歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

原子力の「平和利用」と開発途上国への原発輸出

2013-01-02 | 国際学会 8th IWC-Ecosophia 2011

以下は、2011年5月に旧ブログにかいた記事であるが、日本の企業が原発先進国と結託して、原子炉を開発途上国へ販売する危険性が現実化した現在に於いて、再掲することととした。 

原子力の平和利用は、アイゼンハワー大統領の国連総会での演説、Atoms for Peace に始まるというのが通説になっている。たしかに、ソビエト連邦が核武装し、核兵器の開発競争によって人類が、はじめて自己自身を絶滅させる可能性に直面した事実の重さが、この演説の背景にあった。この演説によって、第二次世界大戦の戦勝国、とくに英米仏を中心として、原子力の平和利用を目指す国際原子力機関IAEAが1957年に設立された。IAEAは福島原発以降一般の日本人にもおなじみとなったが、元来は、核の軍事利用を制限し、核査察を行うことを使命としている国際組織である。

日本では、中曽根康弘が音頭をとって原子力三法を成立させ、原子力を未来のエネルギーとして、資源を持たぬ日本の国策として原子力発電所の建設を推進させることとなったが、それもこの演説をきっかけとしてのことであった。

「平和のための原子力」という観念は、当時は多くの人を引きつけ、国立大学には原子力工学科が新設され、多くの優秀な学生が原子力を専攻したものであった。

しかしながら、現代に於いて焦眉の問は、そもそも原子力の「平和利用」なるものが可能であったのか、ということである。それは未来のエネルギー資源を確保するなどと言う楽観的な科学万能主義では片付かない深刻な問題を提起している。そもそも原子力エネルギーの「平和利用」はありえず、「平時利用」が原発で「戦時利用」が原爆ではないか、という疑念を払拭することがどうしても出来ないのである。原発は原爆と密接に結びついていたのであり、平和のために開発されたわけではない。そして、原子力の平和利用の筆頭に掲げられた原子力発電所が、それが建設された場所に住む住民からみれば、いつ核汚染に晒されるかも分からぬという意味で、「平和」の対極に位置している。

原発は平和のための道具ではなく、戦争のための道具であり、平時に於いては住民の「不安」の源であることを明記すべきであろう。原発推進派、あるいは原発維持派は次の諸点を考慮して貰いたいものだ。

(1)原子炉は長崎原爆を開発するために製造されたのが始まりであり、一国が原子力プラントを有つということは、その国に原爆を製造する技術が完成していることを意味している。北朝鮮の核査察が大問題となったが、事の発端は、北朝鮮が原子炉を使って少量のプルトニウムを製造したことであった。イスラエルが中東戦争の時に、アラブ側の製造中の原子炉を破壊したことも記憶に新しい。

(2)原子炉は高レベルの放射性廃物を大量に産み出すが、その処分に関する有効な方策もなければ、処分場の場所も確保されているとは言いがたい。とくにプルトニウムのように半減期の長大なものを大量に産み出す原発の廃物処分は、我々の子孫に巨大な負の遺産を残す。

(3)ウランの資源は有限であり、エネルギー換算しても、石炭や石油には遙かに及ばない希少資源である。ウラン238をプルトニウムに核変換して再利用する核燃料リサイクルの計画、とくに高速増殖炉の建設は現在では日本だけが膨大な経費をかけて研究したものの、ナトリウムを冷却剤として使うことに伴う技術上の難問が解決せず、挫折してしまった。MOX燃料によるリサイクルは経済的には外貨の無駄遣いであり、ウラン燃料の枯渇を僅かに先延ばしにするに過ぎぬ程度のリサイクルに過ぎない。そして、廃物として処理すべきプルトニウムの危険性は言うまでもない。

(3)原発のコストは、安全基準の高まりに伴う建設費の高騰、廃炉にかかる期間の長大さ、事故時の補償の天文学的な数字を考慮すれば、とんでもない高額なものとなり,経済的に採算がとれなくなる。

(4)原発が炭酸ガスを出さぬが故に、環境問題に寄与するという説は、たちの悪い神話である。放射性廃棄物の危険性は、温暖化ガスの排出などとは比較にならぬ。また,原発による発電には、ウランの採掘、精錬、濃縮、使用済み燃料の再処理などに膨大な化石エネルギーを使うのであるから、その過程で温室効果ガスを排出する。また発電時に於てさえ、一級河川の流量に匹敵する温排水を大量に海に流すわけであり、海の生態系をみだすと同時に、海水を暖めることによって直接に、そして海から二酸化炭素を放出させることによって間接的に、地球の温暖化に寄与しているのである。

