浄心庵・長尾弘先生「作善止悪」

「作善止悪」
三世の諸仏、過去の仏も未来の仏も現在の仏も
悉くこの法門を説き給う
良き事を行い悪しき事を止めよ

「作善止悪」

2018-02-28 00:19:56 | 日記

~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


               講演集 一

       「真の神様はお金を必要とされない」

よく神様にお金をあげなさいという宗教がありますが、
あれは皆おかしい。ほんとうの神様から見るとおかしいことです。
今この世にある殆どの宗教は、お金をあげることになっています。
あなたの罪を私がお金で買ってあげましょうと言って
神様が取ってくださるならたくさんお金を上げたらよろしいが、
神様にお供えしたお金は、皆人間が使い、
そして組織が使っております。
マンモス宗教の偉い人は、栄耀栄華を極め、走り回っております。
いい証拠として、
私は神様と名のる者を人間の身体の中に入れることができますし
悪霊も自由に入れられます。

或る時、
神と名乗る方を現実の肉体を持つ方の中に入っていただいたことがあります。
その神は、僅かの賽銭で多くの願いごとが聞き入れられるか、
とおっしゃいます。
しかしほんとうの神様ならば人間の肉体の中には入られません。
人間の中に入る神様は、偽者の神様です。
この辺りにも、いわゆる「拝み屋さん」というのがありますか?
神様が体内に入って来ると称して拝む人ですが、これは百パーセント
偽者と思って間違いありません。
それでは何が入って来るのかと言いますと、全部成仏していない霊が
入るのです。
悪い霊です。

そして何々の命(みこと)とか、何々の大神とか名乗ります。
この場合も悟っていない神だったので、
私の前でボロを出してしまいました。
「人の世界も神の世界も同じで、もっと賽銭を上げよ」と言うので、
「いやいやあなたは間違っている」と言っても聞き入れない。
物質としてただ現れているものを、どうして神が求められますか。
こんなお金などは必要とされない筈です。
お金はただ一時現れては消えていく姿です。
私達のこの肉体でさえオギャーと生まれて五十年、百年のうちには
消えていくのです。
そして又新しい命が生まれては、又消えていき、新陳代謝を繰り返し
ています。

私達自身が大いなる神のご神体の細胞の新陳代謝を起こしているわけです。
古いのは滅んで新しいのが生まれて来る。
神様の身体の中で新陳代謝を起こしているのが、私達の身体なのです。
自分は死んだ後に、子や孫が生き代わっていくのが定めです。
絶対に死なないという人はありません。
お金を必要とする神様は偽物者と思ってください。
お宮にしろお寺にしろ、又さまざまの宗教にしても、
お金を上げなさいと言って献金とか玉串料とか
お賽銭とかいうことがあります。
しかし、それは神の名を使ったごまかしのようなものです。
本当の神様はお金をお使いになりません。
必要とされないのです。
お札はお足といいますが、流通しているお札の期間というのは、
ほんとうに短いのですよ。
全部現れては消えているのです。
お日様は一銭の請求もされないし、
また神様も一銭の請求もされません。
結局神や仏に上げたお金を使っている人間が問題です。


               ~ 感謝・合掌 ~




「作善止悪」

2018-02-27 00:40:54 | 日記

   ~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


               講演集 一

  「自分を犠牲にして愛を与え、差別せず報酬を求めない太陽」

私のとても好きな言葉は「太陽の心」です。
太陽は太陽そのものが燃えさかって、自らの身を燃焼させ犠牲にして、
その結果として現れた熱と光、つまり慈悲と愛ですね。
この慈悲と愛を他へ与え給うのです。
自分を犠牲にしてその結果として生まれたエネルギーを
他へ与え給うのです。
宗教の宗とは宇宙を示すと書きます。
宇宙を示す教えがほんとうの宗教であり、
しかも最も近い宇宙は太陽です。そして太陽系です。
その最も身近な太陽系が、
生きざまを自分の姿をもって教えて下さるのです。
それは自分を燃え上がらせ、自分を犠牲にして他に慈悲、
愛を与えなさいという姿として太陽の中に表わされています。

