浄心庵・長尾弘先生「作善止悪」

「作善止悪」
三世の諸仏、過去の仏も未来の仏も現在の仏も
悉くこの法門を説き給う
良き事を行い悪しき事を止めよ

「作善止悪」

2019-08-31 00:25:36 | 日記

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第二章 必要なのは正しい生命観の確立

             ◆死ぬとは何か◆

先の続き・・・

この世の肉体生活において色の世界は空の世界と重なり合っていて、
私たちの目に見えるのは、このうち物質化している色(現象)の
部分だけなのです。
しかし、生まれて老いて、最後は必ず死ぬという、
時間の経過とともに移ろい消滅していく肉体が今目の前に
現れている次元を超えた次元に、
永遠に「ある」世界―――言葉を換えれば、
形を現わしたり消したり自由自在に創造できる
「おおもと(根本因)」の世界―――がちゃんとあるのです。
もちろん、神は永遠の存在としてそこにおいでになります。
死ぬと魂は肉体を脱してこの実在界に帰っていきます。
これが本当の死なのです。
肉体に未練を持ったり、この世に思いを残すと、
魂は肉体からスムーズに離れなくなり、死にきれません。
迷える霊魂としてさまよってしまうということを意味します。
これをわかりやすいたとえで説明すると、

お風呂の湯船いっぱいにお湯をはったとします。
そこへスポンジボールを漬けたとしましょう。
スポンジボールの中へ水が浸透してゆきます。
お風呂のお湯が実在界であって、スポンジボールが現象界です。
スポンジの中にお湯が浸透しているように、
この世の現象界の中にあの世の実在界が浸透しているのです。
現象界と実在界が重なって一体となっています。
スポンジボールをお湯の中に漬けて、
「これはスポンジだけですか」と尋ねれば、
多くの人は「いや、中に水が入っています」と言います。

「これは水がけですか」と尋ねると、
「いや、スポンジでしょう」と言います。
つまり、不二一体、見えないものと見えるもの、
実在界と現象界が一つとなって現れる世界が、
この世であるといえます。
このスポンジボールからうまく思いを離して、スポンジの外に出て、
実在界へ帰った人が成仏された方です。
そして、湯垢のようにスポンジボールに付着して「ここは住み慣れたところだ、
このスポンジが好きだ」と言って、スポンジから離れない人が迷える霊です。
実在界こそは私たちが帰るべきふるさとです。
そして、私たちは肉体がなくなっても、霊として存続します。
数々の体験を通して、誰よりもよく知っていると自負しています。




「作善止悪」

2019-08-30 00:48:20 | 日記

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第二章 必要なのは正しい生命観の確立

               ◆死ぬとは何か◆

先の続き・・・

そのためにも生命の本質を知らなくてはなりません。
心臓も肺も胃も私たちの意志で動かしているわけではありません。
私たちは生命の祖でありエネルギーの元である神から分け与えられた命によって
生かされている存在です。
ですから、人は神の分け御霊と呼ばれます。
自分の命がどこから来てどこへ帰るか。
これがわかれば、心穏やかに死を迎えられます。
周囲の人々には迷惑や心配をかけなくてすみます。
「この身体は私のもので、私が生きているのだ」と思われがちですが、
それはとんでもない見当違いです。
その証拠に、「私は年をとりたくない」と言っても、
また「死ぬのは嫌だ」と言っても、
時間が経てば必ず年をとり、死ななくてはなりません、
これを自分ではどうすることもできません。

自分がいただいている命がどこから来ているのかが理解でき、
この世から離れる時は諸々の執着より思いを離し、
感謝できてはじめて、帰るべきところに帰ることができます。
「母なる大地に肉体をお返しし、魂は天の父なる神のみもとに帰る」ということです。
あの世の存在については科学的な証明がないではないかという方もいらっしゃいます。
しかし、臨死体験の研究やサナトロジー(死の科学)の開拓者として世界的に有名な
「死ぬ瞬間」の著者エリザベス・キューブラロス(一九二六年生まれのスイスの精神科医)
の努力などにより、近年では一般にもかなり浸透しつつあります。
一杯のお茶を「頂戴します」と言って飲べば、
この世からそのお茶は消えてなくなるように、
現在ある建物でも何百年か何千年も経てば消えてなくなってしまいます。
同様に私たちの肉体も現にここにあるように思っていても、
定められた時間が過ぎた時には、この肉体は消滅してしまいます。

死が訪れるとたちまちにして肉体は腐ってゆき、
一瞬たりともとどまることなく腐乱しいきます。
野に放っておけば、やがて腐り果てるか、
動物や鳥に食べられて、やがて消えてしまいます。
今在るように見えるのは、ただ一時的に現れているにすぎません。
この世に形あるものとして生じた限りは、
必ず消えてゆかなければならない宿命のもとにあります。
頂いたお饅頭が、トイレに行くとそのままの形で出て来るなどということはありません。
この世のいっさいはまったく実体がないことがわかります。
形となって現れた世界、般若心経で説かれている「色即是空 空即是色」の「色」の
世界に当たる目に見える現象世界(以後、現象界と呼ぶことにします)を「この世」と
呼んでいます。
一方で、「空」と表わされている世界、「あの世」という世界が、実はちゃんとあるのです。
そして、こちらこそが実体のある世界(以後、実在界と呼ぶことににします)です。


