歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

般若心経をサンスクリット語で聴く

2009-04-09 |  宗教 Religion
[空性の智は悲となりぬ梵の歌]

 般若心経といえば、日本の寺院では宗派を問わず大切にしていて、誰でもどこかで玄奘の漢訳を日本式に音読みしたものを聴いたことがあるはずである。これは中国でもチベットでも重要視された大乗仏教の初期のテキストであり、原文はサンスクリット語。龍樹の時代にこのテキストがどのように読まれたのかは、おおいに興味があった。「経」はやはり「論」とはちがって読誦するものであろうから。
 しかし、過日、このサンスクリット語の般若心経の歌を聴くことが出来た。寺院での読誦ではなく、現代人の作曲による歌曲であったが、それでも、サンスクリット語の歌詞は伝承されたテキストにほぼ従っており、なかなか印象的であった。もっとも、最初の内は、それが女性のボーカルであったことに驚いたのであったが、もともと般若=プラジュニャーの「心」は、密教では人格化されて女性神として表象されるケースもあったから、或る意味では、女性のほう歌い手としては向いているのかも知れない。とくに最後のマントラの部分の歌唱は秀逸であると思った。この経の語手(歌手)は、このマントラの部分に関する限りは、玄奘訳の「観自在菩薩」であるよりも、羅汁訳の「観世音菩薩」のほうが相応しいような気もした。何故かと云えば、菩薩行というのは、他者を慈悲によって救済する「女性的」な働きであり、それは厳しい求道者であり、旧仏教の絶対否定を行った「観自在菩薩」の智慧の「男性的」働きと相補的な関係にあるものだからだ。 

 智慧と慈悲という大乗仏教の根幹が般若心経に含まれているわけだが、結果にとらわれぬ純一なる慈悲と実践行を導き出すものが、空の智慧である。それにしても、この経典の前半部分の絶対否定のラジカルなところは他に類を見ない。中村元訳によると

「シャーリプトラよ、この世において、全ての存在するものには実体が無いという特性がある。生じたということも無く、滅したということも無く、汚れたものでも無く、汚れを離れたものでも無く、減るということも、増すということも無い。それゆえに、シャーリプトラよ、実体が無いという立場においては、物質的現象も無く、感覚も無く、表象も無く、意志も無く、知識も無い。眼も無く、耳も無く、鼻も無く、舌も無く、身体も無く、心も無く、形も無く、声も無く、香も無く、味も無く、触れられる対象も無く、心の対象も無い。眼の領域から意識の領域に到るまで悉く無いのである。(覚りも無ければ)迷いも無く、(覚りの無くなることも無ければ)迷いが無くなることもない。こうして、ついに、老いも死も無く、老いと死がなくなることも無いということに到るのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道も無い。知ることも無く、得るところも無い。」

 これは、龍樹の「中論」と同じく、存在論となった既成仏教(説一切有部)のイデオロギーに対する絶対否定である。西欧哲学が、Onto-theology (存在-神学)の批判ないし脱構築をはじめたのは20世紀以降であるが、大乗仏教は、いうなれば Onto-buddology の批判を2000年前に遂行していたのである。

上の引用文の最後の所は、そこだけを取り出せば、苦集滅道という初期仏教の教えを破壊する者とも捉えられよう。実際に、空や無を唱える仏教徒は、当時の正統派からは、ニヒリストとして批判されたことが、龍樹の書いた論書のそこここに伺われるのである。

 説一切有部の教えは、倶舎論などを読む限り、小乗などと侮ることの出来ない緻密な体系化の試みである。おおよそ言語を以て何事かを説明するためには、なんらかの形で「存在を保つ者」すなわちダルマを立てることが必要である。言語はそのようなダルマを名指すことによって理解しうるものとなるーこれがおそらくは説一切有部の論者が暗黙のうちに前提していた考え方であろう。説くことのできる一切は、「有」としての法=ダルマなのである。

こう考えるならば、説一切有部のダルマ理解が、「三世実有法体恒有(三世(過去・未来・現在)を通じて実在する法の本質は永遠である)」と要約されるのも頷ける。とくに「法体」というところはプラトンのいう永遠的なる存在である「イデア」の考えと通じるところがあるということは多くの西欧の仏教学者によって既に指摘されている。そうすれば、龍樹の批判は、イデア説の批判とも重なる論点を持つであろう。

 もっとも、プラトンのイデアに該当するものは、厳密に言えば、有部の「無為法」であろうし、これに対して、同じく「法」と呼ばれていても、諸行無常によって特徴づけられる「有為法」は、英国経験論で云う諸々の観念(ideas)、すなわち感覚器官によって与えられる原子的なセンスデータおよび反省の観念に対応するだろう。このほかに、実践的な善悪によって価値づけられた「善法」と「不善法」、煩悩にまとわれた「有漏法」と煩悩からの解脱とそのために資する「無漏法」という仏教独自の価値論的な「法」もあるが、とにかく一切の「法」の本質なるものがあり、その本質は永遠であるというところがプラトン的なのである。

 そうしてみると、このようなプラトニズム批判を「空」の場において、実践的かつ直観的に遂行したものが般若心経に要約される初期大乗の立場であり、それをいうなれば絶対否定の「論理の道」によって示したものが「中論」であるということができるだろう。

 中村元によれば、色と空の関係は、玄奘訳では二段に説かれているが、サンスクリット・テキストでは三段に分けて説かれているとのこと。中インド、マガタ国の沙門、法月(Dharma-candra)訳では、「色性是空空性是色。色不異空空不異色。色即是空空即是色。」とあり、唐の沙門智慧輪訳では「色空空性是色。色不異空空不異色。是色即空是空即色」とあるとのことであった。ここは三段に説く方が内容的に興味深い。そのほうが、龍樹「中論」の漢訳「縁起即空、即仮、即中」に依拠した天台智の空・仮・中の三諦説とも繋がりが出てくる。つまり、第一段は「法空」、第二段は「法仮」そして第三段こそが「法中」という「中論」の積極的主張ー帰謬法によって示された破邪即顕正の中道-なのである。この「法中」の立場こそ、法蔵の『心経略疏』にある「色即是空と見て、大智を成じて生死に住せず、空即是色と見て、大悲を成じて涅槃に住せず。」という考えに通ずるものであろう。

 また「行深般若波羅蜜多時」=「智慧の完成を実践していたときに」はサンスクリット語からの直訳では「智慧の完成において行を行じつつあったそのときに」という意味になることも興味をそそられた。道元禅師の「仏法には修證これ一等なり。いまも證上の修なるゆゑに,初心の辧道すなはち本證の全體なり〔正法眼蔵(辧道話)〕を想起したのは私だけであろうか。
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