歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

WEB出版目録

2005-02-24 | 日誌 Diary
1996年12月に桃李歌壇を開設してから満8年が経過しました。詩・和歌・連歌・俳諧のHPとして始めましたが、現在では、毎月俳句の句会もおこなっっています。句会桃李の登録会員は2005年1月現在で126名です。数多くの作品が寄せられましたので、それを編集してPDFファイルに纏めました。

連歌作品集

和歌連作作品集

句会桃李披講の部屋

桃李俳句集(PDF)

2004年度6月より、村井澄枝さんと共に「東條耿一作品集」のWEB出版を開始しました。

東條耿一詩集(第一版)(PDF)

種まく人達:東條耿一の手記(1941)(PDF)

東條耿一詩集朗読会の記録(2004年9月)(PDF)


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プロセスの詩学ー座の文藝に関する考察  1

2005-02-24 | 美学 Aesthetics
プロセスの詩学ー座の文藝に関する考察



連歌の附合においては、一句一句が独自性・独創性をもちつつ他の句と調和し響き合うことが求められる。連歌の創作と鑑賞を通じて、我々は、個我の内面に閉ざされた近代文芸の自己意識を越える「無私」の場の開放性を経験し、そこにおいて日本の伝統的な和歌の心にふれ、「作られたものから作るものへ」と相互主体的に動きゆく創造活動のただなかにおいてあらたに伝統に生かされた自己を見いだすのである。
(朝日新聞文芸欄「うたの出会い」より)

一 相互主体性の場とプロセス

「我々の自己の自覺と云ふのは、單に閉ぢられた自己自身の内に於て起るのではない。自覺は自己が自己を越えて他に對することによってのみ起るのである。我々が自覺すると云ふ時、自己は既に自己を越えて居るのである」
(西田幾多郎「場所的論理と宗教的世界観」より)

自覚にとって「他者に対する」ことは必要不可欠である。場所的自覚―相互主体的な場における「自覚」―は本来的に関係的性格を持っている。それは近代人の個の内面に閉ざされた「自己意識」としての「自覚」から、「私と汝」という場への開けをもつ場所的「自覚」へという後期西田哲学の発展の相を示すものでもある。このような相互主体的な場に開かれた「場所的自覚」の実例として、俳諧(俳句と連句)の座というもののもつ性格を捉え、そこから「場所の詩学」なるものを考察する手がかりとしたい。

二 俳句の座―句会

(1) 桑原武夫の第二藝術論再考

桑原の主張:

「近代芸術ならば、その作品は作者の個性が明確に刻印されていなければならない。しかるに俳句の場合、作者を伏せて、一句だけを孤立して鑑賞させるならば、そこには作者の個性を認めがたい。したがって、そのような没個性的な作品の生まれるジャンルを近代藝術と呼ぶことはできない。古典的な俳諧の発句とは違って、現代俳句の場合、作者名を伏せて、五七五の一句のみを単独で取り出した場合は、どれが優れた作品であるかを判定するのは困難である。」
このことを証明するために、桑原は、英国の文学者リチャーズに倣ったという實驗を試みた。彼は、大家といわれているプロの俳人の句と素人の句を集めて句集を作成し、作者名を伏せて、多数の人に評価させたのである。結果は、とくにプロと素人の間に顕著な差は認められないということであった。このことを以て、桑原は俳句を藝術と呼ぶことを拒否し、一種の芸事ないし習い事として、第二藝術という名前を冠したのである。

桑原が見落としたこと:

桑原がリチャーズにならって行った文藝上の實驗は、じつは俳句結社では、子規以来「句会」としてすでに行われていた。したがって、彼の文学的實驗は、俳人にとっては全く目新しいものではなかった。それは、明治の初期に、俳句を月並俳句の宗匠の権威から解放し、参加者が平等の資格で互選する句会形式を創始した子規とその後継者のやりかたによってすでに先取りされていたのである。桑原は、俳句の制作が句会という相互主体的な場を不可欠の契機としていることを見落としていた。

(2)句会とは何か

俳句の制作は句会を抜きにしては考えられない。すでに江戸時代に於いて、発句のみを詠みあうことが行われていたが、明治以後は、俳諧の座を受け継ぐ形で句会が普及した。ここでいう句会とは投句、選句、披講という三段階を持つ相互主体的な俳句制作の場を意味する。

投句:それぞれの作者が他者(連衆)のまえに自作を匿名で発表する。
選句:句会の参加者の投じた匿名の作品の一覧を作成し、作者と作品を切り離した上で、他者の作品を各人が選び、優劣をつけ、それを批評する。句会の参加者は、作者であると同時に選者であり、その点においては、宗匠も新参者も対等の資格で参加する。
披講:選句された句の作者名を公開する。場合によっては、作者自身の解題が付け加わることもある。

句会には点を競い合うゲームの側面もあるが、それよりも、俳句の制作における相互主体性の場を提供していることに注意したい。つまり、句会においては、作者は一度姿を消して、作品として連衆の前に登場する。 連衆は、その作品を各人の批評の基準に照らして評価する。その基準は参加者一人一人によって異なっているのが普通であるが、句会の参加者の個性は、各人がいかなる句を投じたかということだけでなく、いかなる句を選んだか、ということによって、明らかになるのが普通である。それゆえに、継続して句会に参加し、相互主体的な交わりを続けていくうちに、俳句作者は、相互の批評に晒されつつ、自己の制作者としての「自覚」を深めることができるのである。いいかえれば、俳句作者の個性は、他者による批評の荒波をくぐったあとで確立されるのであって、宗匠も新参者も差別しない平等無差別なる場に、ひとたび立った後で、自己を確立するといってよかろう。

桑原の議論は、俳句の中には近代芸術の概念では説明しがたい部分があることを示しているが、そのことは俳句が特殊な日本的藝術のジャンルであるということを意味するのであろうか。
季語と切れ字を持つ定型短詩として俳句を捉えるならば、それが日本に固有のものであるという意見が出るのは当然であろう。しかし、このような見解は、俳句が日本という国境を越えて現在では地球上の多くの人に享受されているという事態を適切に説明することができない。現在では、俳句はHaikuとして国際化した文藝ジャンルとして認められており、俳句とは何かという問題には国境を越えた広がりがある。俳句には日本語と日本の風土に限局された特殊性だけでなく、詩の本質に通底する普遍性もまた秘められているからであろう。文藝作品に於いては、特殊に徹することが普遍に通じる道でもある。日本の風土に立脚し日本語という特殊性の中で生まれた俳句や連句のような座の文藝に内在する普遍性を次に問題としたい。