「作善止悪」

2019-08-29 00:24:39 | 日記

添付のお写真は横綱の曙が体調不良で優勝から離れていた時、
恩師「長尾弘」先生に治療を受けるために浄心庵を訪問し、
治療を受けているところです。
この場所で曙は優勝しました。
同じハワイ出身の大関小錦(向かって左)も治療を受けていました。
二人ともさすがに巨漢ですね。

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第二章 必要なのは正しい生命観の確立

              ◆死ぬとは何か◆

死を心安らかに迎えた方は、死後身体が硬直することはありません。
体も温かく、お顔も化粧をしたように美しくなっていらっしゃいます。
信じられないかもしれませんが、
これは実際に見聞した数多くの事例から言えることであり、
立ち合ったお医者さんも驚かれる事実にほかなりません。
日々の生活の中で常に、
「有難いなあ、私は幸せだなあ、何と幸せ者なんだろう」という
思いに満たされて生活をし、
人生を過ごしますと、死んだ時に硬くなりません。

いくら表面上はよい格好をして、着飾ったり、
人様に対しも偉そうに振る舞ったりしていても、
誤った思いや行いによって心の中に苦しみをためてしまっていますと、
あの世に帰る時に必ずその決算が出て来ます。
心の中に苦しみをためている方の場合は、
あの世に帰る日が近づくにしたがって肉体的にも
精神的にも非常な苦痛が現れてきます。
そして、いよいよ息が切れてまいりますと、肉体は硬直を始めます。
見ている間に冷たくなります。
悲しい雰囲気とともに硬くなり、石さながらの硬さにまでなってしまうものです。
顔も、見るのも恐ろしい嫌な顔となります。

成仏なさった方のお顔が惚れ惚れと見とれるような
美しいお顔になるのとは対照的です。
本当は、自覚するとしないとに拘わらず、
世界中の人々が心の底から共通に望んでいらっしゃるのは、
いかに楽に死ねるかということではないでしょうか。
いかにこの世で幸せで健やかに生きることができるかということこそ
人類共通の関心事であるのとまったく同様に、ごく自然なことであると思います。
いかに幸せに健やかに生きるか、そしていかに楽に死ぬか、
この二つは両方揃って互いに相補い合い、完璧に調和した一生となります。

歴史的な人物によくありますが、
いくらこの世的に栄耀栄華を極めても、死に様が哀れなら、
その一生を羨む気持ちにはなれません。
昨今では生命維持装置等による延命措置が可能となり、
脳死や臓器移植の問題も出て来ました。
とすれば、今度は本人や周りの人々の選択の幅は広がります。
それにともない、生命倫理とか生命科学などの領域も研究されてきています。
これまでは現代医学は肉体をただ物質として学んできました。
医療現場では、手術の成功を喜び乾杯する一方で、患者本人は死んでしまっていたと
いうケースまであると聞きます。
しかし、いかに生命を維持させるかという技術上の問題もさることながら、
患者本人がいかに心安らかに死を迎えるかということこそ、最重要課題のはずです。


「作善止悪」

2019-08-28 00:18:49 | 日記

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


          第二章 必要なのは正しい生命観の確立

            ◆絶対を忘れているむなしさ◆

先の続き・・・

十歳の時に、とてもよい方であった叔父が亡くなって、
その死に顔があまりにも醜い恐ろしい顔になっていたので、
たいへんショックを受けました。
死は苦しく、遺体は汚れたもの。
これが今までの人類の歴史を通じて当たり前とされてきたことです。
けれども、この常識を完全に超越しない限りは、
新しい生き方と理想的な社会は見えてきません。
死への恐怖とエゴイズムはつながっています。
これを解決しないと、個人にも人類にも本当の救いと幸せはありません。
母が九十四歳で亡くなった時、その死に顔は想像もつかない美しさと言いましょうか、
まるで二十代の女性のようでした。
シワやシミは全部なくなり、若い頃と同じ肌に戻っておりました。
それどころか、まるで赤ちゃんのような肌になっておりました。
人がどういう死に方をするかは、生きている間の日々の心の状態によるものであって、
人それぞれに違います。

そもそも、私たちは日頃から死ぬということをあまり深く考えていません。
死を自覚して日々の生活を送っているとは言えません。
いつかは必ず直面しなくてはいけない死であるのに、
まるで他人事みたいに思って生きていることが多いのです。
そして、ある日突然のように、それまでは他人事と思っていた死が自分の身に訪れた時、
それを安らかな心で迎え入れ、自らの生涯と出会った人々や周囲の人々に感謝して、
あの世に逝けるという人は稀であると思います。
「会者定離ありとは常に聞きおれど昨日今日とは思わざりけり」という古言があります。
人生の無常は生きている者同士の突然の別れから、死に別れまで、いついかなる時でも
予告なしに襲ってくるものです。
目先のことばかりにとらわれ、日々の生活に齷齪としているうちにいたずらに歳月を費やし、
気付いてみたらもうすっかり年を取っていたという人がほとんどではないでしょうか。
必ず死ぬとわかっていても、なかなか死を迎えるだけの心の準備ができないのです。

