浄心庵・長尾弘先生「作善止悪」

「作善止悪」
三世の諸仏、過去の仏も未来の仏も現在の仏も
悉くこの法門を説き給う
良き事を行い悪しき事を止めよ

作善止悪

2019-10-30 23:34:53 | 日記

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

      ◆あらゆる不幸は五感に翻弄されることから生ずる◆

般若心経の中にある「眼耳鼻舌身意」は「げん・に・び・ぜつ・しん・い」と読み、
仏教では六根と呼ばれています。
このうち最初の五つが感覚器官です。
それぞれが視覚、聴覚、臭覚、味覚、触角という五感を知覚し、
これが外の環境からの刺激として神経を通じて行動に結びついていきます。
善い行いだけをしようと心に決めていても、
ついつい見たり聞いたりするうちに欲望が生じてまいりまして、
葛藤の末についにこれに負けてしまうといったことが起きるのも、
人間に与えられた肉体とそれに付随する五つの感覚器官のせいです。
それなら、いっそのことこんな面倒なものは取り除いてしまった方がいいのかというと、
それでは非常に困ります。

というのは、桜をめでるお顔を見ることもできなくなるでしょうし、
美しい音楽を楽しむこともできないでしょうし、
花やお香の芳しい匂いも嗅げないでしょう。
また、おいしいものを味わうこともできないでしょう。
気持ちのいい水の冷たさを感じることもできないでしょう。
これでは人間の存在そのものがなくなるからです。
第一に、五感が働かないと、危険から身を守ることができません。
腐ったものを舌で見分け、異臭や不完全燃焼の臭いなどを鼻で嗅ぎ分け、
変な物音に耳を澄ませられるからこそ、身の安全を確保できるのです。
最高度に精巧なセンサーが私たちには与えられています。
生きていくためにはどうしても必要なものが五感です。

これは今日までの驚くべき科学の進歩によってできた
精巧なロボットも及ぶことができません。
危険から身を守り、できるだけ無事に平安に行ける道を
選択するように最初からつくられ、
それにしたがって行動できるようになっているのが人間の五官の働きです。
しかし、私たちには意識の働きがあって、様々な思いを抱き、
その思いの中に生かされています。
その思い方しだいで五感に引きずり回されて苦しみをつくり出すのか、
それとも智慧を働かせて幸せな人生を送るかが決まってまいります。
般若心経は、わずか二百六十余文字です。

しかし、
この中にお釈迦様の説かれた真理のうち最も本質的なものが
結晶化されているといわれています。
お釈迦様のみ教えを後世に遺した天台経、毘盧舎那経、阿含経、
華厳経などのお経のいっさい、
七千余巻とされていますが、これらのうちから大事な要素を精選したものが、
この般若心経だといわれています。
ですから、いかに有難い功徳あるものなのかということが、
日本に入ってきて今日まで
伝えられているか心経奉讃文という文章でも紹介されています。
その原文をここに引用してみます。



作善止悪

2019-10-29 23:23:22 | 日記

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生が色紙を書かれているところです。
多くの方が恩師の色紙を要望されますので、いつも沢山の色紙を書かれますが、
いつも最後の色紙には「忘己利他」と四文字熟語を書かれます。
この四文字熟語は「もうこりた」と読み、その意味は己を忘れて他の利益のために
尽くすと言うことだそうです。沢山書かれますから、腕が疲れて「もう懲りた」との
意味の掛け合いもしています。
「忘己他利」は天台宗の教祖最澄さんのお言葉と聞いております。
己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり。


 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

     ◆指をとられて自殺した方と腕をもがれて感謝した方◆

先の続き・・・

しかし、この一つ一つしか思えない心の法則を逆にうまく利用すれば、
怒ることも不平を言うこともできなくなります。
それには感謝の心だけを常に思うといいのです。
熱光を恵んでくれている太陽に、酸素を供給してくれている空気に、
そして水、海、山、大地などの自然、それから動物、植物、
鉱物などの食物、自分自身の肉体と、
感謝の対象は数限りなくあります。
この感謝に心を満たしている時は、
私たちの苦しみの原因である想念感情、すなわち怒り、
恨み、憎しみ、愚痴、妬み、謗り、
取越し苦労などの思いが心に入ることはできません。
感謝は光ですから、その光の中で怒りでも愚痴でも消えてしまいます。