どんなものにも差別をしない太陽は、病人も、健康な者も、
身分の高い方も、天皇、大臣、名もない者も、
皆平等に光を与えて下さいます。
私達もすべての人と平等におつき合いせねばなりません。
あの人は都合が悪いから嫌いだというのは、
すでに差別をしているのですね。
私の悪口を言ったからもう相手にしないというのも、これも差別です。
人種差別も、人の好き嫌いも、みな差別です。
いっさい差別してはならないのが神の教えです。
罰を当てない太陽の姿は、神の心を表しております。
神はいっさい罰を当てません。
外に出て太陽に向かって「バカヤロー」と言ってごらんなさい。
太陽がお前には光をやらないぞとは言われません。
燦々と与えて下さいます。

感謝する者にも、しない者にも、同じように熱と光を注がれます。
天に唾すれば自分に返りますが、これは引力の法則で、お日様は
唾をかけようとは思われないのであって、
自然の法則で唾が自分にかかっただけのことです。
私達も、もし過ちを犯せば自分に返ってきます。
天に唾するのと同じです。
私達も自分にとって都合が悪いからといって報復手段を取ったり、
言葉でもって悪口を言われたから言い返してやったというようなことをしたら、
太陽の心に背いています。
何を言われようと、「ただ、させていただく」その行為こそ神の行為です。
いくら慈悲を与えても洞窟の奥底へ逃げる人があります。
これは自ら逃げるのあって、太陽が与えておられないのとは違いますね。
逃げるから、光を避けるから届かないだけです。
ほんとうに大いなる神の光から遠ざかって人生を生きている人もありますね。
そのように太陽は自らを犠牲にして他を生かし給う姿、
万象一切のものについて差別をされない、罰を当てない、
報酬をお求めにならない。神様もそれと同じです。
ただ与え給うのみでいっさいお求めになりません。


               ~ 感謝・合掌 ~




「作善止悪」

2018-02-26 00:21:08 | 日記

   ~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


              講演集 一

        「太陽・大自然への感謝」

太陽の熱、光について考えてみますと、
今よりも更に何十度か太陽の熱が高かったり光が強かったり、
光が少なかったり、温度が低かったりしたら、
私たちは生きていけないのです。
ちょうど二十度、三十度の、
私達が生きさせていただくのにぴったりの温度を与えられています。
もう五十度も低かったら、
人間は寒くてとても生きられませんし、逆に五十度高かったら
熱くて人間の丸焼ができます。

このこと一つ見ましても、何と有難いことだなあと思いますね。
しかも一銭のお金も出さずに毎日毎日熱と光を与えて下さって、
こんなに有難いことはありません。

お日様からいただいている熱と光を換算すると、
一秒間に地球がいただいているエネルギーは
石炭二百万トンを燃焼するだけのカロリーに相当します。
一日分の熱量代を支払おうとしたら、地球は破産してしまいます。
しかも報酬は求められません。

また目に見ることはできませんが、この空気中には、
私達が生存させていただくだけの酸素がちゃんと与えられております。
酸素が欠乏したら忽ち困ります。
それを十分にいただきながら感謝することさえ知らなかったですね。
生まれて以来今日までに、
ああ空気って有難いなあと感謝された方がありますか。
これは案外少ないですね。

ほんとうに感謝の対象は無限にあります。
酸素をいただき有難いことです。
この自然から与えられる自然の大慈悲、
大愛の中に生存させてもらっているのに感謝を知らない、
にも拘わらず感謝しないからあなたには空気をやらないとは
自然はおしゃいません。


            ~ 感謝・合掌 ~




「作善止悪」

2018-02-25 00:19:28 | 日記

    ~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


            講演集 一

       「心を変えた私の体験」

以前の私は口を聞けば相手を傷つけ、
「何を言うか、この馬鹿たれ」と言うような私でした。
それを、口を聞けば人様に喜んでもらえる言葉、
希望や安らぎを与える言葉、
それ以外は使わないようにしようと決めて、
少しずつ実践させてもらいましたら、
以前とは全く違う嬉しい顔の自分になりました。

以前の私を知る人は「よくもこうも変わったなあ」と言われます。
誤まった生活をしていますと、目が曇ります。
自分では見えないけれども、以前の険しい目付きではなく、
優しい目付きに変わってきました。
自分の思い、心を変えるからこうなるのです。
健康にもなれます。
私の顔を見て下さい。
いつお会いしても、何回お会いしても常時笑っていますので、
「先生には苦しみはないのですか」と人に聞かれたりします。
この世に生きさせてもらって苦しみがないことはありません。
けれども、この苦しみに対して見方、
思い方を変えてしまうのです。