なぜでしょうか。
それはもちろん十分に生命を燃焼し尽くさなかったということもあります。
もう十分にやりたいことをやり、使命も果たした。
満足と感謝に満たされ、いつあの世に召されても不足はないと言いきることができたなら、
抵抗なく死を迎えられそうです。
けれども、もっと大切なことがあります。
死んだらどうなるかかがわからないということが、人間が死に対してあまりにも不必要な
恐怖や苦しみを持ってしまう原因になっているということです。
人間とは単なる肉体的存在ではなくて、肉体がなくなっても心は続き、あの世に霊として
生き続けるのだとわかれば、死への態度も一変してしまうことでしょう。
それがわかると生き方も変わる筈です。
「父母にかりに呼ばれて客に来て、またたちかえるもとのふるさと」このうたは、
この世は仮の宿ということを教えています。
どんな世界から生まれ、何のためにここに来ているのか、魂の目的というものがわからない限り、
死に対しても無知であり続けるでしょう。
無知であればあるほど、それは突然襲って来る恐ろしいものであるかのように受け取られます。
その結果、生きている間は心の安らぎがなく、どこかで疑問や不安を持ち続け、これを
解消しきれずにいることになります。
これが残念ながら、現在までのこの地球社会の実態にほかなりません。



「作善止悪」

2019-08-26 11:33:37 | 日記

日本では信じられないようなインターネットプロバイダーの技術の低さに加えて、
そこで働くスタッフの驚くべき無責任さの為にこの二日間ほどまったくインターネットの
使用が出来ませんでした。

比国が開発途上国と云われる所以がこの辺りにあるのではないかと思います。
今、やっとパソコンの使用ができるようになりました。
今後、このようなことが再発しないことを願いながら、ブログの投稿を再開させて戴きます。
ブログの投稿が二日間ほどまったく出来ませんでしたことを、皆様に深くお詫び申し上げます。


恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第一章 或る愚か者の生涯

           ◆絶対を忘れているむなしさ◆
      
あるとき、
講演会の折に青年が次のような質問をしてこられました。
「先生はお話の中で絶対という言葉を何回が使われました。
この世の中で絶対といえる絶対はあるんですか」
「あなたは哲学を学びましたね」
「はい、哲学科を出ました」
「それでは私からあなたに質問させてください」
「あなたは太陽が西から昇るの見たことがありますか」
「いいえ」
「絶対に太陽は東の方角から出て来ます。
そうでなかったらこの地球はつぶれてしまいます」
青年は、へえなるほどそうですねとおしゃっています。
「では、もう一つ質問させていただきます。
あなたはいつまでも生きることができますか」
「いや、それは無理です」
「絶対にあなたは死にます」

そうしますと、ああもうようわかりました、とおっしゃいます。
そこで、もう一つ聞かせてくださいと言いますと、
いやあもうやめてください、
とおっしゃいます。
「あなたは今お若いです。
しかし、その若さをいつまでも保てますか」
「いや、もうようよくわかりました。もういわないでください」
「絶対に年をとります。
その絶対の中に私達は生きさせてもろうてるんです。
これが自然の定めです。法則です」
そうしますと、
「先生、ぼくはなんで哲学を勉強したんですか」と言われます。
「そんなことは私は知りません」と答えました。
「あなたは理屈屋さんだからでしょう」大笑いになりました。
真理というのは、その中に私達が生かされています。

最も考えるべき事柄を考えるのが哲学だとしたら、
この青年が哲学を勉強した理由が
自分自身でわからなくなったというのも当然でしょう。
死ぬことは生きることと同じくらい大事なことです。
生きていればいずれは死ぬのは当たり前です。

これは絶対に避けられないことです。
医療技術がいかに発達しようが、この絶対ということはなくなりません。
絶対に死ぬものであるならば、いかにして楽に死ぬかということは、
私たち一人一人にとっては大きな問題のはずです。
人様に迷惑もかけず、楽に死ねたらいいとは誰もが口にする言葉です。
しかし、自分の平素の心掛けと努力次第で、
望みどおりに楽に死ねるということを理解していらっしゃる方は甚だ少ないと思います。
死は恐ろしくて醜いもので、
望み通りの死に方はできないものと信じられ、そらが常識のようになっております。
死を忌み嫌っていたあの哲学科出身の青年も例外ではありません。



「作善止悪」

2019-08-24 00:15:56 | 日記

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第一章 或る愚か者の生涯

       ◆高橋信次先生との邂逅と天職を見出すまで◆

先の続き・・・

昭和四十五年に癒しが始まった後、四十九年に高橋先生にお会いし、
太陽のような与えっ放しの「無償の愛」を学びました。
又、「今世、天下った光の天使は宗教でめしを喰っているような者は一人もありません。
神はそれだけのものは与え給います」という教えを守っています。
昭和五十三年四月から鍼灸専門学校に二年間通い、昭和五十五年に国家試験に合格して
資格を取得し、職業的な治療家の道に進むことになっていきます。
昭和五十七年には織物業を止めることになりました。
癒しを始めた当初は一日に五人から十人くらいの方が治療にいらっしゃいました。
癌であと三カ月の命と宣告された方が御縁があって来ているうちに、
完全に病巣が消えてしまって、もう帰ってよろしいと医者に言われた方とか、
女性の方の子宮筋腫がすぐに消えたりするなどのケースは枚挙にいとまがありません。