一日のうちでたとえ五分でも十分でも感謝の心を持つと、
その間に魔が入ってくることはできません。
感謝は心の魔から自分を守ってくれる鎧であり、自分自身の喜びでもあります。
「ありがとうございます」と、素直に感謝できること自体が心の宝です。
一日の中で感謝する時間が長くなればなるほど、
その人は幸せな時間が長いことになります。
あらゆることに対し、できるだけ感謝忘れずにいると、
最後には一日のすべてが感謝に満たされるということになります。
そして、いっさいの苦しみなく、安らぎの時だけがあるということになります。
これが幸せになる要領です。

苦しみに心を向けさせないために、無理やりにでもいいから、
感謝の対象を見つけて感謝することです。
そうするうちに、健康も家庭も仕事も商売もすべてよくなり、
喜びに満たされてきます。
もともと私たちの内に入っている神我は、
完全無欠の神そのものの性質を持っているのですから、
それがこの世の生活に反映されてくることになるのです。



作善止悪

2019-10-28 23:26:25 | 日記

添付のお写真は舞台上で多くの方が恩師「長尾弘」先生の癒しを
受けているところですが、ご覧のように恩師も癒されている方たちも
神の光に包まれています。
これで悪いところが癒されない筈がないですよね。


恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

    ◆指をとられて自殺した方と腕をもがれて感謝した方◆

先の続き・・・

「へえ。あの目が潰れて泣いておられた方ですか」と、
びっくりして言いました。
すると、「本当に私は救われました。
地獄の底から極楽に救いあげていただくというのは、
こういうことかと思いました」と言われました。
そして、もう一つ付け加えられました。
「私は自分が本当に幸せであるということを忘れていました」と、
目が治ったから幸せになったのかというと、目はそのままです。
心を潰れた目に向けていたのを、残った目のほうに向け換えてことで、
地獄から極楽へと境涯が変わったのです。

心の働きとはこのように実に不思議なものです。
不幸だ不幸だと思っていたのが、ちょっと見方を変えたら、
私はこんなに幸せだったんだなあということがわかりました。
心を切換えるだけで、不幸が幸せになるということです。
そのような方にはたくさん出会っております。
人の心は一念三千と言われ、あらゆる思いの世界に通じることができますが、
その時その時においては一つのことしか思えないというのが人間の心の法則です。
思いの矢印の向きは一つです。
私たちは、この法則に案外気付いていません。
「悲しみと喜び」「怒りと安らぎ」「恨みと赦し」など、
一瞬のうちにこれら二つを思うことはできません。


作善止悪

2019-10-27 23:46:07 | 日記

 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

    ◆指をとられて自殺した方と腕をもがれて感謝した方◆

先の続き・・・

彼女にお話をさせていただきました。
「つらいのはよくわかります。私は両目が見えますから、
私にはあなたの悲しみがわからないとあなたは思うでしょう。
ただ、悲しい悲しいと毎日泣いて暮しているのも一つの現実です。
しかし、悲しい、悲しいと泣いていてもそれは何の役にも立たないはずです。
その女性はワイヤロープの製造工場に勤めていたのですが、
ワイヤの一本の針金の先の尖ったところが突き刺さって失明してしまったそうです。

全身の面積から考えても、よりによって目の瞳孔にワイヤの先が突き刺さるという
惨事はよほどわずかの確立で起きたとしか考えられず、たいへん不運だったとも言えます。
また、次のようにお話させていただきました。
「あなたは失われた片目に心をとらわれています。
しかし、もう十センチも長いのが飛んできて両目をピシッとやられていれば、
今どころではないはずです。
両方見えなくなります。
そうなれば、どんなに不自由かわからない。
そこで、残ったほうの目に心を向け換えなさい。
これからつらい時があれば、
こうして片目を助けてくださいまして有難うございますという気持ちで
感謝に心を向けて下さい」