           ~ 感謝・合掌 ~



※ 下記は小生が管理・更新しています恩師「長尾弘」先生の
   ブログです。

新規開設(2017-12-18)しました浄心庵・長尾弘先生悟りへの道
「悟道」も最近時では毎日沢山の皆様のご訪問を頂きまして
軌道に乗ってきました。

「垂訓」のブログにおきましては、毎日100名以上の皆様に
ご訪問を頂き、閲覧数も一日500回以上が常でございます。
恩師(故)長尾弘先生も天上界で大変喜んでおられることと
ご推察申しあげます。

なおいっそう皆様に喜んでご訪問いただけますように
ブログの更新・管理をしていく所存でございますので、
今後とも宜しくお願い申し上げます。

◆印のブログは日々更新しています。

◆①「悟道」(最近時新規開設)
http://blog.goo.ne.jp/eikawa-masato
◆②「法話」
http://blogs.yahoo.co.jp/tenzenhana
◆③「垂訓」
http://blog.goo.ne.jp/hanatenzen 
④「神癒の奇蹟」
http://blog.goo.ne.jp/kaminoiyashi 
⑤「光の天使様」
http://blog.goo.ne.jp/minraianko 
⑥ 御著書「思いの中に生きる」 等。
http://blog.goo.ne.jp/omoinonakani
⑦ 「心行の解説」「講演集1・2・3」等。
http://blog.goo.ne.jp/eikawa-tenzen 

沢山の皆様のご訪問をお待ちしております。
ありがとうございました。








「作善止悪」

2018-02-24 00:18:05 | 日記

      ~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


                       講演集 一

               「思い変えの方法「結構の源やん」

人生は思い変えの訓練が大事です。
その訓練の最も良い方法で皆さんに分かり易く一番参考になるのが
「結構の源やん」の話です。
現在の東大阪市に、名前は「源やん」渾名は
「結構」という方がおられたそうです。
明治の初期だそうです。
この方はどんなことが起きても絶対に不満不足を言われなかった。
何が起きても「ああ、結構やないか、
結構やないか」とおしゃったのです。
だから、「結構屋さん」とか「結構の源やん」という呼名がついたのです。
で、ある年、
毎日毎日雨が降り続いたそうです。
一ヶ月からも降ったそうです。

その時代、「土方殺すに刃物は要らぬ。雨の三日も降ればよい」といって、
三日間、仕事ができなければもう日雇いの人は食べていけないような
状態だったのです。
その時は一か月から雨が降り続いたということです。
源やんの友達の人たちが、「さすがにあの結構の源やんも
これだけ雨が降ったら、もう結構とはよう言わんやろなあ。
一回何て言うか聞きに行こうか」と言って、
源やんの家に行ったそうです。
「ごめん、源やんおるか!」と言うと、
「ハーイ」と言って出てこ来られたそうです。
「かなわんなあ、こんだけ降ったら」と言いますと、その源やんが
「ああ結構やないか」とおっしゃったそうです。
「結構、結構やないか」というのは、「有難いやないか」ということです。
「これだけ雨が降るのに何が結構や」と友達が聞きますと、
「お前らよう考えてみい。
これだけ毎日毎日降る雨を、もし神さんが天でこう受けてくれはって、 
そして一杯たまった三十日分の雨をバーッと一遍にぶっちゃけてくれはったら、 
家も畑も田圃もみな流れてしまう。
こんなに毎日しとしとと分けてよう降らしてくれはったもんや」と言って
喜ばれたそうです。

もう食うていけないような状態の中にあっても、
毎日降る雨を一度に溜めて降らしたら、えらいことになるのに、
うまいこと分けて降らしてくれるとは、神さんって有難いなあ
というように思い方を変えてしまうのですね。
世間の人は皆「かんわんなあ、かなわんなあ」と言っているのに、
そのお方はさすがに「何と結構やなァ」と言われたといいます。
やがて、その方は東大阪一番の結構な人になられたそうです。
ものすごい結構な、まあ大金持ちですね、大分限者になられたそうです。
大阪では有名な話です。

