歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

佐々木力氏の『数学的真理の迷宮ー懐疑主義との格闘』を読んで

2021-01-14 | 哲学 Philosophy

 北海道大学出版会から上梓された『数学的真理の迷宮』(2020年12月10日発行)を著者から献呈され、その礼状を書こうと思っていた矢先、12月4日に著者の逝去の報に接し、この本は文字通り著者の遺作となり、私の感想を生前の著者に伝えることができなくなった。そこで、「回想」と「書評」というかたちで、著者がこの本で課題とした事柄自体を、私の立場から論じることで、故人への応答に替えたい。

 2021年年明け早々、『科哲』(東大科哲の会会誌)第22号が送られてきた。時局を反映して、新型コロナに関する寄稿が多かったが、『地球大の数学史をめざして』という佐々木氏の特別寄稿があり、これも、彼の遺稿になってしまった。(『科哲』の編集者は佐々木氏の急逝について全く言及していない)
 私は、佐々木氏の本と遺稿を読んでいるうちに、彼よりも前に東大駒場の「科哲」の教授であった廣松渉の最後の著作、『マルクスの根本意想は何であったか』(1994年、状況出版)が、廣松氏の葬儀の日に出版されたことを思い出さないわけにはいかなかった。当時の廣松氏は61歳、志半ばにしての突然の逝去であった。

 ソ連が崩壊したのはマルクス主義の「根本精神」を忘却したからだ、といえば分かりやすいが、「精神」や「理念」という語は唯物論者である廣松氏にはそぐわない。「根本意想」とは聞きなれない言葉であるが、トーマス・クーンのいう「パラダイム」にヒントを得て、廣松氏がよく使われていた「ヒュポダイム」という語とほぼ同じ意味であろう。

 ソビエト連邦が崩壊した時点で、ことさらにマルクスを持ち出すという「反時代的」考察にどんな意味があったのかーこういう疑義は当然提出されるだろう。しかし、ソ連が崩壊したからこそ、「マルクス主義とは何であったか」と問うことに意味があった。廣松氏はマルクス主義の終焉という如き歴史認識を聊かももっていなかった。マルクス自身が直面していた資本主義の問題状況、自由放任の市場経済によって貧富格差が拡大し、労働は劣悪な条件に置かれるという問題が、新自由主義的政策が席捲していた資本主義経済においても、根本的には解決されていないからである。

 廣松氏が急逝してから四半世紀が経った。多国籍企業と自由市場経済、グローバリズムとナショナリズムの対立、核開発による世界戦争と環境危機の時代、異なる文明間の軋轢と南北の経済格差の深刻化、情報革命の時代が直面する人間疎外等々ーこれらの多元的にしてますます複雑化した状況を前にして、現代の「マルクス主義者」は何を言うことができるのだろうか。

 佐々木氏は、プリンストン大学大学院でマイケル・S・マホーニイやトーマス・クーンの薫陶を受けた数学史の専門家であるが、彼の「マルクス主義科学論」(みすず書房、1997)が廣松氏の逝去後に上梓されたとことが象徴的に示しているように、廣松氏のマルクス主義理解から大きな影響を受けていた。数学史ないし数学哲学という専門領域に限定されていたとはいえ、ソ連や中国の共産党の「官製」マルクシズムではなく、マルクスの「根本意想」に立ち返りつつ、現代という時代をそれによって捉えようとする意図を共有していた。「マルクスと哲学の間」で思索した廣松氏に倣って、佐々木氏は「マルクスと数学史(数学哲学)の間」で思索し、様々な場で啓蒙教育活動をおこなっていたと思う。

 当然のことであるが、佐々木氏の中には廣松氏とは異なる部分もある。スターリンによって粛正されたトロツキーを高く評価し、「いまこそ正統と異端は役割交代する番である」と言う趣旨のことを佐々木氏は何度も述べている(『マルクス主義科学論』序文iii,『生きているトロツキー』5頁参照)。中国のマルクス主義に関しても、彼が最も評価していたのは毛沢東ではなくて陳独秀であった。

 こういう視点は佐々木氏に固有のものであるが、マルクス主義者などではない私のような読者からみれば、「誰が正統的なマルクス主義者なのか」と問うこと自体に、前近代的なイデオロギー信仰の古めかしさを感じる。ただし、「多数派」を僭称する専従の革命家のイデオロギーを信用せず、そのような「多数派」(ボルシェビキ)によって言論を封殺され、粛清された「少数派」の「マルクス主義者」のなかに、未来を切り開く実践を導く「ヒュポダイムー根本意想」を見出すということであるならば、その限りに於いて、佐々木氏の思想史へのアプローチは一般の読者にとっても価値あるものとなるだろう。

 多元的な科学史・科学哲学へのアプローチを採用しつつも、「多元を越える一」を強調するところは、クーン流のパラダイム論や単なる相対主義では説明のつかぬ事柄である。佐々木氏の場合は、そのような回帰すべき「一なる原点」がマルクスであった。その意味で、マルクスに立ち返ることによってマルクス主義を超えて、現実の科学の発展の歴史に即して、内的かつ外的に社会的な考察をすることを忘れない佐々木氏の科学論、とくに数学にかんする歴史的考察は知的刺激に満ちたものである。