賢い方だったのでしょう。
よく理解してくださり、それから一週間ほど過ぎて、
にこにこ笑って本当に幸せそうな女性になって訪ねていらっしゃいました。
わたしはおつきあいは多いのですけれど、一度お会いした方のお顔はよく覚えています。
あの時の腰はいかがですかとか、あの時こうおっしゃいましたね、
などと必ずお話ができます。
それなのに、その時ばかりは、どうしても相手が誰だったのかが思い出せず、
「初めてですか」とお聞きすると、恥ずかしそうに笑いながら、
「いや、このあいだまで泣いていましたから」とおっしゃるのです。
喜びに満たされて、お顔までまったくの別人になってしまっていたのでした。


作善止悪

2019-10-26 23:52:59 | 日記

添付のお写真はご講演中の恩師「長尾弘」先生です。
この時、恩師のお顔、み手、着衣、垂れ幕の字句等が
ご覧のように黄金色に変わりました。
その時の様子を学びの友の方がカメラに収められたものです。


  恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

    ◆指をとられて自殺した方と腕をもがれて感謝した方◆

若い頃の知り合いの方に、工場で働いていて機械に指の先をはさまれて
右親指の第一関節から切断した方がおられました。
女性の方でしたが、勤め先の会社を恨み、機械を修繕した人を恨み、
生まれもつかない手になってしまったと運命を呪い、
もう結婚もできなくなってしまったと悲観しました。
そして、とうとう自殺してしまいました。
指先を失っただけで自殺をしてしまったのです。

同じ年頃の方に、
やはり機械に巻き込まれて右上腕部から切断していしまった方がいました。
指先どころか腕までも取られてしまったこの方は、
「ああ、よかった。そのままずっと機械に引き込まれていたら、
全身までも機械に引き込まれてしまっただろうに。
私は運がよかった。
お陰様で助けてもらった」と、一命をとりとめたことを喜びました。
義手をつけていますが、今も幸せに生きておられます。
指の先を失って命を捨てる方と、腕を失っても
「よかった。私は幸運だった」と言って、
幸せに生きている方と、この両者の違いは何かというと、思い方にあります。
思い方ひとつがどんなに大きく人間の幸不幸を左右するか、
良く分かると思います。
何が起きたかということには、関係なくです。
片目を事故で失った女性もそうでした。


四年間というもの、なぜ私だけがこんな不幸な目に
遭わなければならないのかと毎日泣き暮らしていたそうです。
そのお姉さんが見るに見かねてあまりかわいそうだからということで、
私のところに妹さんを連れておいでになりました。
毎日四年も泣いておりますと、笑っても泣き顔になるのです。
笑筋といって、笑う時に使う顔面の筋肉を使わないで、
泣筋ばかりを使っているために
こちらが発達してしまい、
笑った時でさえ泣き顔にしか見えないのです。



作善止悪

2019-10-25 23:47:46 | 日記

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


          第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

     ◆幸せの扉を開ける鍵「観自在菩薩」の意味と「思い変え」の法◆

先の続き・・・

私たちは天上界で魂の兄弟たちと、ある約束をしてこの世に生まれてきます。
それは、「魂の修行をして、自分を高めてきます」という約束です。
あの世から見れば、この世は、断崖絶壁にも似た危険きわまりない場所です。
蟻地獄に落ち込み、逃げようとしても、砂をかけられて落とされ、
最後には食べられてしまう蟻の姿と同じような人生もあります。
現象界は一歩足を踏み外せば、底の見えない谷底に落ちたり、
霧がたちこめれば一歩も
進めないような危なかしい世界です。
その危なさは、状況に応じて思いをコントロールすることの
難しさからも来ています。
魂を百パーセントとすると、オギャーと生まれた時に、
意識は百パーセント潜在してしまい、
徐々に浮上してわずか十パーセントの表面意識で生活をします。