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プロセスの詩学ー座の文藝に関する考察  2

2005-02-24 | 美学 Aesthetics
三 現代詩と俳諧的なるもの― Impersonalityの詩論

 もし、詩が作者の個性に根ざす物であり、制作(ポイエーシス)が、個の内面にあるものを外化するという意味での表現であるとするならば、個性は作品として制作される以前に既に存在するということになろう。詩を読解するということは、外からは窺い知れぬ作者の内的な生を読者が感情移入によって理解するということになろう。

ところが、藝術作品の表現は、そのように個の内面から外面への表現と言う方向性ではなく、西田幾多郎がそうしたように「(表現的)一般者の自己限定 即 個と個の相互限定」という方向から見ることができる。俳諧や連歌のような座の文藝に於いては、個の閉ざされた内面を表現することではなく、言葉による制作の働きを相互主体的な場で遂行すること、「作られたものから作るものへ」と創造活動が展開することによって、一巻の作品が巻き上げられる。

藝術作品の制作を作者の個性の表現と見る見方を真っ向から否定した詩論として、T・S エリオットの「伝統と個人の才能」がある。

「詩は情緒の解放ではなくて情緒からの脱却であり、個性の表現ではなく個人性からの脱却である。 当然のことであるが、個性と情緒を持っている人だけが、個人性と情緒から脱却するとはどういう意味か分かるだろう」(「伝統と個人の才能」)

彼は、詩人の役割を科学者になぞらえて「藝術が科學の状態に近づくということは、この個性滅却の過程でいわれるのだ。そこで、私は細くひきのばした白金の一片を酸素と無水亜硫酸のはいった容器にいれるときに起きる反応を考えて貰いたい。この類推によって示唆が得られるだろう」とまで謂っているが、ここには若干の誤解があるように思う。藝術家の「個性滅却」というのは、藝術が科學の状態に近づくということではないであろう。科學は最初から科学者の個性とは関係がないという意味で、「没個性」的であって、そこでは、「感受の主体」は問題にならない。しかし、藝術作品の制作と鑑賞においては、まさしく、作者や鑑賞者の「主体性」が問題となる。
客体の持つ通約可能な「類的普遍性」ではなく、客体的な類種の違いを越えた「主体的な普遍性」こそが、藝術作品の持ちうる普遍性である。藝術作品の批評においては科学者がやるような第三者(傍観者)的な藝術作品への関わりはありえない。

それでは、「個性滅却」の詩論が意味するところは何であるのか。おそらく、それは次のようなエリオットの文に真意を求めるべきであろう。

「芸術家の進歩というのは絶えず自己を犠牲にしていくこと、絶えず自己を滅却していくことにある」

つまり、「非個性的である」ないし「没個性的である」という静的な状態ではなく、自己を犠牲にしていくこと、個性を滅却していくこと、その動的なプロセスが問題である。 

エリオットの言うImpersonality の詩論というのは、より内容に即して考えるならば、「人格とか個人とかいうものは、経験に先立つ実体ではない」という立場から為される詩論である。彼は、もともと哲学専攻で、博士論文のテーマは、英国の形而上学者フランシス・ブラドレーに関する研究であった。ブラドレーの哲学は、主客未分の「今此処における直接経験、純粋な感情(feeling)」からはじめて、絶対者(Absolute)に至るという点に特色がある。すなわち「個人よりも経験が先行する」ということ―これがポイントである。個性は経験することによって形成される、だから、そこでつくられた個性は、つねにそれを越えるものに接することによって自己を越えていくものだ、という意味である。詩作も又、他の一切の経験と同じく、直接経験からスタートするのであるが、そこでいう直接経験というのは経験する主体がまず先に(実体として)存在して、それが外界を直に経験するという意味ではなく、通常、我々が、人格なり個性を持った個体として考えているものが、そこにおいては解体されるようなレベル(主客未分の経験)を意味する。だからこの経験を表すのにブラドレーは、感情(feeling)という言葉を使った。この文脈では「感情」 は「物」と化した個人の経験の殻を突き破る働きをする。したがって、エリオットの言わんとするところを「没個性(impersonality)」の詩論というだけでは十分とはいえないであろう。詩の制作に於いて個は否定されることに於いて肯定されるという逆対応的な側面があるからである。すなわち、ひとたび個が滅却された表現的一般者の場においてこそ、掛け替えのない「個」が獲得され、表現されることを伴うものでなければならない。

彼の後年の作品「四重奏」に、

In order to arrive there,    
To arrive where you are, to get from where you are not,
you must go by a way wherein there is no ecstasy.
In order to arrive at what you do not know
you must go by a way which is the way of ignorance.
In order to possess what you do not possess
you must go by the way of dispossession.
In order to arrive at what you are not
you must go through the way in which you are not.


(訳)
君がいない場所から、君がいる場所に達するためには
自己陶酔なき道を行かねばならぬ
君の知らぬものに達するためには
無知の道という道を行かねばならぬ
君の持たぬものを持つためには
無所得の道を行かねばならぬ
君でないものに達するためには
君のいない道を通って行かねばならぬ

というくだりがある。エリオットは仏教徒でもなければヒンズー教徒でもなく、あくまでもキリスト者の詩人であるが、これらの詩句には、そういう宗教上の差別を越えて訴えかけるものがある。 それと同時に、「無知」「無所得」の道を歩み通すことを指示するかれの詩作品自体のほうが、個性滅却の詩論のむかうべき方向性を示しているのではないか。

俳句が日本以外の文学に影響を与えた事例として、二〇世紀の英米の詩人たち、とくにイマジズムの詩人のケースがある。エリオットが第一次大戦後に発表した詩「荒地」を制作するに際して、詩人としてアドバイスを与え、原案を添削したエズラ・パウンドは、「イマジズム」の詩人として知られているが、彼の詩論に日本の俳句が大いに影響したことは文学史上の興味ある事実である。イマジズムの詩の作法というのは

(1)瞬間のうちに知的・情緒的な複合体を提示する
(2)余計な説明をせずに、具体的な「事物」それ自体を明確に表現する。
(3)メトロノームのような因習的な韻律を排し、内容に即した自由な韻律で詠む。

の三つであるが、これは英国では、自由詩の運動の延長線上にあった。
説明抜きに二つのイメージを配合する無韻の短詩は、当時の人にとっては、非常に前衛的な「詩の作法」であった。パウンドにとって

The fallen blossom flies back to its branch:A butterfly.
(落花枝にかへるとみれば胡蝶かな)

という守武の句は天啓のようなものであったという。落花という「死のイメージ」と、上に向かって翻る胡蝶の「生のイメージ」の即物的な取り合わせが、イマジズムの詩法の原点となったのである。