こういう不思議な力がいったいどこから来るものかもわからず、
いろいろな宗教の門を叩きました。
求道者のようにあちこちに足を運び、質問したりしましたが、納得することも、
これはといった師にめぐり逢うこともありませんでした。
そして、とうとう高橋信次先生との邂逅とも言うべき運命的な出会いの
御縁をいただいたのでした。
そこから学んだ無償の愛というものを実践させていただきました。
初期の頃には大阪近辺でお話させていただいていたのですが、
昭和六十二年からは遠い招請を受けまして、
枯野に火が燃え広がるような具合で全国各地へと活動範囲は広がりました。
海外での奉仕活動もやはりこの頃から始まりました。
そもそもの動機は、故高橋信次先生の
「正法は必ず全世界の人々に伝わるべきものである」
と言われたその遺志を受け継いで、法の灯を絶やすことなく海外にも
お伝えしたいという願いからです。
しかし、それも仕事を持っていたからこそ、人様に対して無償の奉仕が
できたのだと思っています。
最初は無償で感謝箱だけ置いてありました。

汗水流して一生懸命に癒させてもらっていますと、
「ハイ、お賽銭です」と十円入れていかれる方もあれば、
ティシュにティシュをくるんだものを
御礼の代わりに入れられる方もおられたりと、実に様々な方がお見えになります。
たいへん心の勉強になりました。
ときには、お金に困った方はそこから持っていってください、
と感謝箱からお金を持って
いってもらうこともありました。
その後、数年前からは治療券を受け取っていただくことにしました。
隣の部屋で若いマッサージの先生たちに治療してもらってから、私が祈ります。
すると、十年以上ものあいだ無料で治してもらうのを
当然のように考えて見えていた方が、
ある日突然にみなさんが治療券を受け取っているのに気付かれて、
「えっ、ここはタダじゃなかったんですか」と驚いて聞かれたのです。
これには私の方がびっくりさせられました。
十年間も無料で治療を受けられていたそうです。

感謝箱を設置したのも、癒しは商売として始めたわけではありませんから
神様への感謝を忘れないでいただきたい、という願いからでした。
もちろん、人間には各人に自由意志が与えられていますから、
何事もご本人が判断して行動されるべきものです。
ただ、人間誰しもがそれぞれ内なる良心を持っていますから、
やがて神我に目覚められるであろうということを信頼し、
また一人でも多くの方に神我に目覚めていただきたいと
祈る毎日です。


「作善止悪」

2019-08-23 00:12:18 | 日記

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


             第一章 或る愚か者の生涯

        ◆高橋信次先生との邂逅と天職を見出すまで◆

昭和四十五年に不思議な出来事が起こりました。
近所におばあちゃんがいまして、
レントゲンをとると膝の骨がグチャグチャになってしまっていたのですが、
私が手を当てると完全に治ってしまったのです。
レントゲンを撮るともとどおりになっているのがわかりました。
それがきっかけとなって、治してもらったという情報が口コミで広がり、
治療をしてもらいたいという人々が集まってくるようになりました。
そして、不思議な運命の糸に操られるかのように、人生が変わっていきました。
しかし、これも高橋信次先生という方を知ることなしには
考えられないことだったのではないかと思います。
人生を変えることになったのは、一つは「足ることを知りなさい」と
いう教えです。
それからもう一つは「無償の愛」ということです。

昭和四十九年十一月に高橋信次先生の講演をはじめて聴きました。
しかし、直接お会いして先生から指導を受けることはついにありませんでした。
ただ、演壇に立ってお話されるのを群衆の一人として拝聴したのみでした。
高橋先生の伝えられる正法にふれて、
まず「足ることを知る」ということの大切さを改めて知りました。
講演の中で聴いたこの言葉は、自分に向かって言われているような気がしました。
ちょうど商売を少しでも大きくしようとか、
もっと儲けようとかして、この世の現実と
四つに取り組んでいる頃でした。
事業を拡大しようとすれば、借り入れが増えます。
すると銀行はいい顔をしない。
手形を割ってもらおうと思って銀行に行くと、考えておきますと言われ、
こちらはどうしても期限内に手形を落とせないと困るから頭を下げて頼みこみます。
もう朝から晩まで寝ていても頭の中ではお金の算段ばかりで、
心の休まる暇はありませんでした。
商売というのは下手だから倒れるのであって、
倒れないためにはあらゆる頭を使わなくてはなりません。
お金を動かすのはたいへんだとつくづく思います。
その当時は自分の工場で稼働している織機は三台でして、
ほかに三十台分は外注に出して、
毛布の製造を下請けしてもらっていました。