このように、経済的にも割が合わず、我々の子孫に負の遺産のみを残す原発をなぜ廃止しないのであろうか。そこには、「核という幻想」への執着がある。1960年代に動き始めた「国策」の罠にはまった日本人の共同幻想にほかならぬ原発神話からの一刻も早い離脱を求める所以である。

脱原発の道のりは長いが、我々は福島原発の事故の終息にむけての技術的解決を段階的に実施するのと同じように、反原発の原則を明確にしたうえで、原子力エネルギーに関する国策を転換すべきである。転換に失敗すれば、そのつけは原発建設を許容した我々だけでなく、子々孫々の生命を損なう環境汚染を引き起こすであろう。そして、脱原発は日本だけでなく、世界全体に及ぼさねばならない、特に、先進国は、開発途上国に原発プラントのようなものを輸出することをやめなければならない。それは核拡散を容認することであり、非核三原則をかかげる日本の外交の基本に矛盾する行為である。

非核三原則を掲げながら、米国の「核の傘」にはいっていたのが戦後の日本であったが、今後は、開発途上国に原発を売り込もうとしている英米仏などの「先進国=環境後退国」の「原発の傘=下請け国」に入ることによって日本の原子力産業は延命をはかるかもしれない。そのようなエコノミック・アニマルになることは、先進国では建設できない原発を途上国に売りつけて利益を計ろうとする点において、環境正義に悖る行為であることはもちろんであるが、それとともに広島と長崎の、そしてチェルノブイリ福島の被爆者に対する裏切り行為である。我々は過去の世代に対しても未来の世代に対しても責任を負うものである。

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「もんじゅ」と「大間原発」の危険性

2013-01-02 | 日誌 Diary

山脇先生の紹介された「デイリー東北紙」のサイトは、「大間原発」の再開か工事中止か、核燃料サイクル政策の撤回か続行か、という日本の原子力政策にとって根本的な選択を考える上で、是非とも参照すべき現地の貴重な資料を纏めている。「大間原発」をこれから建設し稼働させることは、単に電力不足を当面補うという如き消極的な意味だけを有つのではない。それは、原爆製造に直結するプルトニウムをウランと混合して燃料として使用する「新原子炉」を認可し、稼働させるという電力会社・経産省・自民党政権の意思表明である。小選挙区のからくりによって圧勝した自民党であるが、原発政策については大多数の国民の意思とは異なる方向に動いている。

原子力発電維持派ないし推進派は、この原子炉建設によって、高速増殖炉「もんじゅ」の致命的な事故によって挫折中の核燃料サイクル政策の継続を狙っている。すでに北朝鮮の千倍以上のプルトニウムの備蓄をしている日本が、それを民生用に使用していなければ、核拡散防止条約に加盟している手前、日本の核武装疑惑をそらすことができないからである。論者によっては、プルトニウムをこのように多量に所有していること自体が潜在的な核抑止力になるという主張をする者さえもいる。彼らは、「エネルギーの安定確保」だけでなく「国防上の配慮」をその論拠の一つに置いているからである。もっとも、現在の日本のように、数多くの原子炉を一箇所に集中させて立地させていることが国防上いかに危険かという議論は、推進派の面々は無視しているようだ。原子炉が一箇所に集中している場所にテロやミサイルによる攻撃をされたならば、日本の受けるその被害は計り知れないだろう。

国防上のみならず、地震の多発する地域、活断層の近い場所に「もんじゅ」のような高速増殖炉を建設したということ自体の危険性ははかりしれない。金属ナトリウム冷却剤としてつかう高速増殖炉は、水とナトリウムを分離しておかなければ爆発事故を起こしやすい。まして地震や津波に遭った場合に、その災害に対してどうやって対応するつもりなのか。その危険性は福島の比ではない。またプルトニウムを混合燃料として使う「大間原発」の周辺にも活断層のある疑いが濃厚であり、この発電所の工事再開そのものに問題があることは、原子力規制委員会の指摘の通りである。

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