俳句は日本では伝統的な定型詩のひとつであるが、それはイマジストの詩人たちには「前衛的な自由詩の作法」として受容されたことに注意したい。もともと俳諧は連歌という第一藝術の余技として生まれたものであったが、連歌とはちがって自由でとらわれない革新性をもっていたから、それはある意味で「自由詩」という性格を持っていた。その俳諧の自由な精神が二〇世紀の英米の前衛的な詩の手法と結びついたのである。 

四 連歌における相互主体性

俳句とは元来は俳諧の発句である。そして俳諧を純正連歌にならぶ第一藝術としたのは芭蕉であり、或る意味で、彼は連歌の伝統と俳諧の革新性を統合した人物である。したがって、俳句の起源もまた、連歌まで遡らせることができるであろう。(連歌と俳諧を合わせて連句と呼ぶのは明治以後である)

連歌の正式の形態である百韻は四楽章形式の交響曲になぞらえることができる。連歌の素材は俳句よりも広く、四季折々の花鳥諷詠のみならず、世態人情、恋、述懐、羈旅、藝能、神祇釈教など、およそ詩歌の扱いうるすべてにわたっている。百韻の中にそれらを万華鏡のように詠み込むことが必要である。しかしながら、それらを詠むにあたって、一定の秩序と調和が必要になるので、それを句数と去嫌の式目によって定められる。この連歌式目には日本人の伝統的な美意識が内在するコスモロジーとして興味深い点が多々あるが、それはあくまでも複数の作者が交互にそれぞれが主となり客となって句を詠みあうときの秩序を規制するもので、式目それ自身は良き連歌を制作するための必要条件であるに過ぎない。重要なことは、それぞれの句の間に存する「附合」の美学である。

  連歌の美的理想をもっとも体系的に述べたのは中世の芭蕉とも呼ばれる心敬である。彼の主著、『ささめごと』は、多くの点に於いて蕉風俳諧を先取りする議論がなされている。とくに

   親句は教、疎句は禅、親句は有相、疎句は無相、親句は不了義、疎句は了義経。

というごとく、仏教哲学の用語を以て連歌の理念を述べている点に特色がある。

心敬の歌論では、「疎句附け」が連歌の醍醐味とされている。それは、禅問答に典型的に表されるような独特の対話的精神の発露であり、連歌の附合の呼吸を表現するものであった。
 親句とは、客人の挨拶として投ぜられた発句に答える主人の脇のように、前句の内容に即して、それを補足しうち添える句を指す。これに対して、疎句とは、連歌の前句と付句との間に「切れ」(非連続性)があり、二つの句が独立自存しながらも深いレベルで響き合うことを意味している。連歌において即興性が重要であることは言うまでもないが、付句が前句に寄りかかり、意味の上で論理的につながるのではなく、また、「寄合」とよばれた語句の連想に頼るのではなく、その都度の作者によって見いだされた新しい世界を古い世界に対比させることを意味する。古い世界の繰り返しにとどまる付句は「付きすぎ」といって退けられる。そして、このような疎句付けを重んじる連歌の作法が、俳諧において芭蕉に受け継がれているのである。

芭蕉の俳諧における重要な特質の一つは、その附合が従来の附物・心附にとどまらず、いわゆる匂附を根本としたところにある。一句の独立性と二句の連関性とは矛盾する要求であるが、この矛盾を創作の原理に転じたところに連歌の疎句付けの妙味があった。

  「附心は薄月夜に梅の匂へるがごとくあるべし」
という芭蕉の言葉がある。彼によると
   「秋よりのちの朝顔のいろ」(短句)
にたいして、

「例ならぬ身はすさまじき乱れ髪」(長句)

と続ける「附心」が、匂づけである。(俳諧芭蕉談)

  まず、「季節遅れの朝顔の花」の余情を尋ねる。その情は、いつか時を過ぎてなお微かに色香をたもっている女性の姿を彷彿とさせる。この余情を形に表して、「例ならぬ身はすさまじき乱れ髪」と続ける。つまり、「朝顔のいろ」は純然たる叙景であるが、それがある人物の姿となって現れる。これは、「風姿」→「風情」への転調と言って良いだろう。朝顔が前句にあるからといって、朝顔にゆかりのある「物」で付けたのでは「物付け」となり、情趣に乏しい。前句の余情に付けるから「匂づけ」であるが、「匂」は、その物ではなく、その「物の影」である。

ところで、「物の影」に付けるのではなくて、これが「物語」の影につける場合は、「面影(俤)づけ」といわれる。芭蕉の俳諧の場合、中国と日本の詩歌の古典―源氏物語、李白・杜甫、白楽天などの漢詩など―が、やはり下敷きになっている。そして、それらが、同時代の生きた俳諧の言葉で語られている。「面影づけ」のばあい、その句は背景を為している古典を知らない人が読んでも、情趣のあるものであることが要求される。つまり、引用であることを知らなければ理解できない句はあまり洗練されていない付け方である。
「冬の日」の「木枯らし」の巻から事例をひくと

     二の尼に近衛の花のさかり聞く   野水
       蝶はむぐらにとばかり鼻かむ  芭蕉
     乗り物に簾すく顔おぼろなる    重五

などは源氏物語の「匂い」につけた面影づけ。この歌仙のフィナーレは
   
     綾ひとへ居湯に志賀の花漉して    杜国  (花の定座)       
       廊下は藤の影つたふなり     重五  (挙句)

であるが、杜国の句は、謡曲「志賀」の「雪ならば幾度袖をはらはまし花の吹雪の志賀の山越」
の歌枕を詠み、絹ごしの湯に散りこむ花片のイメージで「匂の花」を表現したものである。
これらの古典の世界はあくまでも俳諧が成立する場において共有された記憶であり、作品の「地」となるものであるが、それらが、ひとつひとつの句に限りなき陰翳を与えている。 匂附も面影附もその意味で誠の俳諧の独自の美学を形作る。

五 座の文藝における創造性―オリジナリティの尊重

俳句や連歌は、個性滅却という求道的な自己否定のプロセスを経て獲得される詩であるが、そのように一度否定された個性は、歌の制作の場においては、創造的な個として再び肯定される。そのことは、作品の制作の現場におけるオリジナリティの尊重というかたちで現れる。
古くは和歌の時代から、「個の創造性」ないし「創造的な個」を尊重するという考え方が厳然として存在した。近代以降の著作権とは異なるが、模倣を誡め、つねにオリジナルなものを制作することを尊ぶ気風があった。すなわち、作品は決して私物化されず公共的な場で制作されるが、個々の作品のもつオリジナリティは尊重されたのである。