九十パーセントまでが潜在意識として隠れます。
怒りたくないと思っても怒ってしまったり、
嫌ってはならないと思っても嫌ってしまったりと、
私たちは表面の意識でいくらこういう自分でありたいと願っても、
肉体の煩悩がそうさせてくれません。
しばしば自分で自分を裏切るような自己矛盾が出て来ます。
これが不幸の始まりです。
偽我の思いと、そうでない神我の自分とをはっきり峻別する努力が必要です。
それを可能にしてくれるのが、潜在意識の最も奥深くに蔵されている智慧です。
この中には観自在すなわち物事を見通す力が備わっています。
それを獲得することこそ、この世での魂の修行の目的でもあります。


作善止悪

2019-10-24 23:52:09 | 日記

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生が中国の黄山を登山された時に
カメラに撮られたものですが、ご覧のように恩師の左胸のあたりに
十字の光が見えます。

また、この黄山では雨雲のために景色が殆ど見えなくて、
恩師が手にしておられた登山用の木の杖を
天に高く上げられ”開け!”と叫ばれたら一瞬にして
その雨雲が払われて、山水画に出てくるような、
あるいはそれ以上のとても綺麗な自然(神)が作り出した
山水画の景色を見ることができたそうです。

この光景を見られた同行者の方の言われることには
あたかも天狗が大きな団扇で雨雲をバーッと払ったように
見えたそうです。

恩師が後日の講演会でそのようにお話しされておられました。


恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

  ◆幸せの扉を開ける鍵「観自在菩薩」の意味と「思い変え」の法◆

先の続き・・・

「観自在」とは、人を見ても自由自在に見通す能力を言います。
人から自分にとって都合のわるいことを言われても、されても、この人は今こんなことを
しているけれども、反面では素晴らしいものを持っている、とその人のいい面を見つけて
褒めるようにします。
角張ったことを言われたら人は怒りますが、その人自身も気付いていない素晴らしい面を
見つけて褒めた時、必ず、「あの人のためだったら私の命を捧げてもいい」というほど、
その人の心をつかむことができます。

その人の隠れた素晴らしい面を取り上げられず、つい嫌な面ばかりを見てしまい、
しかもそれがその人のすべてであると決めつけようとするのが、愚かな私たちの通弊です。
そして、これが大きな苦しみをつくる原因です。
しかし、凡夫の私たちにも例外なく、「般若心経」で説かれているような潜在意識の奥深く
内在する智慧に到達できる可能性があることを知りたいと思います。
般若波羅蜜多心経の音訳「マーハパニャーパラミタースートラ」の意味は、偉大なる
(マハー)智慧に(パニャー)到達する(パラミター)心の教え(スートラ)となります。


作善止悪

2019-10-23 23:14:06 | 日記

添付のお写真は日展(日本書道展)にて最優秀奨励賞を授与されたご自身
(雅号は弘斎)の作品「明来闇去」と共に浄心庵「心の道場」での
恩師「長尾弘」先生です。

 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

   ◆幸せの扉を開ける鍵「観自在菩薩」の意味と「思い変え」の法◆

「喜べば喜びごとが喜んで喜び集めて喜びに来る」

私たちはまず喜ばなくてはなりません。
そうすると、喜びごとが喜んでくれるのです。
同じことは否定的な思いを持った時にも言えます。
不平不満、愚痴、そういう想念から行為していると、
不平不満や愚痴が余計に不平不満や言って、そういうものを集めてきます。
幸せになるはずがありません。
べてを喜びに変える方法としては、
あらゆることに関してこの「源ヤン」の思い方をうまく応用することです。
あらゆるものを金に変える錬金術のように、どんなものでも喜びに変えられたならば、
これほど素晴らしい人生の宝はないでしょう。
人生はどんな困難な出来事が待ち受けているかわからないです。
嫌なことを思い方一つ変えるだけで喜びに変えていけます。