ふつうなら毛布を造り、製品として袋に詰めて問屋に入れなくてはなりません。
しかし、運よく毛布丹前を主として生産していました。
外注に出した製品は起毛屋が集めてくれ、
それをミシン屋が仕立ててから問屋に入れるので、私の手はかかりません。
いくら多く生産しても私は何もしなくていいのです。
私がすることと言えば、支払い、糸の手配、糸の仕入れ、
そして問屋から集金するということのみです。
ところで、足ることを知りなさいという言葉に出会ってから、
外注の三十台分の製造を止めました。
すると、お金が余ってきてしようがなくなりました。
取引の規模を今までの十分の一にまで縮小したのですから、
十倍の在庫と原材料があり、仕入れの必要もなくなりました。
その結果、銀行に借りなくてすむようになり、資金もたっぷりになり、
銀行からは上得意と見られるようになっていました。
足ることを知ればこんなに楽だったかということがわかりました。
それから、昭和五十一年一月に高橋信次先生がお亡くなりになるまでの
一年八カ月というものは、月に一度ですが、
欠かさず講演を拝聴しにまいりました。


「作善止悪」

2019-08-22 00:19:27 | 日記

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第一章 或る愚か者の生涯

         ◆織物業における成功と商売の極意◆

二十五歳の時に土地を買い、二十六歳の時には独立して織物業を創業しました。
昭和三十二年のことです。
はじめは賃織りといって、下請けの仕事でした。
その後、原料を仕入れて商売するようになります。
もちろん借金で始めました。
織物業をやめる昭和五十七年までの二十五年間にずいぶん儲けさせてもらいました。
商売は儲けることが大事で、失敗したらその事業は的を射ていなかったということです。
人生は的を射ることが大切です。
しかし、今から考えると、
この儲けは明らかに今日のご奉仕活動のために蓄えておかなくてはならない分として、
天より与えられたものだったようです。

というのも、考えられないような幸運なことが次々と続いたからです。
神様のお助けがあって、私の商売もいろいろな難事にもかかわらず、
成功に導かれたのでしょう。
日本がまださかんに新幹線や高速道路の工事をやっていた頃に、
建設現場の作業員の寝具を貸し出す地方のリース会社と御縁がありました。
布団、毛布、枕の一式を一日いくらで貸す会社ですが、
そこの営業部長が私の友達を通じて来てくれまして、商売の話を持ちかけてくれました。
当時は手形が常識でしたが、そこは現金で取引きしてくれるというのです。
夢のような話でした。

手形は短くて三カ月、お産手形といって長いものなら十月十日です。
私のところでは毛布の製造をしていたので、それを売るわけです。
手形商売とは百万円なら百万円の品物を売ると引き換えに手形をもらいます。
そこに期日が書いてあって、期日が来たら現金が入ってきます。
でも、資金繰りのことがありますから、
金利を支払って手形を割ってもらうことになります。
つまり、銀行からお金を借りて先に代金を受け取るということになります。
四分の金利でしたから、百万円から四万円が差し引かれ、
こちらに入るのは九十六万円になります。
ところが、現金取引をしてもらえば、それだけの金利を取られないですむわけです。
「こちらでは手形取引が常識になっていますから、私は買い上げていただいた全金額の
二分を部長さんに感謝の気持ちとして送らせていただきます」

そう言って、私は仕入れ部長さんに売り上げの二パーセントを還元させてもらう約束をしました。
売り上げが一億ならば二百万円ということになります。
これが政界の方なら賄賂の問題につながっていまいたいへんですが、
あくまでも商取引のうえでのことで、私の感謝の気持ちを表現したまでのことです。
さて、仕入れ部長さんと約束した後で見本の毛布二、三枚をさげて地方に赴きました。
いろいろな世間話をした後にそろそろ商売の話に入りましょうということになり、
私は地元で売っている原価で十分です。
ただし、送料と梱包代だけはおたくのほうでもってもらったら結構です。
と話しますと、わかりましたということで、話は一分か二分ですんでしまいました。
それで、以後二十年もその会社との取引は続きました。
なんの不都合もトラブルもありませんでした。
その件で地方に行ったのは、それ一回限りでした。
昭和四十八年にオイルショックで日本全国の物価が暴騰しました。
それで値段を倍に上げてもらいました。
それ以来、糸の原価は下がりましたが、その価格で買っていただいたため、
えらく儲けさせていただきました。



「作善止悪」

2019-08-21 00:37:02 | 日記

 恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第一章 或る愚か者の生涯

       ◆初めて世間の風に当たり、お金を稼ぐ◆

先の続き・・・

何年かして母親のほうから、それまで家に送っていた私の給料で
姉達の嫁入り道具をそろえたりして役に立てさせてもらったので、
これからは自分自身のために貯金してほしいと言ってきてくれました。
家のために使わせてもらってきて申し訳ないからとのことでした。
それでは貯金させてもらいますと言って、自分で貯金をしました。
当時、給料は六千円ほどでした。
すぐに十万円ほどできました。
自分の小使いなどほとんど使いませんでした。
でも、毎月給料をもらうと決まって、私は飲みませんが、
仲間に一杯やろうとタカラみりんとスルメを買ってきてみんなに飲んでもらいました。
その頃、私の二つ下の弟が近大に一年通い、それからいい先生がいるというので立命館に
移ろうとしましたが、そのためには入学金として当時五万円必要でした。
そのことを弟は長兄に言うとそんな大金はないと言われ、
どうしても行きたいと私のところに相談に来ました。