新古今の時代には、「主あることば」または「制詞」ということが云われていた。これは、すでに誰かが使った表現は、二度と繰り返して使ってはならないという作家の心得のようなもので、秀歌を詠んだ原作者のオリジナリティを尊重せよという主旨であった。 古くは、定家の「近代秀歌」に 「年の内に春は来にけり」「そでひちてむすびし水」 「つきやあらぬはるやむかしの」
などの句は、たとえ本歌取りの歌であっても、使ってはならぬという家伝があったとの記述がある。この考え方が、定家の嫡男、為家の「詠歌一体」 のなかで、「主ある詞」を使ってはならぬという「制詞」として明示されている。

連歌や俳諧において等類の句を避けるのは和歌以上に難しいように見える。というのは、連歌俳諧は、一個人の作品ではなく、座において成立する作品であるから、座の参加者は、他者と共有する世界を確認しつつ、連歌の世界に和歌と通底する連想の広がりを与えるために本歌取りの誘惑に常に晒されるからである。 宗祇が古今伝授をうけた古典学者であったことからもわかるように、室町時代に活躍した連歌師は、古今集、新古今集、源氏物語の織りなす世界に通暁していた。したがって、彼らの作品は、そういう古典的世界からの本歌取りになっている事が多い。 しかしながら、そういう状況に飽きたらず、連歌に和歌と同等の厳しいオリジナリティを求めた歌人がいたことに注意したい。

二条良基は、連歌を即興的な「当座の慰みもの」から離脱させ、古典的な和歌に匹敵する新しいジャンルとして確立させたが、彼はまさに、連歌においても等類の句は避けるべきであると強調している。 彼は、「九州問答」という歌論書において

歌の同類を連歌に仕り候ふこと、周阿(同時代の連歌師)なども常に候ひしと覚え候ふ。仮令、周阿が句に

  我に憂き人ぞ水上涙川

是は主(周阿のこと)も自賛し候ひし。

と、当時評判であり、また作者自身が自賛していた句について、 この句が古今集からの借り物であるがゆえに、さほどの評価に値しない、と言っている。 つまり、周阿の句は古今和歌集恋歌一の

     涙川なにみなかみを尋ねけむ物思ふ時のわが身なりけり

の本歌取りであり、「古歌同物」にちかく、「新しき風情」ありとは認められない、という。つまり良基は、安直な本歌取りを 「真実道を執せん人好み用ゐるべからず」 と戒め、 「歌にも連歌にもいまだなからん風情こそ大切に侍れ」と結んでいる。

芭蕉の門下では、一般に「等類の句」「同巣の句」は、 避けるべきことが言われる。

イ.樫の木の花にかまはぬ姿かな    芭蕉
ロ.桐の木の風にかまはぬ落葉かな   凡兆

「去来抄」によると、其角はロがイの「等類の句」であると非難したとのこと。
これに対して、凡兆は、言葉遣いは似ているけれども、句の意味内容が全然違うから「等類の句」ではないと反論した。去来の考えでは、句の主題は全然違うけれども、言葉遣いが類似しているのでロはイの「同巣の句」であると評した。 つまり

「等類の句」=同じ趣向、おなじ内容の句
「同巣の句」=同じ言葉遣いの句

である。去来によると、「同巣の句」を作るのは容易安直すぎるのが問題である。 「同巣の句」を詠んだとしても、それは詠み手にとって、すこしも「手柄にはならぬ」と云う。このように蕉門では、「等類の句」や「同巣の句」は、原則として避けるべきであるが、場合によっては、もとの句よりも優れた「等類の句」や、もとの句にない新しい内容を感じさせる「同巣の句」が出きる場合がある――そういうときに限って、例外的に許容された。

 芭蕉自身は、たとえ自分自身の作品であっても、過去の作例と「等類」あるいは「同巣」の句を作ることを極力避けようとしたことが良く知られている。「清滝や浪にちりなき夏の月」 という辞世の句が「白菊の目にたててみる塵もなし」と「等類」の句となるがゆえにこれを案じ変えて 「清滝や波に散り込む青松葉」としたことなど、 「去来抄」にある通りである。

芭蕉の「俳諧の誠」は、過去を乗り越える 「あたらしみ」が生命であるので、自分自身の過去ですら 模倣を許さないのである。

更に芭蕉が、自らの辞世の句が過去の自作と「等類の句」 となることを嫌った理由として、「誠の俳諧」をたしなむものに固有の美意識があったことがあげられる。誠の俳諧は連歌とおなじく、一巻の中に類似した発想が繰り返されることを「輪廻」や「観音開き」と言って最も嫌う。同じ趣向の反復は輪廻から解脱すべき自由なる精神にふさわしくないのである。その自由は過去からの自由であり、つねに「新しみ」をもとめて未来に賭ける創造者の自由であった。

「此みちに古人なし」「我はただ来者を恐る」(三冊子)という芭蕉の言葉はかかる意味に理解されるべきであろう。
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自然ということ 1

2005-02-24 | 美学 Aesthetics

 
或る短歌結社の歌会に出た作品を一つ引用しよう。 

   頑張れと口にはしないが頑張れという話はするカウンセラー

この歌について感想を求められたので、私は、次のようなコメントを書いた。

  挫折し心理的に落ち込んでいる人間に「頑張れ」と言うことは、全く励ましにならぬ場合がある。そういうことはカウンセラーは熟知しているのであろうが、結局の所、カウンセラーの話も「頑張れ」ということを間接的に言っているだけだったということに気付いて、作者は何とも救われない気持ちになった――こういうのが歌の主意であろう。「頑張れ」という言葉が空転し、すこしも生きてこない状況というのは確かにある。そういう言葉が、意気消沈し気力を失った人の魂に届かないこと、あるいは、その人自身のためではなくて、誰かよその人間ないし組織のために、その人を叱咤激励しているに過ぎないことに起因するのであろう。一体どういう言葉が、空転せずに、人を救うことができるのであろうか。そこで、短歌ではなく俳句であるが

     頑張るわなんて言うなよ草の花  坪内稔典

という作品を例にとって考えてみたい。実は、かなり以前のことではあるが、この句によって勇気づけられ「救われた」という感想を寄せられた女性のことを思いだしたからである。彼女は、「頑張るわなんて言うなよ」のあとに「切れ」をいれて読んだという。「頑張るわ」というところは、人為の世界の話である。そして、それとの対比において「草の花」というものそのものが登場する、その「草の花」の現前に撃たれたというのである。

    頑張るわなんて言うなよ/草の花 

 「頑張れよ」とか、「頑張らなくても良い」、とか言うのはあくまでも人間の世界の話なのであって、「草の花」は、かかることに関係なしに、自然体で眼前にある、「その草の花を見よ」、というのがこの句の生命だろう。カウンセラーの歌に欠けていて、草の花の句にあるもの、そして、読者を癒やす力のあるものは、このような人為を越える自然への眼差しなのではないだろうか。