ところで、この「思い変え」の法は、実は般若心経の中に説かれている「観自在菩薩」
に通じるものです。「観自在」とは観ることが自在のことです。
菩薩は如来を目指して仏道修行に励んでいる人のことですが、私たちでも正しい教えを学び、
やがては仏に到らせてもらおうというほうに心を向けて実践すれば、みんな菩薩です。
此処に灰皿があるとします。
上から見るとタバコを置く窪みがある面、横から見ると台形で角張った面、
底のほうから見ると丸く調和した面と、一つの灰皿でも見る面を変えることによって、
それぞれ違って見えて来ます。
それらが合わさり、一つの灰皿という立体をなしています。
私たち人間にしても同じで、たいへん嫌な面、角の立った面、
人を見たら突っかかっていく面がある反面、調和された美しい面もあります。
これが人間の心の複雑怪奇さです。
先程述べたように思いの雲が厚くても、反省と作善止悪の行為を積み重ねて、
雲が切れた時、その切れ間から神様の光が差して来ます。
完全に心の曇りが晴れれば魂の器を神の光が貫き、神の御心と同じになります。


作善止悪

2019-10-22 23:37:46 | 日記

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

   ◆幸せの扉を開ける鍵「観自在菩薩」の意味と「思い変え」の法◆

何事が起きてもわるく見る見方と、喜びに見る見方とがあります。
いちばんわかりやすく参考になるお話をします。
東大阪に明治の初期に生きた「結構の源ヤン」という方がいました。
何事があっても「ああ、結構やないか、結構やないか」とおっしゃって、
決して愚痴や不足不満を言われなかったということです。
或る年、毎日毎日雨が降り続きました。

当時、「土方殺すに刃物はいらぬ。雨の三日も降ればよい」と言われたものでしたが、
その頃は日雇い労働者の人は三日も仕事がなければ食べていけない状態でした。
それが一か月から雨が降り続いたそうです。
そこで、源ヤンの友達が「いかな源ヤンでもこの雨にはまいったことだろう。
結構とはよう言わんやろうなあ。
何と言うか聞きに行こう」と言って、源ヤンの家に出掛けていったそうです。
「ごめん、源ヤンおるか!」と奥に呼びかけると、
「ハーイ」という声とともに出てこられました。
「かなわんなあ、これだけ降ったら」と言いますと、「ああ結構やないか」と言われたので、
友達があきれて、「何が結構やねん」と聞きますと、
「お前らよう考えてみ。これだけ降る雨を、もし神さんが三十日間天で受けてくれはって、
一杯にたまったのを一片にまとめてぶちあけられたら、家も田圃も皆流されてしまう。

ようこんなにうまいこと何日にも分けて降らしてくれたもんや。神様は何と結構なお方や」
と言って喜ばれたということです。
雨続きでもう食べてはいけない状態であっても、そのことを嘆く代わりに、
一度にためて降らしたらたいへんな被害になるのに、
うまいこと分けて降らしてくれるとは神様はありがたいなあと思いを
喜びのほうへと変えてしまうのです。
結構の源ヤンと呼ばれたこの方は、後に東大阪一の結構な人になられました。
大阪では有名な話です。


作善止悪

2019-10-21 23:29:21 | 日記

お写真は恩師のご講演中のものを学びの友の方が
カメラに収めたものですが、御覧のように恩師が
幽体離脱をされています。

被写体全部が移動していますと、
カメラのブレと思われる方もおありかと
思いますが、御覧のように恩師の前の
演台は少しもブレていません。

このお写真について、恩師ご自身が後のご講演で
幽体離脱であることを説明されておられました。


恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


    第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

  ◆人の愚行によって自分の心の平安を失った時、
                  その人よりも自分が愚かとなる◆

先の続き・・・

ここで思いを変えることさえできれば、
苦しみの原因をつくらないばかりか、
「想」の次の「行」を賢明に行う結果として
また新たな認識(識)を身につけ、
さらに高い魂の境地へと段階を昇ることができます。
正見、正思、正語、正業の実践の大切さがわかります。
己の思いを高く高く持しつつ、それを行いに表現してゆく。
そのときにその経験を通して魂はだんだんと成長がし、
大人になっていきます。
いつもいつも同じパターンの思考回路で行為を積み重ねていても、
それは習慣の域を出ません。
魂の進歩は望めません。
思いの癖が取れないということは、
この世に生まれた目的である心の癖の修正という魂の修行が
進まないということです。