「喜べば喜びごとが喜んで喜び集めて喜びにくる」

私達はまず喜ばなくてはいけません。
そうしますと喜びごとが喜んでくれるのです。
同じことが言えます。
不足、愚痴、そういう思いを想念し、行為しておりますと、
不足や愚痴がよけい不足や愚痴を言って、不足や愚痴を集めて来ます。
幸せになる筈がありません。
すべてを喜びに変える方法は、この「源やん」の思い方をうまく
利用することですね。
そうしますと、どんなものでも喜びに変えられます。
見方、思い方をちょっと変えてみますと、
感謝することは一杯あるのです。


               ~ 感謝・合掌 ~



※ 下記は小生が管理・更新しています恩師「長尾弘」先生の
   ブログです。

新規開設(2017-12-18)しました浄心庵・長尾弘先生悟りへの道
「悟道」も最近時では毎日沢山の皆様のご訪問を頂きまして
軌道に乗ってきました。

「垂訓」のブログにおきましては、毎日100名以上の皆様に
ご訪問を頂き、閲覧数も一日500回以上が常でございます。
恩師(故)長尾弘先生も天上界で大変喜んでおられることと
ご推察申しあげます。

なおいっそう皆様に喜んでご訪問いただけますように
ブログの更新・管理をしていく所存でございますので、
今後とも宜しくお願い申し上げます。

◆印のブログは日々更新しています。

◆①「悟道」(最近時新規開設)
http://blog.goo.ne.jp/eikawa-masato
◆②「法話」
http://blogs.yahoo.co.jp/tenzenhana
◆③「垂訓」
http://blog.goo.ne.jp/hanatenzen 
④「神癒の奇蹟」
http://blog.goo.ne.jp/kaminoiyashi 
⑤「光の天使様」
http://blog.goo.ne.jp/minraianko 
⑥ 御著書「思いの中に生きる」 等。
http://blog.goo.ne.jp/omoinonakani
⑦ 「心行の解説」「講演集1・2・3」等。
http://blog.goo.ne.jp/eikawa-tenzen 

沢山の皆様のご訪問をお待ちしております。
ありがとうございました。



「作善止悪」

2018-02-23 00:16:45 | 日記

      ~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


                       講演集 一

               思い変えの方法「結構の源やん」

人生は思い変えの訓練が大事です。
その訓練の最も良い方法で皆さんに分かり易く一番参考になるのが
「結構の源やん」の話です。
現在の東大阪市に、名前は「源やん」渾名は「結構」という方が
おられたそうです。
明治の初期だそうです。
この方はどんなことが起きても絶対に不満不足を言われなかった。
何が起きても「ああ、結構やないか、結構やないか」とおしゃったのです。
だから、「結構屋さん」とか「結構の源やん」という呼名がついたのです。
で、ある年、毎日毎日雨が降り続いたそうです。
一ヶ月からも降ったそうです。

その時代、「土方殺すに刃物は要らぬ。雨の三日も降ればよい」といって、
三日間、仕事ができなければもう日雇いの人は食べていけないような
状態だったのです。
その時は一か月から雨が降り続いたということです。
源やんの友達の人たちが、「さすがにあの結構の源やんも
これだけ雨が降ったら、もう結構とはよう言わんやろなあ。
一回何て言うか聞きに行こうか」と言って、
源やんの家に行ったそうです。

「ごめん、源やんおるか!」と言うと、
「ハーイ」と言って出てこ来られたそうです。
「かなわんなあ、こんだけ降ったら」と言いますと、その源やんが
「ああ結構やないか」とおっしゃったそうです。
「結構、結構やないか」というのは、「有難いやないか」ということです。
「これだけ雨が降るのに何が結構や」と友達が聞きますと、
「お前らよう考えてみい。
これだけ毎日毎日降る雨を、もし神さんが天でこう受けてくれはって、 
そして一杯たまった三十日分の雨をバーッと一遍にぶっちゃけてくれはったら、 
家も畑も田圃もみな流れてしまう。
こんなに毎日しとしとと分けてよう降らしてくれはったもんや」と言って
喜ばれたそうです。