 ところで「人為を越える自然」ということを私は述べたが、これは更に説明を要するかも知れない。「自然」という語は多義的であって、それと対比されるものが何であるかによって、意味が変化するからである。哲学的な論議は後回しにして、もうひとつ、そういう意味での「自然」があたかも啓示の如く登場する俳句を例にとって考察したい。それは、加賀の千代尼の俳句である。

  朝顔や釣瓶とられて貰ひ水

 この句については、鈴木大拙が『禅と日本文化』のなかで、芭蕉の「古池や」の句とならんで、禅の心、「真如」のなんたるかを俳句によって表現したものとして詳論している。

 大拙は、明治以後の俳人の間では、この句があまり高く評価されていないことを知って大いに失望したと言われている。 実際、正岡子規以後、近代俳句の作者達は、江戸時代にすでに人口に膾炙していた千代尼の掲句を「通俗的である」とか「偽善的な自然愛好」の句であると言って、酷評してきたのである。この評価の違いはどこに由来するのか。明治以後の近代の文学者が、宗教性と文学性を峻別し、俳句を文学として独立させようとしたことにその理由の一半を求めることもできるが、それよりも、大拙が引用し、英訳した千代尼の句が、

1.朝顔に釣瓶とられて貰ひ水 (一般に流布しているかたち)ではなく、
2.朝顔や釣瓶とられて貰ひ水 (千代尼自身による晩年の改作)

という句姿であったことに注意したい。
(大拙はOh the morning glory ! The bucket made captive, I beg for water.という英訳で論じた)

 この句が、1の「朝顔に」の形で人々に記憶されたのは理由があると思う。 江戸時代に女性の俳人は例外的存在であった。朝顔に釣瓶を採られて 貰水をするという趣向は、男性俳人には思いつかない。 そういう女性らしい心遣い、優しさを詠んだ句は、それまでにあまりなかったのではないだろうか。 「朝顔に」の句姿のほうが分かりやすいのは、句に物語を感じるからである。 そして、この物語性の故に、また、「とられて」と「貰い」のコントラスト、朝顔の「蔓」と、「釣瓶」との掛詞のような面白さの故に、この句は人々に愛唱された。 しかし、千代尼は、後にこの句を自ら添削し、2の「朝顔や」の形に句を改めたのである-それは なぜだろうか。

 「朝顔や」の句では、句の物語性は背景に退き、朝顔の咲いている景が前面に出る。 千代尼の出逢った朝顔の美そのものが前よりも強調される。 それが、切れ字「や」の働きなのであろう。朝顔との一期一会の出逢い、 その束の間の輝きを千代尼は掛け替えのないものとして、そのまま詠みたかった。 千代尼が貰い水をしようとどうしようと、そのこととは独立に朝顔はそこにある。 朝顔は、いうなれば「聖なるもの」の顕現である。千代尼のほうは、朝の日常の仕事も 続けなければならない。だから「貰い水」に行く。しかし、自分のそういう心遣いを むしろ背景に斥けて、ただ朝顔の咲いている朝の情景を前景に出すために、彼女は「朝顔に」を「朝顔や」に改めたのではないだろうか。「に」を「や」に改めただけであるとはいえ、俳句の伝えるメッセージの質には大きな違いが生じているように思う。その違いは、

1.「朝顔に」の句では、句の主題は、朝顔の自然なる佇まいに撃たれた作者の動きの方に向けられている。作者の自然にたいする心遣い、ないし優しさのほうに力点が置かれている。
2.「朝顔や」の句では、作者の心に生じた事柄は背景に退き、人間の思いや煩いを越えた自然そのものが、切れ字「や」によって直指されている。爽やかな早朝の叙景、作者と朝顔との一期一会の出逢いが句の主題である。

 「朝顔や」という詠嘆に込められたもの、その純一なる感動から俳句が生まれたわけであるが、
このような朝顔のあり方、その自然なる佇まいの意味するところは何か。

 千代尼にとって朝顔との一期一会の出会いは、人為的なるものを超越する自然であって、それ自体が、宗教的な啓示の如く彼女の心を撃つものであった。鈴木大拙は、この朝顔の自然なる佇まいを仏教的な言い方で「真如」と言い表したが、このような経験は決して仏教徒だけに限定されるわけではない。西田幾多郎は福音書の「汝等のうちたれか思ひ煩ひて身の丈一尺を加え得んや」という一節を読み感動したと伝えられるが、その先には、さらに次のような言葉もある。

「野の百合は如何にして育つかを思へ、労せず、紡がざるなり。されど我、汝等に告ぐ、栄華を極めたるソロモンだに、その装ひ、この花の一つにもしかざりき。今日ありて明日、炉にに投げ入れらるる野の草をも、神はかく装ひ給はば、まして汝等をや。(マタイ伝第六章)」

 そこには、キリスト教と仏教の間の差異をこえて、「自然」なるもののあり方が、「恩寵」の如く人々を救済するという事実が確かにある。そのような「恩寵」と通底する「自然」というものに、哲学的な根拠を与えることが出来るであろうか。以下は、そういう問題をめぐって為される一考察である。
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自然ということ 2

2005-02-24 | 美学 Aesthetics
一 「自然」と「恩寵」

 前節では「野の花」に寄せて、専ら詩的言語において「自然」が「恩寵」の如く働く事例を考察した。しかしながら、自然について哲学的な考察をする場合には、野の花や朝顔のような、(普通の意味でも)美しいと認められている事物だけに限定するわけには行かない。高尚と卑賤、美と醜、価値的なるものと反価値的なるものの差別をこえて働くと言うところが、自然の探求の内には存しているからである。プラトンの対話編「パルメニデス」において、老パルメニデスが、善美のイデアにのみ固執する若き日のソクラテスの理想主義を戒め、善悪の価値的対立を越えて物そのものを捉えることを哲学の道としたことには理由があるかかる考え方は、希臘哲学においてのみならず、東洋の諸思想においても見られる。荘子が「道」を一切の事物に認めて差別せずという立場に徹底したこと、道元が、一切存在(悉有)は仏性において捉えられたことが想起される。 

 「自然」という言葉は、哲学・科學・宗教・文藝の諸領域に於いて、様々な意味で使用されてきた。それは決して一義的な語ではない。そこで、多義的なものを統一性を全く欠いた偶然的な多義性として放置するのではなく、ある基底的・焦点的な意味を定め、そこから、様々なる「自然」の意味を系統的に整序したうえで、それらを批判的に考察することを試みたい。