私も大学に行きたかったのですが、
兄が戦争から帰って来なければ自分が後を継がなくてはならないので、
上の学校に進むのを諦めて家の手伝いで農業をしていましたが、
戦後まもなく兄が帰って来たので、一粒の葡萄で家を出ることになったのでした。
弟には「よし、そんなら、今、十万貯金できてるから、これを持っていき。兄ちゃんの
代わりにしっかり勉強してや」と言って貯金の全部をあげました。
それから、また一からすべてやり直ししました。
ちょっと寂しい気もしましたし、すっとしたようなヘンな感じもしました。
後年、私の長女が結婚する時にこの弟が百万円もお祝をしてくれました。
「ぎょうさん祝いしてやってくれやなあ」と言って、ありがとうと受け取りましたが、
それを郵便局の(当時の金利で七分以上ありましたので)定期預金に入れて、十年は
出さないでほしいと言って、これをそのままその弟への祝いに返しました。
それが十年すると倍に増えて二百十万円になっていました。

船に乗る時にお世話してくれた人の家が事情があってとても貧乏になって年も越せぬほど
つらい生活をされていると聞いた時、まだ十代でしたが、当時のお金で二万円(当時の
月給が六千円ですから四カ月分ほどですが)を正月のお餅でも買ってくださいと送りました。
非常に喜んでくださいました。
その喜びはその方にとって亡くなるまで忘れられなかったようです。
もらうのはあまり好きではなく、
出してしまうのが好きというのは幼い頃から見てきた布施の習慣からも来ていたのでしょう。
布施の行いが自然に身につき、子供の頃からの積み重ねがあって、今日の私があります。
日銭を稼ぐという言葉がありますが、それも自分の生活のためというよりも、
気がついてみれば一生懸命働いて得たお金は結局は誰かのために役立ててもらったり、
また善い事に使ってもらったりして、そのこと自体に私は喜びを味わってきました。
人生を振り返ると、実に多くのお金の出入りがありました。
人に信用を裏切られたことはたくさんありまあした。
信用して貸したお金が反ってこなかったこと、人にお金を融通させてもらいながら、
なんの挨拶もなかったことなど挙げたらきりがありません。


「作善止悪」

2019-08-20 00:10:57 | 日記

 恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第一章 或る愚か者の生涯

        ◆初めて世間の風に当たり、お金を稼ぐ◆

十六歳と一か月の時から二十歳までの間は船に乗って、ただがむしゃらに働きました。
給料の封は切らずに故郷に送っていました。
その間、旅客船でしたからチップなどを結構いただいていたので、
お小遣いにも困りませんでした。
船を降りる時、当時の金で三万円ぐらいあった貯金も父母に全部差し上げました。
初めて故郷を後にして一般社会に出てみると、
それまでには考えられなかったような厳しい環境のもとで、
いろいろの体験が待っておりました。
親元にいたらなあと思うことがよくありました。
まず、メスルームボーイという船の下士官の身の回りの世話をする
見習いの仕事から入りました。

「メス!メス!」と呼ばれて人に使われました。
長崎の三菱造船所に、戦後まもなくの昭和二十三年にできた新造船で瑠璃丸と名付けられた
関西汽船の客船がありました。
その船を受け取りに行くのに、乗組員として乗船したのが最初でした。
船の中の狭い社会で上下の人間関係でずいぶん苦労をしている仲間の姿を見るにつけて、
たいへん同情させられたり、
また人の心というもののマイナス面を多く見せられる場面にも遭遇しました。
私はその頃より人生について人間について疑問を持ち始めました。
下船してから染物工場に住み込みで就職しました。
泉大津というところにあり、長姉の嫁ぎ先でした。
そして、姉の嫁ぎ先の染物工場に勤めるかたわら自然と覚えたラジオの組み立てのアルバイトでは、
給料以上のお金を得ました。
昭和二十七年の頃です。

姉婿の弟がラジオをさわるのが好きでした。
近所の古いラジオを修繕するといって持ってきて、つぶしてしまったのです。
どうにかならへんかというので、大阪の日本橋の電機の問屋に行って、ラジオのキットを
買ってくることにしました。
組み立て図や説明書も付いていました。
当時は千円程でした。
幼い頃、鉱石ラジオを作ったことがありましたので、簡単に組み立てられました。
そのキットを利用して壊れたラジオをもとに戻すと、すばらしい音が出るようになったので、
その噂を聞き付けて近所から次々とラジオを組み立ててくれという依頼が来るようになったのです。
箱に入れて千五百円ぐらいで組むことができて、それが三千円で売れ、
口コミで注文が殺到しました。
儲かってしようがなかったのです。
一か月の給料よりもこのアルバイト収入の方が余計に入りました。
蓄音器を組めば一万円以上にはなり、さらに高い収入に結び付きました。
何年間かはそんなことをしていましたが、そのうちナショナルや日立などのメーカーから
完成品のラジオが店にでてきたので、きれいさっぱりやめました。
もう少し頭がよかったらテレビの世界に入って電気関係で儲けていたかもしれません。


