ~ 感謝・合掌 ~




「作善止悪」

2018-07-24 00:29:45 | 日記

     恩師のご著書「講演集」より


              講演集、 二

         得がたい法のご縁

見えない世界にいる苦しい方も、正しい教えによって即、救い上げます。
見えない世界の方はこの世に生きる人間よりもなお、悟りが早いです。
なぜ霊の方は悟りが早いかといいますと、
それは肉体、つまり目・鼻・耳・口・皮膚の
五官がないから、悟り・目覚めが早いのですね。
しかし不幸にして法にご縁がございませんと、
永遠といってもよいほどの長い時間を苦しんでおられます。
それは気付くことができず、目覚めを与えられないからです。
昨夕も、ほんとうに有難いことで、わざわざ富山県から、
そして新潟県からおいでになっていただきました。
今日お集まりの皆さまは関東の皆さまでございますね。
ほんとうによく来ていただきました。
ありがとうございました。

ご縁というのはまことに得難いもので、
この私のご近所にあっても縁のない者は近づくこともできません。
しかしご縁のある方はご近所からもこうして熱心に来ていただけますし、
遠い県外からも集うていただけます。
「正しい教えに縁を得ることは、
片目の亀があの太洋の真ん中で一片の流木に巡り合うよりもなお難しい」、
つまり太平洋の真ん中に流れて来る一片の板切れは、
見つけようとしても、なかなかどうして見つかりません。
そして二つの目を持つ亀が片目ということは、
世界が半分しか見えないということです。
その亀が流木に巡り合うよりもなお難しいというほど、
ほんとうの教えに巡り合うことは
難しいそうです。
しかし、こうしてご縁を頂いて巡り合えるというのは、
それほど尊いご縁によっているのであり、まことに得難いご縁です。


             ~ 感謝・合掌 ~


「作善止悪」

2018-07-23 02:37:47 | 日記

      恩師のご著書「講演集」より


              講演集、 二

       無償の行為とそれに伴う現象

先の続き・・・

他の地方でも正法を説いている先生がおられまして、
その方は私を非難されます。
「あれは現象ばっかりだから駄目だ」と。
しかし現象が現れるのは、正しい行いを行ったから現象が現れるのです。
だからこれは理論的に証明することができます。
また、私は書いたものをまだ本に著わしておりません
(『愚か者の独り言』第一集はこの講演後に刊行)。
そうしますと、「正しい教えとは、文証・理証・現証がなくては駄目、
あれは文証がないから駄目です」と、
私のことを私のいないところで人さまの前で注意をしてくれます。

しかし自分が書かなくとも、縁があれば人さまに書いていただけます。
現に山口県でお話させてもらいますと、
このお話させていただいたものを全部そのままテープから文字に移して清書し、
全国に送ってもらっていただいております。
ほんとうに有難いことです。
またそのコピーを読まれた方々が泣けて泣けて、そして病気が癒されたと言って、
喜んで下さる方もいっぱいおられます。
現証はその行いによって現れますから、行いがあれば理論的に証明できます。
文証も自分がしなくとも、周りがして下さいます。
文証・理証・現証、これは正しい教えについて回るものです。


             ~ 感謝・合掌 ~



「作善止悪」

2018-07-21 00:46:18 | 日記

       恩師のご著書「講演集」より


              講演集、 二

        無償の行為とそれに伴う現象

先の続き・・・

又、よく金が現象として出て来ますね。
昭和五十二年七月に泉大津の市民会館でお話させていただきましたら、
その会場一面に金が降りました。
私の体などはキラキラになりまして、その時見えた方は、
皆合掌してひれ伏しておられました。
その会場にいた一人が、自称偉いお方の所に迷い込んだのです。
そこで「大阪の長尾先生という人からこんな金が出ます」いいますと、
偉いお方は、「いや、それは動物霊です」と言ったのです。
そして、その人が又私のところに、
「いや、あんな金がでるのは動物霊だと言われましたよ」と
告げにくるのです。
だから私はその人に言ったのです。

「そうです。動物霊もそれぐらいのことはできます。
しかし私をよく見て下さい。私が動物のような生活をしておりますか。
もし私が動物のような生活をしておって、こういう現象が現れたのなら、
それは動物霊の力です。
私がもし、見ていただいて間違いが少なく、
良き行いを積んでおりましたら、
私に現れる現象は神の力です。
私の行いを見て判断してください。
私の生活はいかがですか」とその人に聞きましたらね。
「それはそうですな」と言って帰られました。
このように、その人の行いを見て、
その人に現われる霊的現象が正しいか、
間違いかを判断したいいのですね。
そうすれば、はっきりと分かります。