 まず、さまざまな自然概念に共通して「ものの自体的なあり方」が含意されることに注意したい。列子の張湛の注に「自然とは、外より資らざるなり」とあるが、そこでは「自然とは他の力を借りないで、自ずからそうなること、もしくはそうであること」が含意されている。この意味での「自然」は、ギリシャ語のphysis の用法に近い所がある。アリストテレスは「自己自身の内に運動の原因をもつもの」としてphysisを定義したが、そういう意味での自然概念には、運動ないし変化の原因を、外に求めずに内在化する考え方が現れている。

 しかしながら、こういう哲学的議論は、我々の具体的なる経験の現場を離れて次第に抽象化され、やがては、我々自身の経験の現場を離れて、自然が対象化され、実体化されていく傾向性があることに注意しなければならない。そのように対象化された議論の枠組みにおいて、両立しがたい様々な体系-形而上学的なるものと反形而上学的なる物の双方がある-が構築されるからである。
たとえば、荘子の注釈者として著名な郭象の「無因自然」論をとってみよう。そこでは、「万物には主宰者は存在せず、個々の事物は、それぞれに存在根拠をもち、他者の介入を許さない」という意味での「自然」が強調される。これは、単に、万物の主宰者の存在を否定するという意味での無神論であるだけでなく、そもそも事物には原因なるものは存在しないと言う意味で因果を撥無する議論でもあった。これは形而上学を拒否する自然主義の一事例である。

 それとは対照的に、単なる個物の感覚的認識ではなく、ものの原理と原因の認識を持って学的認識の特徴とするアリストテレスにおいては、いわゆる四原因論こそが自然学の基本となる。因果性を撥無するところには科學は生まれない。そして、自然界の全体的な認識のためには、第一の原因・原理の探求こそが要求されるのであって、かかる原因の’探求は、究極するところでは、形而上学において完結する。それゆえにアリストテレスの伝統を継承する自然学は、最終的には、自己自身を越える根拠としての第一哲学=神学(テオロギケー)を必要とするのである。こちらのほうは形而上学に対して開かれた自然主義の事例である。

 哲学的な思索においては、事物の原因の探求、あるいは事物の本来的なありかた、生成消滅の根拠と言う文脈において「自然」が語られるが、宗教においては、それと同時に、我々の救済の根拠を求めるという文脈で、「自然」という言葉が語られる。

 仏教に於いては、「自然」という語は、良い意味でも悪い意味でも使われると言う点で両義的な用語である。救済の究極的な根拠を表現する場合にも使われるが、救済が実現されるためには否定されるべきものとして語られる場合もある。 中国仏教に於いては、無因自然のごとき考え方は、仏教の基本にある縁起説、因果の理法とは相容れぬものと扱われた。道教のいわゆる「無為自然」は「自然外道」と等値され、から、仏教的な「空」の立場との混同を戒める議論も行われた。他方に於いて、親鸞の晩年の言葉を筆録した『末燈抄』では、「自然法爾」が、絶対他力の信心の究極を表す言葉として使用されている。 

 「自然といふは、自はおのづからと言ふ、行者のはからひにあらず、しからしむといふ言葉なり。然といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに、しからしむるを法爾といふ。…..すべて、人のはじめてはからざるなり。このゆゑに、他力には義なきを義とす、としるべきなり」


『歎異抄』にも「わがはからはざるを自然とまうすなり。これすなはち他力にまします」ということばがあり、ここでは、自然は、人為のはからいを捨てて絶対他力に帰依信心のありかたを指しているのである。

キリスト教の場合、カトリックとプロテスタントの神学の相違点の一つは、啓示神学にたいする自然神学の位置づけである。バルトに於いて典型的に見られるように、聖書原理を重視するプロテスタントの神学は、基本的な傾向として、自然神学というものの価値を認めない。聖書の啓示こそが神学の与件であり、その与件に基づいて神学体系を組織する啓示神学のみが、本来の意味での神学である。その他に神学なるものはない。あるとすれば、それは神学の装いのもとに展開された世俗の哲学に過ぎない。

これに対し、カトリシズムの伝統に於いては、基本的に、自然神学の価値を承認する。それは、さしあたっては特定の経典に立脚せずに、異教徒にもキリスト者にも共通するもの、いわば両者が共に認める自然なる与件としての世界から議論を組み立てる。それは、古くはプラトンやアリストテレスのこころみた哲学的な神学(テオロギケー)の系譜を引くものであって、キリスト者と非キリスト者とが、ともに共通の場において論議可能な地平をもつ神学である。

 すなわち、自然を重視し、そこから神学的な思索を行うことは、自己と異なる伝統に由来する他宗教との対話のために必要なことがらであり、自己の宗教のもつ特殊性、独自性を越える普遍性を獲得するために、必要な営みなのである。

 自然の概念は、このように、仏教に於いてもキリスト教に於いても両義的である。このような両義性の由来を追尋することは、キリスト教的な創造論や救済論の文脈で自然を語る場合に於いても、あるいは大乗仏教に於ける仏性論との関係で自然を語る場合においても避けて通ることのできぬものであろう。さらに、如何なる宗教的な価値にたいしても中立的な自然科学的な意味での「自然」概念があり、これは宗教的な自然概念と如何に関係するかと言うことも、考察されるべき問題である。
 
 「恩寵は自然を破棄せずに、却ってこれを完成する」というトマス・アクィナスの言葉がある。 

 歴史的に見れば、この言葉は、キリスト教が自然を学問的に研究するアリストテレスの哲学を受容したあとで、信仰と理性という相反する二つの立場を、信仰の側から統合する立場を表明したものである。これは、カトリシズムに於ける啓示神学と自然神学との根本的な関係を表明したものとして良く引用される。この言葉は、単に西欧のキリスト教の歴史のある段階に於いて発せられた特殊な命題であるにすぎないものではない。およそ、恩寵という言葉が宗教的な救済の出来事を表すものであり、自然という語が、我々の本性に由来する物を表すとするならば、この言葉は、宗教の成立する根幹にかかわる問題を指示している。いいかえれば、それは現在に於いても、我々に対して、思索を促すだけの普遍性をもっているのである。

 この言葉は、トマスの言う意味での「普遍の信仰」の立場を述べたものであるから、それを単に、中世西欧のキリスト教的思惟という歴史的な文脈で理解するだけではなく、時代と思想の風土も異なる現代の日本において、我々の思索を促すものとして採り上げよう。すなわち、我々は、あらためて、次のように問うのである。

 「恩寵は自然を破棄せずに、却って完成させる」という、そのことは、如何にして可能となるのであろうか。

 さしあたっては、我々が事物を経験するときの、そのものの「自然なありかた」、および経験する主体である我々の「自己のありかた」の様態を形容するものとして、すなわち「ものはどのように生成するのか」、「私はどのように生きているのか」を言い表す語としての「自然」に焦点を定めたい。そういう考察に於いては、経験する主体を捨象したうえで対象化された事物の総体としての自然ではなく、対象と経験する主体との間の不可分なる具体的な関係性そのものが問題となろう。