それならもう生きていてもしようがないのですが、
神様は太陽のごとくに平等な愛をもって黙って見守られて、
その方の目覚めをひたすら待ち望んでいらっしゃるのです。
一人一人が等しく神の愛し子であることに変わりはありません。
生きる上での困難は、大切な魂の修行のために必要なことです。
そこでは闇の中へと迷いこんで不幸になるとか、
それとも明らかな智慧の光でその闇を照らしてこの肉体にとらわれずに
魂を進化させていけるかどうかの分かれ道に私たちは立たされます。
この明らかな智慧が法といわれています。
つねに法の言葉を聞いて素直に実践していれば、
この世の人生修業においてもいくつもの難事を切り抜け、
やがて迷わずに正しい生活の中に入りきり、心の安らぎを得るとともに
幸せな暮らしにも恵まれていきます。





作善止悪

2019-10-19 23:58:09 | 日記

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

   ◆人の愚行によって自分の心の平安を失った時、
                    その人よりも自分が愚かとなる◆

先の続き・・・

提婆達多(ダイバダッタ)という人は生涯お釈迦様を目の敵にし、
あの手この手で評判を落とそうとしたり、命を狙ったりしました。
街頭にいた貧しい妊婦に金を与えてお釈迦様が孕ませた子だと
街中を触れ回らせたのもその一つですが、
お釈迦様はこれを捨て置き、何ら弁明はしませんでした。
もちろん、こうした悪意からの卑劣な行為は天に向かって
唾を吐くことになりますから、神様が罰を当てなくとも、
結果は自分に戻ってきて哀れな最期となって当然です。
ここでもしお釈迦様が相手に反応してしまったなら
どういうことになったかは想像に難くありません。
自分の心を苦しめてはなりません。

まして自分に非がないのに相手から喧嘩を仕掛けられて、
それに心を動揺させたら丸損になります。
提婆達多とまったく同じような人が私にもありました。
私を目の敵にし、なんとかして評判を落とそうと、
卑劣にもまったく事実無根のありとあらゆる悪意を尽くした
作り事を十年間言いふらしてくれました。
私もただの凡夫ですから、
弁明や抗議の一つもしたくなった時もありましたが、
いっさい捨て置くことにしました。
今から三年前、その人は全身マヒで口も聞けず、手足も動かず、
意識だけはハッキリしている生き地獄の中で死さえ
ゆるされずに生きているようです。
近づく人もなく、
やせ衰えて見る影もない哀れな姿だということです。
自らの行為を反省され、神の愛し子として
目覚められることを祈るばかりです。
先程は五蘊の説明をしましたが、
人間には肉体を持ったがために避けられない困難や苦悩
がついて回ります。「色受想」までの段階で生んだ迷いを、
そのまま「行」すなわち行為にもたらしてしまうまた罪をつくり、
苦しみの原因となります。


作善止悪

2019-10-18 23:20:10 | 日記

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生の御講演中を学びの友の方が
カメラに収めたものですが、お写真を現像されますと
ご覧のように光だけの映像となっていました。

後のご講演会で恩師ご自身がこのお写真を示しながら
仰っておられましたが、これは私の涅槃像ですね、
持っていると、きっと良いことがありますよ、と・・・

恩師のご著書「心理を求める愚か者の独り言」の挿絵と
しても紹介されています。


恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

   ◆人の愚行によって自分の心の平安を失った時、
                     その人よりも自分が愚かとなる◆

先の続き・・・

これは自分中心に考えるからです。
しかし、ちょっと距離を置いて冷静になれば、相手が、
まったくわからないので犯している誤った行為のあまりの愚かさに唖然としてしまい、
どうしたよいのかお手上げになると同時に、相手には当然軽蔑の念を持ちます。
そこで、一旦角度を変えて、また自分の視点から眺めると、
やはり自分に向けられている不都合な行為と見るから、
再び腹が立ってきます。
ここで怒るのは簡単です。