「作善止悪」

2019-08-19 00:08:56 | 日記

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


              第一章 或る愚か者の生涯

              ◆念力から祈りへの転換◆

先の続き・・・

十歳の時には太平洋戦争が始まりますが、
兄が出征兵として戦地に赴いてからというもの、
兄の無事の帰還を祈願するため、
両親の代参として一キロほど離れた山のお宮さんに日参するようになりました。
雨が降っても雪が降っても、
山の中腹にあるお社にお参りすることを欠かした日は一日もありませんでした。
そうして、六年の歳月が流れ、ついに兄は無事に中支から帰還いたしました。
やっとそれが成就した喜びで足が地につかず、天にも昇ったような気持ちでした。
ありがたさに身を置く所もないほど嬉しかったものです。
六年間毎日一生懸命に兄の無事を祈りながら、自分と兄とは一体だと感じていました。

ところが、無事帰還した兄は自分が運がよかったんだと、
六年間の祈りなどすべて知らなかったために、なんとも言えぬ淋しさを味わったものです。
結局、幼い六年の経験を通じて私が学んだことは、「祈りは人のため」という一事でした。
つまり、相手が喜んでも喜ばなくても、ただその人のために祈るということです。
愛の祈りであれば、神様に聞いていただけます。
我が事に関して祈れば、そこに必ず自我の欲望が入ってくるスキが生じます。
そして、いつしか祈りというよりも念力でもって願望を成就させようということになりかねません。
しかし、大切なのは神様の御心を自分の生活に現わしていくということでなくてはなりません。

これは現在でも私の神癒の根底に生きていると思います。
でなければ、奇蹟的な治癒が起きるわけがありません。
神は真の祈りに感応して力をお与えになるからです。
念力で願望を成就しても、決して幸せにはなれません。
愛のまごころとは、すべてを神様に託していくという、
神の子としての素直さということにもつながります。
祈りが純粋なほど、自我がなく無私であるほど、
天の神様は聞き届けてくださいます。
みんなが念力を使って自分の思いどおりになどしようとしたら、
この社会は念力合戦みたいなことになり、不調和になってしまいます。
やはり、自分を忘れて他を活かすという精神こそが美しく、尊いまことの祈り、
真祈りに通じるものだと言えましょう。
己を忘れて他を利する。
これが神の御心だと思います。


「作善止悪」

2019-08-18 01:37:58 | 日記

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


             第一章 或る愚か者の生涯

            ◆念力から祈りへの転換◆

ある夏の日に村の中の道を、
金魚売りのおじさんがタライを下げた天秤棒をかついて歩いていました。
「金魚ぉ――え、金魚っ」と、調子よく声をあげながら、ゆっくり歩いています。
それを後ろから眺めていた私の悪戯(いたずら)心がムクムクと夏雲のように湧いて
きました。
私は面白半分に自分の思いであのおじさんを動かせないものかと実験を試みる気になりました。
「よし、ひとつぼくの力であのおじさんの進む方向を変えてやろう」と、私は念をこらしました。
最初は真直ぐに歩いていた金魚売りのおじさんも、私がその後ろから歩きながら「右右右」
と思うと、だんだん右斜めに歩むようになり、「次は左左左」と思うと、左へ歩き、
右に行ったり左に行ったりし始めました。

これは面白いぞ、と私はさらに念の集中を続けながら、歩行の乱れを見守りました。
すると、だんだんと左右の往復は穏やかなカーブからきつい曲線を描き、
ついには振り子のように直線的に道幅と同じく左右に行ったり来たりするようになっています。
それなのに本人はまったく気付いていません。
私はその光景を見てなんとなく満足し、愉快でもありました。
考えてみれば恐ろしいことです。
明らかに私の心は間違った方向に行こうとする一歩手前でした。
人の心、人の念は恐ろしい力を持っているということを幼い頃から自然と教えられていたようです。

念力を使うと自分の心のエネルギーは減ってしまいます。
人の心の自由を奪い、肉体にまで影響します。
しかし、重要なのは人の心を動かすことは誰にも許されないということです。
それができるのは神様のみです。
基本的には人間の自由意思は神でさえも尊重しておられます。
以後、こういうことはしてはならないと、
自分の力を誤まった心で用いないことを自分自身に堅く誓いました。
それから、あることがきっかけとなり、
真剣な祈りというものを捧げることになっていきました。


「作善止悪」

2019-08-17 00:59:10 | 日記

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


                第一章 或る愚か者の生涯

               ◆催眠術をかけて遊ぶ◆

先の続き・・・

両親は信仰心の厚い人だったからでしょうか、
その頃から畑に連れていかれると、私は田圃の土で仏様をこしらえて拝んでいました。
まだ幼くて遊び仲間との交わりもなく、親との関係だけだった三歳の頃のことです。
それから、それよりもすこし後になった四歳の頃でしょうか、畑に行くと子供の仕事と
して雑草取りなどを言われるままにやっていましたが、なかにはできない所もあります。
そうした時には、畑で遊びます。
たとえば、自分の気に入った枝を決め、飛んでいる蝶々とか蜻蛉などに「ここに止まれ!」
と心の中で命ずると、指定した木の枝に止まってくれるのです。
また、「東へ飛んで行け!」「西のほうへ行け!」と言うと、やはり言うことを聞いて、
そのとおりにしてくれます。