 このような「生成の<如何に>」を表現する「自然」は、「しぜん」というよりも「じねん」と言う、より古い読み仮名で表現する方が適切であるかもしれない。今日、「自然(しぜん)」は、主体抜きの純然たる客体、ないし客体の総体としての世界、即ち近代以後の自然科学の対象世界を指す意味で使われることが多くなったからである。しかし、自然科学が扱う自然の概念を如何に位置づけるかと言うことも我々の議論の射程に入る。現代に於いては、自然科学で言う意味での自然概念が如何にして生まれるかという問題を追尋することなくして、自然一般を論じるだけでは不充分である。自然科学で対象化された自然も又「生成の<如何に>」を表示する基底的な自然概念から派生するものとして議論することが出来るものでなければならない。

 「生成の<如何に>」を表す意味での自然を第一義とする場合、それは、神と世界という二元的な対立図式の片方のみ、すなわち神から区別された世界のあり方のみを指すと固定して考えるべきではない。「自然(じねん)」を専ら神と区別された世界に限定することは、ひとつの先入主である。それは、神と世界をそれぞれ別個の「もの」として実体化した後で、時間的生成という働きを世界の側に帰し、神を自然的世界から峻別された非時間的なる存在として捉える考えを既に前提してしまっているからである。しかるに「生成する神」の概念は受肉と歴史が本質的な意味を持つキリスト教にとって必要不可欠である。

 ここで、現代に於ける自然神学の一つの試みとして、神学に於ける「自然」概念の根柢は、「世界の自然」にではなく、「神の自然」にあるという考え方を提唱したい。

 この提唱は、直接的には、先程提示した「恩寵は自然を破棄せずに、却ってこれを完成する」いうトマスの言葉の可能根拠を指し示すものである。すなわち、恩寵とは「神の自然」に他ならず、普通言われる意味での「世界の自然」を完成するという意味である。
もちろん、こういったからといって、トマスの命題の意味するところ、その意味の全幅的な射程を覆い尽くしたなどと主張するつもりはない。そうではなくて、トマスの命題を受容し、そこから、形而上的なるもの(神的なるもの)へと開かれた自然主義の、新しい形態を出きる限り明晰に述べること、そのために必要な概念を提示するひとつの試みなのである。

 そういう概念の適合性ないし有効性を判定する基準は、あくまでも我々自身の直接経験の現場以外にはない。各自が、自己自身の宗教的経験が、はたして有効に解釈され照明されるか、それを判定していただかなければならない。

 「神の自然」は、「自然」というそのありかたにおいて「世界の自然」と通底している。そのゆえに、かかる「世界の自然」のありかたを深く捉えることが、「神の自然」を捉えることに繋がり、かかる「神の自然」を捉えることによって、始めて「世界の自然」の捉え方が完成する――これが、「神の自然」という概念の意味するところである。

 もし、このような言い方が許されるとするならば、「恩寵」とは、まさに、かかる「神の自然」の働きに他ならず、この「神の自然」の働きこそが、「世界の自然を破棄せずに、これを完成させる」ことの可能なる所以を与えるのではないか。

 しかしながら、この問題はさらに突き詰めて考察する必要があろう。神と世界の「自然」について論ずることは、両者の区別と関係性を如何に語るかという問題の考察を要求するからである。

 世界の「自然」が、単に「自己自身のうちに生成の根拠を持つ」ことにつきるのであるならば、「恩寵」はそのような自己を否定するという意味を持つはずである。仏教徒の表現を借りるならば、「自力作善」の立場が根柢から否定されると言うことが、「恩寵」には本来含まれる。神の「自然」には、世界の「自然」の自己充足性を突破するものが含まれているのでなければならない。したがって、我々は、神と世界との区別と関係性を、如実に述べるために必要にして適切なる範疇とは何であるか、それを省察することを求められるのである。我々にとっては「世界の自然」の方が先立つものであるが、事柄自体としては、「神の自然」こそが「世界の自然」に先行し、それを可能ならしめるものである。しかし、そのことは、我々にいかに如実に経験されるのか、それが経験される場というのはいかなるものであるのかが指示されなければならない。
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自然ということ 3

2005-02-24 | 美学 Aesthetics
二  自然と歴史

 我々は、第二節に於いて、自然を客体として対象化する以前に、第一義的には「生成の<如何に>」を表現するものとして論じた。客体としての「存在」が何であるかは、この「生成の<如何に>」によって、そこから論じられねばならない。前節において、「神の自然」と「世界の自然」について語ったが、その場合、神の「存在」と世界の「存在」を実体的に区別して、両者の関係を述べるという文脈で、自然について語ったのではない。実体―属性という範疇は、ここで問題にしている自然が、第一義的に語られる場ではないからである。

 西谷啓治は、「自然」について語られる場は、実体という範疇では捉えられぬことを次のように指摘する。(H・ヴァルデンフェルス 『絶対無』180頁、西谷啓治『宗教とは何か』141頁以下参照)

「有の枠」がない「自然」では、aはa自体であり、bはb自体でありながら(a=a, b=b でありながら)同時にaとbとが相入している。いはゆる「自他不二」である。固定してゐなくて、aとbの間が「融通無碍」である。(a=b、むしろa←→bである)。aのうちにもbのうちにも「有の枠」はない。仏教的に言えば、aもbも「無自性」であり「無自性空」である。aがa自身であり、bがb自身であることと、abの不二ということとは、形式論的には矛盾ですが、「自然的」な有では矛盾ではなく、却って同じ事の両面であるといふことにあります。それは有が「有の枠」のない有だからです。仏教で「色即是空、空即是色」といふのが、さういふあり方を指してゐると思ゐます。それが、「おのずから」にして「みずから」に、つまり「ひとりで」にあるというふ有り方、「おのずからしかある有り方」といふことになります。

 ここでは、「自然」は、「有の枠」を越えて、事物が「不一不二」のありかたで、すなわち西谷が外のところで「回互的関係」とよぶありかたで、「おのずからしかある」ことが、「空の場」において考察されている。二つのものが「相入」しつつ、「一つ」ではないという「あり方」、諸事物が互いに妨げあうことなしに調和或る全体を為すというコスモロジーが語られている。華厳の「事事無礙法界」という存在把握を現代化したともいうべき西谷の言葉を手掛かりとして、さらなる考察を続けよう。