相手に怨みや憎しみをおもいきりぶつければ、
さぞかし爽快な気分になることでしょう。
少なくとも一時的には気持ちがスッキリするかもしれません。
しかし、ここで気をつけなくてはならないのは、その後の結果がどうなるかです。
自分の心はたちまち墨を流したように真っ黒に汚れるでしょう。
腹に固まりができ、心臓がドキドキ、血圧も上がるでしょう。
怒りの思いが心の調和を破り、肉体まで痛めます。
今度は後始末がたいへんです。

相手との間にさらにいっそう激しい憎しみの業火が
燃え盛ることになるかもしれません。
しかも、自分自身はもともと誤りがなく、
不調和な心になる原因もなかったのです。
それを人の愚かな行為や言葉によって、
我が心の平安を失ってはいけません。
新たな苦しみを増やすようなものです。
相手が愚かだと云いながら、
自分はそれ以上に愚かだということになってしまいます。
聖典に「人の愚かなる行為をもって我が心の楽しみを失うことなかれ」
「人の愚かなる行為をもって我が心の楽しみを失う者は、
なお愚かなリ」と書かれています。
相手の行為を愚かだと思っても、
それに対して怒ったり非難したりしたならば、
自分がなお馬鹿になり下がってしまいます。
喧嘩するためには必ず相手のレベルまで自分の位置を
下げなければなりません。
軽蔑する相手よりさらに馬鹿になりたくなかったら、
相手にしないで黙殺すべきです。



作善止悪

2019-10-18 01:57:28 | 日記

      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

  ◆人の愚行によって自分の心の平安を失った時、
                     その人よりも自分が愚かとなる◆

この世に生きている限り苦労はついて回るのですが、
お釈迦様はこれを四苦八苦と言われました。
生きる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、死ぬ苦しみ。
これが四苦ですが、八苦というのは、
これにさらに四つの苦しみを加えたものです。
愛する者と別れなくてはならない苦しみ、「愛別離苦」。
嫌な相手と出会う苦しみ「怨憎会苦」。
求めてもちっとも得られない苦しみ「求不得苦」。
肉体の身をもったがための苦しみ「五蘊常苦」。

五蘊というのは、肉体(色)と、五感(受)と、
五感により与えられたものを受けて
思う心の動き(想)と、思ってなす行為(行)と、
行って識ること(識)です。
これら五つの集まりが五蘊と言われています。
この中で「怨憎会苦」というのは、嫌な人に出会って
心に生ずる怨みや憎しみによって、
自らの心が苦しみを受けることです。
自分のことを理解してくれず無理難題を言って来る人、
やたらと自分を馬鹿にしたり
高圧的に接して来る人、嫉妬から足を引っ張る人、
迷惑をかけて来る人、どうも虫が好かず
苛々させる人、恋敵など、あげたらきりがありません。

要は、自分にとって都合のわるい人はみんな嫌いな人です。
そういう相手に対して腹が立つ時は、
私たちは必ず自分を正当化しようとします。
あいつがわるい。間違っている。わかっていない。
その中には自分のほうがわるいのに、
それに気がつかないで、相手をわるく思っている
場合もあります。
よく反省してみたら、自分のほうがかえって相手に迷惑を
かけていたということもあります。
ただ、第三者の誰が見ても、絶対に相手がわるいということがあります。
そういう時は、なおさら腹が立つものです。
自分がひどく理不尽な苦しみに遭っているような被害者意識にも陥ります