もう食うていけないような状態の中にあっても、
毎日降る雨を一度に溜めて降らしたら、えらいことになるのに、
うまいこと分けて降らしてくれるとは、神さんって有難いなあ
というように思い方を変えてしまうのですね。
世間の人は皆「かんわんなあ、かなわんなあ」と言っているのに、
そのお方はさすがに「何と結構やなァ」と言われたといいます。
やがて、その方は東大阪一番の結構な人になられたそうです。
ものすごい結構な、まあ大金持ちですね、大分限者になられたそうです。
大阪では有名な話です。

「喜べば喜びごとが喜んで喜び集めて喜びにくる」

私達はまず喜ばなくてはいけません。
そうしますと喜びごとが喜んでくれるのです。
同じことが言えます。
不足、愚痴、そういう思いを想念し、行為しておりますと、
不足や愚痴がよけい不足や
愚痴を言って、不足や愚痴を集めて来ます。
幸せになる筈がありません。
すべてを喜びに変える方法は、この「源やん」の思い方をうまく
利用することですね。
そうしますと、どんなものでも喜びに変えられます。
見方、思い方をちょっと変えてみますと、
感謝することは一杯あるのです。


               ~ 感謝・合掌 ~




「作善止悪」

2018-02-22 00:46:21 | 日記

     ~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


                講演集 一

       「心の法則を利用して感謝する」

一つ一つしか思えない人間の心をうまく利用したらいいのですね。
人様に尽くさせてもらう時には、その尽くす思いしか持てません。
また有難いなと思う時は、その心だけを持つことができます。
その時は不足は言えませんね。
宗教はすべて感謝を教えます。
感謝している時は、さっき言いました砂袋に砂を
詰めることはできないのです。

「有難うございます、有難うございます」という感謝の心を
持っている時は愚痴も言えませんし、怒ることもできません。
また不足も言えません。
感謝しながら不足を言ったり腹を立てたりはできません。
一日の内で一時間、いえせめて五分間感謝し、
有難いなあという時間を持たれたら、
その人の二十四時間のうちの五分間は心の中に魔が入って来ません。
もし一時間感謝の心を持ちますと、今日一日の中の一時間は
安らぎの時間が保てるわけで、
その間に一切の苦しみの原因を入れることはできません。
心は一つしか思えないのですから、
一生のうち今日の一日をすべて感謝に満たさせますと、
一生のうちの今日一日を心に曇る原因をつくらずに済むわけですね。
感謝は心を魔から守る武器です。

感謝には、そういう深い意義があるのです。
先程、神を信じるなら人を信じなさいと言いましたが、
そういう時間を少しでも長く持つことが幸せを守っていくコツであり、
幸せになる要領なのです。
苦しみに心を向けることをできなくさせるからです。
無理やりでも構いません、感謝の対象を見つけて、
感謝していったらいいのです。
その時幸せになります。
そういう思いを長く続けますと、やがて自分の肉体は勿論のこと、
或いは環境、或いは経済的に、また商売や仕事の面で
喜びに満たされてきます。


                ~ 感謝・合掌 ~



「作善止悪」

2018-02-21 00:12:34 | 日記

   ~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~


               講演集 一

       「一つ一つしか思えない心の法則」

不思議なことに、人間の心というのは、
一つ一つしか思えないことになっています。
「いやそんなことはない、私は器用だから二つ思うことができるよ」
といわれるかも知れませんけど、そんなことはありません。
「ああ悲しいよう、ああ嬉しいよう」というように同時には思えません。
悲しい時は悲しいだけ、嬉しい時は嬉しいだけしか思えません。
「腹が立つなあ、やあ幸せだなあ」と同時には思えないでしょう。
幸せな時は幸せな思いだけですね。

禅定といって心を安らかにする修行をしておりますと、
最初はよく皆困るんですね。
今日は一度心静かに安らぎ、禅定の世界に入りたいと思って坐ります。
するとカタカタと誰か下駄の音をたてて道を通ります。
せっかく禅定しようと思うのに、うるさいなあと、まず心が動かされます。
次にあれは男の人かなと思い、あれは音が少し軽いから女の人だなあ、
どこの人だろうか、それは分からないけどその人は別嬪さんかいなとか、
身体つきは大きいかな、小さいかな、
と心はもうとどまることを知らず飛び回ります。
しかし一つ一つしか追っておりません。
必ず一つずつしか心は動いていないのです。