『数学的真理の迷宮ー懐疑主義との格闘』という著作は、第一部「真理という迷宮」、中間考察「基礎づけのない多様な数学的知識ーウイトゲンシュタインにとっての数学的真理」、第二部 「古代ギリシャにおけ公理論的数学の成立と数学革命論」という二部構成である。

 第一部は数学史に詳しくない非専門家を念頭に置いた啓蒙的著作、第二部は数学史家を念頭に置いた専門的著作のスタイルー脚注の懇切丁寧なところが専門家むきーで書かれている。そして中間考察は、ウイトゲンシュタインの「言語ゲーム」というアイデアを、数学における「基礎の危機」を克服するために提示された「論理主義」、「直観主義」、「形式主義」の三つの立場の対立に関係づけた上で、佐々木氏の数学論の根幹にある考え方ー「基礎づけなしで懐疑主義を克服する多様なる数学の哲学」ーの基本的な方向性を確認したものであって、第一部と第二部とを媒介する役割をも持っている。

 本書でもっとも読みごたえのあるのは、「ユークリッド幾何学の起源」を「エレア派の哲学者」に求めるサボー・アルバートの学説を、彼以後に登場したギリシャ数学史研究の諸文献を精査したうえで、その問題性を明らかにし、サボー説の「改訂版」ともいうべきものを佐々木氏自身の言葉で提示している箇所であろう。

 ユークリッドの公理論的幾何学を、第一次的な文献に乏しいパルメニデスやゼノンのようなエレア派の哲学者にではなく、プラトンにはじまり、アリストテレスを経由してプロクロスに至るギリシャ哲学の基本的なテキスト群を綿密に読み解きつつ、ユークリッドの生きたヘレニズム時代に優勢であった「懐疑主義」との格闘の所産として考証する議論は非常に面白かった。とくにユークリッドとアリストテレスの数学論との関係を論じている箇所は一読に値する。

 佐々木氏はアリストテレスの分析論後書第一巻3章(72b5-18)における議論ー「無限遡行」「仮設」、「循環ないし相互依存」を主張する懐疑主義を論破するアリストテレスの議論を重視し、その三つの立場は現実にアカデーメイアで起こった論争を背景としたものであると推測したうえで、アリストテレスの弁証法的議論に、懐疑主義を克服するヒントを見出している。

 あらゆることに論証をもとめることが「無限遡行」に陥ること、暫定的な「仮設」をたてて論証する「仮設の道」は、その仮設の真理性を保証するものは何かが問題となること、前提と結論が循環してもかまわないという「循環論」は、無意味な悪循環とそうでない(生産的な)循環論(相互性)との区別が明瞭でないということ、要するに、「基礎づけにかんするトリレンマ」が、アリストテレスに於いて既に明晰に自覚されていたと考えた上で、アリストテレスの分析論後書の論証科学に対する考察がユークリッドに与えた影響を佐々木氏は強調している。

 アリストテレスとユークリッドの幾何学原論との関係については、私自身も、「アリストテレスの幾何学観」(『科学哲学』15巻、1982年)という論文で書いたことがある。私の論文は38年も昔に書いたものであるが、佐々木氏が存命ならば、そこで私が論じた問題について、是非とも意見を聞きたいところであった。

 佐々木氏の遺著には、多くの自伝的な回想が含まれている。たとえば、学生時代にトーマス・クーンの「科学革命の構造」に触発された佐々木氏は、プリンストン大学でそのクーンから直接に薫陶を受け、「歴史的な科学哲学」の研究プログラムを数学史に適用するというを着想を得た。そして、クーンから「数学に革命があることは間違いないが、数学の古い定理のすべてが保持されるのがどの程度なのか」という課題を与えられ、それに対する応答として書かれたものが、本書の最終章の「数学における革命とはどういうものか」である。このような回想記は、佐々木氏が数学史の研究を志す若い世代の研究者に向けて書いたものかもしれない。、佐々木氏が自分の仕事を生成の途上にある未完結のプロジェクトとして回想していることの意味もそこにあるのだろう。佐々木氏は「ユークリッド幾何学の真理価値は、ある意味でたしかに保持されるのであるが、全面的にではない。古代ギリシャのユークリッドの平行線公準をもつ幾何学は、ヒルベルトの1899年の『幾何学の基礎』の出版後には異なる意味を持つようになった」と述べた後で、クーンの考え方を今後も数学に適用し続けると宣言して、この著書の結びとしている。

 本書は、プラトン、アリストテレスにはじまり、古代懐疑主義との格闘として出現したユークリッドの幾何学原論、近代懐疑主義の克服として顕れたデカルトやパスカルの哲学的省察、ウイトゲンシュタインの言語ゲーム論によって開かれる「基礎づけなき数学」の豊穣なる多元性、ユークリッドの幾何学原論を絶対的規範とする保守的なオックスフォードの数学者チャールズ・R・ドジソンではなくて、『不思議の国のアリス」の著者、ルイス・キャロルのほうが現在では脚光を浴びていることに注目して書かれた序論など、それぞれ別個の読み物として読んでも面白い。しかし、全体を通して著者が伝えたかったことー数学というもっとも抽象的に見える学問も、「歴史内存在」としての人間の具体的な生活の場に他ならない時代的社会的背景の中で営まれていることを忘れるべきではないだろう。 


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