作善止悪

2019-10-17 01:35:09 | 日記

お写真は宮崎講演会の時に現れた不思議現象です。
御覧のように「長尾弘先生御講演会」と
書かれた後ろの垂れ幕、舞台全体、
恩師「長尾弘」先生ご自身が白い光に
包まれています。


恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

   ◆神様は「健康になりなさい、幸せになりなさい」と願っておられる◆

先の続き・・・

ところが、実際には不幸も病気もあります。
それは何も神様が罰を当てたのでも、無慈悲なのでもありません。
単に人間の発する自己中心的な思いというのが、
ちょうど障害物が光を遮る結果として
生まれる影のように、不幸や病気を現わします。
その闇自身に実体はありません。
光が来れば闇は去ります。
自分の心を苦しめれば幸せになれません。
自分の心を苦しめることをできるだけ少なくし、
慈しみをもって自分の心を見つめることができるようになれば、
他人の心を苦しませることが少なくなります。

そしてさらには、他人の心を和ませ、喜ばせたくなってまいります。
だんだんと神様のお考えになっていることに近い思いに
心がなってくるからです。
互いに愛し合い、互いに相手のために仕えた時には、
神様の御心とピッタリ波長が合い、
調和した心になってきます。
これは法則にかなっていますから、心が苦しむはずはありません。
たとえ一分前の過去でも、過去の過ちを赦さずに自分を責めていたら、
自分の心を痛めることになります。
過去にとらわれず、
今この瞬間にどんな思いの中にいるのかといることだけが問題です。
過去は二度と戻りません。

砂浜の砂にジュースをこぼしたら、砂にしみこんでしまい、
二度と同じジュースはコップに帰りません。
やがて砂の表面から跡かたもなく消えてしまいます。
過去のことで心を苦しめるのはつまらないことです。
また、まだ来ぬ未来を心配しても、
取越し苦労の思いの中にいることによって今が不幸になるだけです。
心配したからといって未来がよくなるわけでもありません。

実際のところは来てみなければどんなものかもわかりません。
また、肉体が病気なら不幸かというと、必ずしもそうではありません。
長い間病気を患っていても、人にいい感じを与える方もいらっしゃいます。
生まれつきかあるいは事故などで体の不自由な方でもそうです。
このあいだテレビでパラリンピックの模様が伝えられましたが、
身体に障害を持たれていながら、明るく強く生きて、
その姿勢がまた多くの人々に勇気や希望を与えているという
方々もいらっしゃいます。



作善止悪

2019-10-15 23:34:57 | 日記

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

            
     第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

      ◆神様は「健康になりなさい、幸せになりなさい」と願っておられる◆

「幸せになりなさい。健やかに生きなさい」というのが神様の御心です。
怒りや憎しみや愚痴や恨みや悲しみや貪欲などの想念を発することは、
その御心に反することです。
なぜならば、自ら発した思いが自らの心を曇らせるからあり、神様の光を遮れば、
それだけ闇をつくってしまい、喜び少なく苦労が増えるからです。
自らが苦しむだけでなく、心のスモッグを出すことで人様に対しても迷惑をかけます。
神様は光です。

つねに私たちに光を注がれていますから、
心に自己保存とか自我我欲の思いが少なければ少ないほど、
神様からの光は五感からくる煩悩の思いの層である想念帯の切れ間から
木漏れ日のように差し込んでくる量が多くなるのです。
そうすれば、幸せとなり健康となります。
この世である現象界とあの世の実在界を遮断しているのが想念帯ですが、
この遮断ベルトの層が薄い程、その切れ間を通して命の本源である神様のほうからの光が
表面の意識(知性・理性・本能・感情)に注がれます。
想念帯が薄くなり表面意識へ光が出るに従い、その人のこの世の生活もよくなってきます。
そして、一人一人の人間が幸せで健康になるということこそが、
神様の望んでいらっしゃることです。
それがやがて社会に満ち、国に満ち、世界中に満ち、地球全体に光が満ち溢れれば、
この地上と神様の世界が光で一つにつながり、
すべての人々が差別なく幸せで健康な大調和した世界となります。