               ~ 感謝・合掌 ~



「作善止悪」

2018-02-20 00:19:34 | 日記

   ~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


           講演集 一

       「信じ、褒めたたえ、愛する」

神様を信じるとよく言いますね。
いったい神様とはどんな方でどこにおられるお方ですかと
尋ねられたら皆さんは何と答えますか。
(参加者の中から)「環境一切天の声と言いますから、
見るもの一切が神様と思えば間違いないと思っています。」
それは結構ですね。神様を拝みたいと思えば身の回りのもの
すべてが神様ということですね。
神様がご主人であり、親であり、兄弟であり、
またお友達そのすべてが神様。
神様を信じることが人を信じることであれば、
人の悪口を言って一方で神様を信じるというのは、
おかしいことになります。

人それぞれの心に神が坐(ましま)す。
全部神の分け御霊です。
夫婦で喧嘩をしたら神様同士が喧嘩をしたことになります。
これは不調和ですね。
それでいて一生懸命信仰しているとしたらおかしなことです。
まず神を信じるとは、自分に縁ある方を信じることです。
「神を賛美せよ」と言いますが、賛美とは褒めたたえることです。
自分に縁あるすべての人を賛美、褒めたたえるのです。
良き所を褒めたたえることが神を賛美することです。
「神を愛する」ということは、自分の身の回りの縁ある人をすべて
愛することです。

奉仕することです。
これが神様に愛を捧げている姿になるのですね。
人間などは放っておけと言って神様を信仰し、
信仰しない奴は駄目だと言い、
信仰信仰宗教宗教という人がありますが、
これは通用しません。
私のように泥棒まで信じていたらいいのです。
泥棒に罰を当てないで下さいと言っていますと、
その時自分自身が
苦しみから救われます。


           ~ 感謝・合掌 ~




「作善止悪」

2018-02-19 00:16:17 | 日記

   ~ 恩師の御著書「講演集」より ~


              講演集 一

     「僅かな悪口に翻弄されて罪をつくる」

僅かのことで、あの人はああいうことを言うとか、
つい目の前に現れてくる出来事に翻弄されていきますが、
どんなことを言われても心から精一杯尽くした時、
また他から尽くしてもらえます。

それを「あの人はこうなんですよ、人に言うたらあきませんよ、内緒です」
と陰口をたたきますと、もう翌日にはちゃんと向こうに伝わっています。
すると又、あの人はいやらしいと悪口を言います。
自分が悪口を言われたければ、人の悪口を言えばいいのです。
忽ちに言ってくれます。
言ってほしくなかったら言わないことです。
ちょっとのことで心が動かされ罪を作っていくのです。


             ~ 感謝・合掌 ~




「作善止悪」

2018-02-18 00:38:25 | 日記

    ~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


               講演集 一

      「自分を殺す者への許しを乞うキリスト」

「ただ、させていただく」自分を犠牲にしてさせていただくことです。
「究極の愛」というのは自分を犠牲にし、
自らを滅して相手を生かすことです。
イエスはゴルゴダの丘で十字架に上げられました。
イエスの話をしますが、私はキリスト教ではありません。
磔にあって大きい釘を手と足に打たれてあの十字架に上げられ、
しかも下から槍で突き殺されるのです。残酷な死刑ですね。

生きているのに釘を打ち込んで突き殺そうとした時、
イエスはこのように祈られました・・・
神よ、どうぞこの者達を罰しないで下さい。この者達は、
ものの正しい意味を知らないで、今この過ちを犯しています。
この者達の罪を許して下さい。この者達を罰しないで下さい」。
こう言って息を引きとられたそうです。

自分を殺している者の罪を許し、罰を与えないで下さいと言うのです。
これこそ究極の愛です。
ですから二千年経っても尚イエスを慕う地球上の何分の一かの方々が
キリスト教を信仰しておられます。
あの人が私をいじめる、などと言うのは、
凡そ関係がない些細なことです。
いじめられようが殺されようが尽くすことです。
この時、苦しみはなくなっていきます。