           ~ 感謝・合掌 ~




「作善止悪」

2018-07-20 00:30:38 | 日記

       恩師のご著書「講演集」より


                講演集、 二

         無償の行為とそれに伴う現象

先の続き・・・

それはみな、その行動、行為に対して見えない世界から
ご協力を頂くからです。
それがエネルギーとなって私の体を運んで下さいます。
だからよく新幹線で山口や広島に行かせてもらうのですけど、
その道中、自分一人で静かに列車の中で瞑想しておりますと、
ほんとうに自分というこの肉体が、今、神様のご指示によって、
その目的地に運ばれているのだなあということがはっきり分かります。
私の意志ではなしに、神のご意志によって
私の肉体を運んでいただいている、
これは、至らない私ですけれど、その私の想念行為によって、
神様が私を使って下さっているのです。

そして、行く先々で信じられない現象を現わしていただきます。
講演の時に会場一面に金が降ってきたり、或る会場がピカピカになったり、
あるいは生けて下さったお花が全部、
突然にしてパアーッと一度に開いてくれたりという現象が起こります。
これは私にできることとは違います。
神様がして下さるのです。
その法の正しさ、その教えの正しさの証明として、
信じられないようなそういう現象を
現わして下さいます。

過去世の名称にとらわれて、
今生に自分を見失っている方がありますけど、その方に、
ある人が私のことを尋ねたら、
「ああ、あれは霊的なことばかりやっているから駄目です」
と言われた、とって私に話してくれました。
過去世の名称にとらわれることが霊的である、
と気が付かないでいるのです。
しかし私はお話の中で、
霊的なことに囚われてはなりませんといつも言っております。
この世の中で私ほどあの世の世界の方との体験を
豊富にさせてもらった者も数少ないと思うほど、
いろいろと体験させてもらっています。
迷っている霊の方をこの世の方の中に入っていただて、
その方と皆さまの前でお話をして救い上げます。
しかしそんなものに囚われてはなりません。

            
    ~ 感謝・合掌 ~



「作善止悪」

2018-07-19 02:16:31 | 日記

     恩師のご著書「講演集」より


          講演集、 二

     無償の行為とそれに伴う現象

先の続き・・・

世の中には天からの啓示、又は霊示を受けて、
次から次へと無限に言霊が出て来る方もあります。
又霊が乗り移って話す人もあります。
私は、そういうものはいっさいないのでございます。
全くの凡夫でございますので、
私の場合は天からも教えてくれませんし、
違う世界からも教えを受けることができません。
又声を聞くこともできません。

自分のこの肉体を使って、求める心なしに、
この肉体を最大限に使わせていただいて、
人さまの為に生きさせてもらった時、
その実践を通していろいろなことを学ばせていただけます。
人との出会い、そこに起こる出来事の中から学ばせていただく、
これが実践を通して学ぶということですね。
自分の体を動かして良き行いをすることです。
私の一年間にはたった一日のお休みもございません。
しかも、昼夜一睡もしないで飛び回ることもあります。
これが不思議でございまして、私と一緒に行っていただきますと、
その方々も疲れが出ないのですね。

二、三年前、私のところのK先生と一緒に岐阜・愛知と
回らせていただきました。
土曜日の朝から出まして岐阜に先に行かせてもらい、
それから愛知の大山に行きましてお話をしました。
その夜中に変な迷える霊の方が出て来まして、
そういう方を救わせてもらったりしていますと、もう夜中の二時です。
さあ、これから帰りましょうかといって、車に乗って帰ってきました。
ちょうど栗東あたりで夜が明けて、岸和田へ七時頃に帰り着いたのですね。
同行の方は一睡もされていないのですが、
その足で奈良の当麻に牡丹を見に車で走られました。
私はお人が見えましたから、少し遅くなってお昼前から出掛けまして、
当麻でお話会をさせてもらいました。

こうして全く一睡もしないで飛び回っているのです。
ところが眠たくもなければしんどくもなりません。
ひどい時は三日間で三時間ぐらいしか寝ない時もありましたね。
あちらこちら飛び回っていますと、寝ている間がないのですね。
それでも次に迎えにきて下さる方が
「先生の目は欄々と光っていますね」と言われます。
一睡もしていないのに欄々と光ってくるのです。


             ~ 感謝・合掌 ~





「作善止悪」

2018-07-17 23:55:10 | 日記

     恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 二

        無償の行為とそれに伴う現象

先の続き・・・

今、皆さまの心に「ああ、私は幸せだ、私には何の苦しみもない、
本当に幸せだ」という方がおられますと、
その幸せは結果として現れていますから、
過去に喜びの原因をお作りになっていて、
今がその喜びの中にあるのです。
では、不幸にして今、苦しい、なぜ私は苦しいのだろう」という人が
ございましたら、それは苦しみの原因を過去において積んだから、
今、結果として苦しいのです。
原因があるから、結果が現れております。
ただ、させていただくのみ。一切の報酬を求めないで、
ただ、させていただくことです。
世の中に偉いといわれる人は数多くおられますが、
自らを捨てて他を生かそうと実践されている本当の偉い人は、
砂の中からダイヤモンドを捜すようなもので、
なかなかお見かけできません。