小鳥、蜻蛉、蝶々となんでも私の思いどおりに動いてくれました。
ちょうど、心曇っていない幼少期のことです。
先までフワフワしたものがついている穂のような草を、その先の部分と茎だけを残して、
あとはしごいてしまい、それでカエルを釣っていたことも思い出します。
ギジ餌のようなものですが、
草の先にとびついて引き上げられたカエルを手足を伸ばしたままのかっこうで仰向けに寝かせますと、
おとなしく寝てしまいます。
次々に釣ってきたカエルを何十匹も並べると、
今まで先に寝かせられていたカエルが起き上ってきますので、またもとのように寝かせます。
こうしていると面白くて時のたつのを忘れて遊びに耽ったものです。
蟻なども「止まれ、止まれ」と念じていると、止まってしまって、やがてコロンところげてしまいます。
川のほとりに行き、岩の上から呼んだら魚が寄ってくるということもありました。
小学校に入るまでの私は本当に清らかな仏のような心を持っていたと思います。

しかし、或る時、友達と遊んでいて竹藪の急斜面を登りますと、
眼前に見たこともない広大な畑が広がっています。
すると、私は「うちの畑けやでえ」とみんなに嘘をついていました。
もう所有欲とよいかっこうをしたいという思い芽生え始めていたのだと思います。
十歳を過ぎてからは、友達に催眠術をかけて遊ぶようになっていきます。
竹藪の日陰に友達を連れていって、十人くらい一度に飛行機に乗った気分にさせたりしたものです。
六十歳近くになってから、父の法事の席で幼なじみと会った折に、あの時に飛行機に
乗せてもらって楽しかったことは今でも忘れられないみんな言っている、
と話していました。
この小学校高学年から、心の持つ力をはっきりと自覚するようになります。
蟻に「右に行け!左に行け!」というと、その通りに動いたり、いろいろなものを
思いで動かすことができました。



「作善止悪」

2019-08-16 00:21:17 | 日記

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第一章 或る愚か者の生涯

           ◆催眠術をかけて遊ぶ◆

私は昭和六年に大阪と奈良の県境に位置する
南河内郡(現在は柏原市)国分町に生まれました。
大和川の上流で河内嵐山と呼ぶくらい風光明媚なところであり、
頼山陽ゆかりの歴史ある土地柄でもあります。
農家に生まれ、男の兄弟が四人、女の姉妹が四人おりました。
十一歳上の長姉、十歳上の長兄、それから二人の姉をはさみ、
私は五番目、その下には弟二人、いちばん末が妹でした。
昔は、子供がよちよち歩きができるようになるまで成長すると、
どこへ行くかわからず危ないので、
倒れないように底の四方に足がついている木製の箱に
子供は入れられていました。
箱の外には小さなおやつ入れのやはり箱状の
入れ物が付けられています。
この子守り箱の中に私も誕生一年前後には入れられて
遊ばされていました。

母が用事をしている間は、
ときどきここに置き去りにされて泣いてしまうこともありました。
兄弟はみんなこの箱の中で大きくなったのでした。
これが最初の記憶です。
その次の記憶の糸をたぐると、こんな光景が脳裏浮かびます。
二つ年下の弟が母の背中におんぶされ、
私は母の温かな大きな手に引かれています。
父が畑仕事から帰る夕刻になると、
私の家から五~六00メートルほど離れた山の
お宮さんの下の竹藪がおおいかぶさって
昼なお暗い道を歩いて父を迎えに行くのです。
もうあたりは薄闇が降りている時分です。
その怖い道を、「お父ちゃん、帰っといで。
山のケンケンなっこるで」と何度も繰り返し
歌を口ずさみながら、母は私たちを連れて父を迎えに行くのです。
ケンケンとは狐のことです。
「お父さん早く帰ってきてください。
もう山の狐が鳴きますよ」という意味です。
よちよち歩きの頃です。


「作善止悪」

2019-08-15 03:47:56 | 日記

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第一章 或る愚か者の生涯

         ◆葡萄一粒で故郷を捨てた少年時代◆

先の続き・・・

それ以来、良心の呵責に耐えられなくて、
とうとう生まれた故郷をあとにすることに決めました。
もちろん、親は反対しました。
田を私にも譲り、家を建て、いなかで分家してほしかったと思います。
それから、関西汽船に入社し、別府航路の船に乗ることになりました。
そして、はじめて他人のつくった飯を食い、親から離れて世間というものを知って、
親の有難さを知りました。

葡萄を一粒かすめようとして見咎められたくらいで、故郷を去るなどとは、
ずいぶん潔癖という変わった子だったと思われる方も多いかと思うのですが、
たしかに私という人間は幼少の頃よりふつうの子とは変わったところがありました。
たとえば、両親が野良仕事に行くと、私も田畑についていって、
そこでおとなしく遊んでいます。
泥をこねて仏様をつくったりしていました。

仏様に象るなどというのは、あまり子どもらしくないかもしれませんが、
なぜか私はそんな遊びをしました。
そして、できあがった泥仏に向かい手を合わせていました。
また、昆虫や魚も自分の想念で自由に動いてくれました。
小学校の友達に催眠術をかけたりということが自然にできてしまうのでした。
これなどもどう見ても風変わりなふるまいです。
今から思えば、かなりヘンな子だったようです。