              ~ 感謝・合掌 ~





「作善止悪」

2018-02-17 00:30:42 | 日記

    ~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


             講演集 一

先の続き・・・

亡くなられた時には、
生きておられた時よりも真にきれいなお顔になっておられ、
何とも表現しようのない程きれいで安らかなお顔だったそうです。
死後の硬直は全くおきず、
身体がふわふわと柔らかくて冷たくならないので、
出棺の時、皆が火葬場に連れて行くのは惜しい、
勿体ないと思う程だったそうです。
私にはこういう心の友は多いですから、
その亡くなられた方をお送りしなければならない場合が多いのですが、
縁あるお方は皆さん、亡くなられた時、
何とも言えないきれいなお顔になられます。

ちょうど観世音菩薩の掛軸のお顔のような、或いは阿弥陀様のような、
ああいうお顔になられます。
硬直は一切おきず、そして亡くなられた後がとても明るいのです。
普通は死後硬直がおきて恐ろしい顔になっていると、辺りがすごく
陰気くさいです。成仏されきれいなお顔でこの世を去られますと、
その後は大変明るくて陰気くささは一切ありません。
その奥さんから、
「きれいなお顔のおばあちゃんを送らさせてもらいました」と言って、
亡くなられたその場ですぐに電話がありました。
しかも、「お陰様でで至らないけれど、
自分にできるだけのことはさせていただいて、
私も幸せでした」と、この間訪ねて来て喜んでおられましたね。


              ~ 感謝・合掌 ~



「作善止悪」

2018-02-16 00:50:33 | 日記

   ~ 恩師の御著書「思いの中に生きる」より ~


          愛は光なり
          光は道なり
          道は人を歩ます

          偉大なる光の大王に導かれ
          我が身は動き 口は語らん

          日々に神の御胸に抱かれて
          光の国に住める嬉しさ


           ~ 感謝・合掌 ~


「作善止悪」

2018-02-15 01:02:39 | 日記

     ~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


                 講演集 一

        「姑にできる限りを尽くした例話」

この間、大阪の資産家で財産が何兆円というお宅の若い奥さんと
ご縁がありました。
ここのおばあちゃんが先日亡くなられたのですが、
半身不随となって以来九年間寝たきりだったそうです。
この若い奥さんが九年間お世話をされたのですね。
いい加減くたびれます。しかもこのおばあちゃんは喜びが少なく、
一言も感謝の言葉を言われない。
それで「私は何の為におばあちゃんの世話をしなければいけないのか、
とてもつらいです」と言って、相談に来ておられたのです。

「おばあちゃんが喜んでくれてもくれなくても、或いは謗っても、
あなたは精一杯尽くしなさい。
喜ぶ喜ばないは関係ないので、自分にできるだけ尽くしてみなさい。
やがておばあちゃんがこの世を去られました時に、あなたはあんな
難しいおばあちゃんに、よくこれだけのことがさせてもらえたと、
御自身の心に満足感、喜びが与えられます。
それはおばあちゃんの為にするのと違います。
自分自身の為にするのです」と話しておりましたら、
お陰で自分の心が楽になって、
おばあちゃんが喜ぶ喜ばないは気にならなくなりました。

これだけのことをさせてもらおう、尽くさせてもらおうということで、
いよいよ亡くなられる前に私の話をテープ起こししたものを読んであげたり、
お話のテープを聞かせてあげたりしたそうです。
家の側におばあちゃんの実の娘さんもおられるそうですが、
娘さんがおばあちゃんの介抱に来られても、終わり頃にはもう受け付けない。
というのもお嫁さんが尽くしておられる程には、
実の親子でも尽くしておられないから、拒否反応を起こすのですね。
すっかりお嫁さんに頼って自分の娘よりも頼りにされたのです。


              ~ 感謝・合掌 ~



「作善止悪」

2018-02-14 00:30:01 | 日記

    ~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~


            講演集 一


     「与えるが故に与えられる法則」

出せば入る法則というのがあり、この法則に従って
「私は与えるが故に与えられる」という言葉がありますね。
愛するから愛されるのです。
自分が愛さないのに一体誰が愛してくれますか。
自分が与えないのに誰が与えてくれますか。
もし不幸になりたかったら、
人を不幸にしてやったらいいのです。
すると必ず不幸にしてくれます。
相手から憎んでほしかったら相手を憎んだらいいのですね。
必ず憎んでくれます。これは法則です。
しかも避けることはできません自分が幸せになりたかったら、
まず身の回りの人を幸せにすることです。


        ~ 感謝・合掌 ~