神理、正法を口にはしましても、思いにおいて、言葉において、
行いにおいて、何とかして会員を増やそう、
会員が減らないようにしよう、
或いはお金に困っているから寄附をしてもらいたい、長生きしたい、
などと言ったり思ったりしておりますと、これはもう正法
神理とは違います。「私こそ法の後継者、正法を伝えるのは私一人だ」と
自分のことを自分で先生、先生と言ったり、はっきりと嘘とわかっていて、
知らない会員を騙したり自らを正当化する為に人さまを非難中傷しながら、
「私は悪口は言ったことがはない」などと言っておれば、
これはもう帳消しですね。
教えの中にも誤りが出て来ます。
行いが間違っておりますと、正しい教えは説けません。
自分を捨てた、自己を犠牲にした、他の人への奉仕、
その行為の中に正しい教えが沸き上がってきます。


            ~ 感謝・合掌 ~



「作善止悪」

2018-07-17 03:13:22 | 日記

      恩師のご著書「講演集」より


             講演集、 二

      無償の行為とそれに伴う現象

そこで間違ってはならないことは、
人さまの為に尽くさせていただいて、
一生懸命心底から尽くした時に、人から裏切られた場合です。
この時、私たちは自分の心を傷つけます。
「ほんとうになんという憎い人だ。あれだけしてやったのに、
あの恩知らず。
ようあんな恩知らずの人があったものだ」と言って、
自分が尽くした人の裏切りによって、
夜も寝ないで苦しんでいるのですね。
この苦しみが、せっかく良い行いをしながら自分を
不幸におとしいれている
一つの大きな原因となっています。

「あの人は神か仏のような方で、
あんないい人がなぜあんな不幸な一生を送ったのか、
あんないい方がなぜあんなえらい病気になったのだろうか」と
思うような方がたくさんおられます。
それは全部、自分の心を苦しめたという原因が、
苦しみという不幸な結果として現れているのですが、
案外このことに気が付いていません。
「裏切った人が悪い、私は一生懸命尽くしたのに、
あの裏切り者が悪い」と言って、
人を恨みます。
しかし苦しんでいるのは自分の心です。
恩を忘れて裏切った人の心は苦しんでいません。
裏切られた人は夜も寝られないで腹を立てて怒っていますが、
裏切った当人は、そんなことには関係なくぐうぐう寝ています。

         
      ~ 感謝・合掌 ~




「作善止悪」

2018-07-16 03:12:40 | 日記

      恩師のご著書「講演集」より


             講演集、 二

        良心(神我)とエゴ(偽我)

神様は、人間をお造りになった時、
「ああ、私の最高傑作ができた」と喜んで下さったそうです。
自分に似せて、その心まで私たちに注いで下さったのです。
しかし肉体というものを頂きますと、この肉体から沸き上がる心は、
自己保存、自我我欲です。
自分のこの肉体をまもらなければならないと思い、病気をすれば痛い、
苦しいので、何とか救われたいと思って、自分をかばう心が出て来ます。
それがだんだん高じますと、他の人はどうでもいい、
自分さえ良ければいいという心になってきます。

そして神から与えられた心、それは神我(良心)です。
どんな立派なお方の心の中にも、必ず神と悪魔、
或いは仏と邪気が住んでおります。
そしてどんな小さなことをしようと思いましても、
心の中で神我(良心)と偽我(エゴ)の葛藤がおこります。
一番分かり易いのは今日ここへ来ていただくのに、
肉体から沸き上がるエゴの心は、
「暑いのにもう止めておこうか。

あんなところに行くよりも、家でゆっくり休むほうが楽でよい」と思います。
しかし神からの心は、
「いや、やっぱり行って法の話を聞いたほうがいい」と思い、
心の中で葛藤しているのですね。
行こうか、止めておこうかと、一時葛藤します。
そして「いや、やっぱり行こう」と心に決めてくださった時、
皆さんの肉体はここへ向かいます。
しかし自分本位、肉体本位のエゴの心が勝ってしまいますと、
「ああしんどい、もう止めた」
と言って、ここへはお見えになりません。

そのように朝起きるにも、
早い話が「もうちょっとゆっくり寝たいなあ」と思うのがエゴです。
「いや、はやく起きてご飯の支度をしなくてはいけない、
皆に迷惑をかけてはいけない」と思うのが良心です。
ちょっとの間戦いまして、そしてエゴの勝った人もあります。
その人は行いがどうしても自分勝手なものになっていきます。
自分勝手な生き方をした時、周りに迷惑をかけます。
迷惑をかけるから嫌われます。
ところが人さまの為に生きさせてもらいますと、
昔から「働く」ということは「はたを楽にする」といいますように、
他の人を楽にすることができます。

楽にしてもらうと、してもらった人は喜んでくれます。
「ああ、あの人は良い人だ、良くしてくれる。
あの人の為に、私も良くさせていただかなくてはいけない」といって、
自分のところに幸せが返ってきます。
エゴの生活をするのも、良心の生活をするのも、これは全く自由です。
神様からその選択の自由を与えられています。
どちらにしてもよいけれど、
しかしそれは「その結果として自分が収穫するもの」ですね。
エゴの生活をしますと必ず不幸になるということです。
そして良心の生活をすると必ず幸せになれます。


               ~ 感謝・合掌 ~