 実体的な「有の枠組」を外して、事物を「事事無礙」の相でみることは、それだけでは、まだ、「自然」にとって本質的な、事物の「生成」が言及されていない。「空の場」において、時間や歴史というものが語られ得るためには、かかる回互的な「物の有り方」を述べるだけでは不十分である。ものの「生成」という次元を捨象せずに語ること、言うなれば非時間的な永遠の相において語られる「円環的な限定」においてのみ事事無礙を語るのではなく、同時に時間や歴史という「直線的限定」を語ることが必要である。それは、「無常」の相に於いてある自然なる時間的世界を如実に見るために、万物が一即一切、一切即一であることを語る「即」の論理にとどまることなく、この「即」の一字によって言い表されている事態をさらに具体的に、生成変化するものの位相において語ることである。かつてのキリスト教神学が、父と子と聖霊の内的な三位一体のペリコーレーシス(相互内在)だけではなく、歴史的世界に於てもまた三位一体論的な思索を展開したように、我々は、ひとり神についてだけ語るのではなくて、世界について語るときにも、三位一体論的な思索を必要とするからである。

 「自然」というあり方に歴史性を見ると言うことは、歴史的世界を、人為的なる世界に限定せずに、それを越えて万物のあり方にまで一般化する事を意味する。「自然」は、その根柢に於いて歴史的であり、歴史的生成ということをその中に含む――このことが強調されねばならない。それは、近代の科学で前提されてきたような自然概念―歴史なき必然的法則に支配される世界という概念-から、我々の言う自然を理解すべきではなく、逆に、近代の自然科学が立脚していた自然概念のほうが、我々のいう意味での「自然」把握からの一面的なる抽象の所産であることを意味している。

 万物が歴史的世界においてあると言うことは、20世紀後半の自然科学によって見いだされた新しい自然観でもある。物質には歴史があり、その諸元素は歴史的なプロセスの中で生成した物であって、永遠の昔から存在していた物ではない。宇宙全体が、不可逆的に進化するシステムであり、その進化のプロセスから、生命と意識を持つ人間が登場したこと、人類の歴史は、かかる広大なる宇宙の歴史過程のなかに位置づけられるべき事-これらは、アポステリオリに認識された科学的知見ではあるが、歴史性の欠如した近代科学の自然概念を根本的に修正するものである。存在するものの総体としての宇宙は不可逆的な歴史をもち、未来に向かって開かれている。そのような歴史性が、生物に於いて、そして人間のような高度に進化した有機体に於いて、はじめて自覚されるようになる。ポスト近代的なる自然科学で扱われる自然については、いまここで詳しく論じる余裕はないが、すくなくも、近代科学で前提されていた非歴史的自然という概念は、一面的な抽象に過ぎなかったことは、今日では自然科学自身が明らかにしている。
さて、自然が根柢に於いて歴史的であり、進化するものであると言うことを、自然科學の議論ではなく、一般的なる形而上学の議論として採り上げる場合、それは次の様な提題として定式化できるであろう。
 歴史的世界に於いては、「ものが生成する」と言うことが、そのものの現実的な活動を第一義的に言い表すものであり、それが「対象として存在する」ということは、第二義的なことである。

 諸々の対象的存在とは常に既成の存在であり、新たなる個々の生成を制約する諸条件を形作る。ものの相互内在と言うことは、生成という次元を考慮して始めて抽象性を免れ、現実的な意味を獲得するのである。すなわち、どのものも既成の存在として、あらたなる個々の生成のための歴史的な条件として機能する、という意味で、そのものは一切の生成する事物の中に内在している。しかしながら、将来の生成が如何なるものであるかは、既成の過去の存在によって制約されはしても、決定されているわけではない。その意味での未来の開放性は、歴史的世界の存立のための不可欠の条件である。

 しかしながら、過去の既定性と未来の開放性がそこに於いてある現在の活動そのものは、歴史のただ中にあって歴史を越えるものに直結している。現在は、過去とは違って未来の生成のための条件なのではなく、それ自身が常に完結し、充実した活動である。それは、我々自身の自己と切り離された対象的事物の生成変化ではなく、一切の対象的事物の変化が、そこにおいて語られる場所である。このような活動そのものを、対象的事物の単なる生成変化から区別して、「現成」と呼ぶことにしよう。

 この語は、日本仏教の中で独自の時間論を展開した道元の用いたキーワードでもあった。道元の《正法眼蔵》の要語索引によれば、『現成』は単に『現成公案』の卷だけでなく、全体にわたって実に262箇所にわたる用例があり、すべてが絶対に肯定的意味で使用されている。これに対して、『無』はたかだか30の用例を、『空』は虚空という日常的な意味を含めても51の用例を数えるのみで、それらは肯定的な文脈で使用されることもあれば、『無にあらず、有にあらず』『空を破し有を破す』というごとく否定的な文脈でも使用されている。これは、道元にとっては、有と無との相対的対立を越えるものを指す根源語は『(絶対)無』や『(真)空』ではなくて、寧ろ『現成』であったことを示唆している。

「現成」がたんなる対象的事物の「生成」から区別される点は、それが時間に於いて生じる出来事ではなくて、時間そのものを可能ならしめる出来事であるということである。しかし、それは単なる「有」と「無」という二つの相反する範疇を統合する「生成」の現実態であるがゆえに、「現成」を「有」というも「無」というも、ともに一面的な抽象となる。

 かかる意味での「現成」においては、無限に生成と消滅を繰り返す直線的な時間的限定そのものが、その都度の「今此処」において統合され、現実化される。その意味で、世界の自然に於ける「生成の如何に」は、かかる円環的な生成にほかならぬ「現成」によって、一切の潜在性をもたぬ完全現実態となる。そのいみではそれぞれの「今―此処」は完結しており、その都度、歴史に一つの区切りをつける非連続性であるが、このような区切りが入ること、そのことによって、過去は破棄されるわけではなく、反復・継承というかたちで復活する。すなわち、歴史的世界に於ける直線的なる限定そのものが、「現成」という円環的限定によって可能となるのである。

 「生死即涅槃」あるいは「恩寵は自然を破棄せずに、却ってこれを完成させる」ということは、仏教的に言うならば「生死」の世界、すなわち生成と消滅によって特徴付けられる世界、キリスト教的に言うならば、福音のめぐみに与る以前の自然的世界を、実在性を欠いた単なる仮象として破棄しないということである。そのような世界の「自然」というあり方が、世界の内部において自己充足するものではなく、「神の自然」によって根拠付けられており、それによって可能となるものであること-それことは、まさに時間の中において生きている我々の直接経験から、すなわち「真理がそこに住まう内なる人」に還り(アウグスチヌス)、自己そのものの現成に他ならぬ時間性に徹底することによって知られるべき事柄であろう。
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