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Earth Spiral

Survival&Creative life. 
大地と魂の声を聴き、自分の道を歩め

このブログについて

たまに更新します。
最近はnoteに記事を書いていますので、Earth Spiralのnoteもご覧ください。
note Earth Spiral
星々のことば/猫の言い分/Plant Medicine/白魔術研究所ほか

隙間の秩序をつくるもの

2017-01-26 | 日記的な
先日、『奥会津の木地師』の
ドキュメンタリー映画の見た後に、
早稲沢にある木地工房跡の見学をしてきた。

映画は見るのが2回目だったが、何度見ても、
人間が持つあの技術のすさまじさに、驚く。

山の中での掘立小屋づくり、
川から水をひいてくる技術、
木を切り、木から器の元になる
型を掘り出すなど、様々な木地の技。

自然を扱い、手を使って
何かを生み出すことを忘れた
現代の私たちがら見たら、
すべてがまるで神業だ。

そして、仕事が安全につつがなく進むように、
山の神に祈る場面がある。
ほこらもお札も自分でつくるという
オールマイティぶりにもビックリだ。
そしてそれを普通にやっている。

最近、「儀式」の重要性を考え始めていたので、
何か、ストンと腑に落ちたものがあった。

うちでも庭にサンクチュアリをつくったり、
東西南北に、ご神木を決めておいて、
自然界に感謝する場をつくっている。

生きるための食べるものや
生活に使うものを自然からいただいていると
自然と感謝の気持ちを伝えたくなる。

仕事でも、自然のものを利用させてもらい、
植物療法なり、木工やものづくりなどを行えば、
作業であまった葉っぱや枝、出てきた木くずなどを
ゴミ箱に捨てるというのは、論外だ。

自然に還るものは自然に戻すのが、
地球や自然界に対する礼儀作法だ。

もし、理由があって、そう出来ない時には、
利用させてもらった自然界の存在に、
ちゃんと理由を伝えることも礼儀作法。

なんとなく、やるようになったことだけれど、
植物を知ることや、自然の声を聴くと言った時に、
この地味なことがもっとも重要であり
土台になっている。

しかし、講座やワークショップなんかでは、
あまり、それを項目だてて取り上げることは
してこなかったなと思った。

大切なものは隙間にある。

隙間の秩序をつくるために
儀式ってのはあるのかもしれない。

大切なことを伝えられる方法を、
もう少し熟考したいと思った。



裏から表をみる

2017-01-13 | 日記的な
今年のお仕事の計画を考えていると、
ボディではなくエネルギーに完全に
シフトしていることに気づいた。

長い間ボディワーカーのアイデンティティが
貼りついているので、なかなか、
受け入れがたいと思う自分がいたようです。
(ある意味、それがびっくりだ)

今までは、見えているもの、
カラダや自然界や、五感で感じるものを
じっくりと感じた時に垣間見れる
背後にある力を探索してきた。

しかし、いつの間にか、
自分の中では
背後にあるものの方に
リアリティの感覚が
シフトしていることに気づいた。

遠慮がちに表から覗いていたけれど、
堂々と、裏側から表を見ることを
自分で良しとすることにする。

磐梯山だって表もいいけど、
裏の方が好きなのだ。







椎名林檎『青春の瞬き』@紅白2016~過ぎ去る時代へのレクイエムだと思った件

2017-01-07 | 日記的な


うちはテレビがありませんので、
SNSで友達がシェアしてくれたもので、
椎名林檎さんの紅白でのパフォーマンスを見ました。

参考:紅白歌合戦2016 椎名林檎のステージがカッコ良過ぎる 青春の瞬き FROM TOKYO 2020

動画

2020年の東京オリンピックに向けて、
日本のクールジャパンのアピール的な側面もありつつ、
プロジェクションマッピングといい、喪服っぽい衣装といい、
なんでも東京事変のメンバー復活だそうで、
私はよくわからないけど、ファンにはたまらない演出であり、
隅から隅までクールなパフォーマンスだと思った。

そうした諸々の細かいことが解らない自分にとっては、
ひとことで言えば、過ぎ去る時代へのレクイエムに思え、
何度も繰り返し見てしまいました。

スマップ解散に対して贈る歌じゃないかとかなんとか、
とネットで書いている人もいました。
スマスマの共演でこの曲を歌っていますしね。
そして、2016年、多くのアーティストが亡くなった。
デビッド・ボウイやプリンスなどなど。

「美しさと正しさが等しくあると
疑わないでいられるのは若さゆえなんだ」

そして

「時よとまれ何一つ変わってはならないのさ
今まさに僕らめざしていた場所へたどり着いたんだ」

この歌詞がとても印象に残ります。

戦後の日本に当てはめてみると、高度経済成長、
そのさなかに1964年の東京オリンピックがありました。
その頃は、これで世界は良くなるという
疑わない何かが世の中にあったはず。

そして、今の世界は、
「まさに、目指していた場所に辿りついたんだ」
ですが、実際の結果はどうなのでしょう。
その言葉の裏には
「目指していた場所に辿りついたけど、
それで良かったのか?」
意味が含まれているように感じます。

と同時に、
「これで良くなると思ったのに、
どうしてこんな結果になったんだ」
という、やるせなさもあり。

そのようなことが、
様々な次元で起きているのが、
今の世界なのではないかな。
地球レベルでも、日本レベルでも、
スマップレベルでも。
そして自分レベルでも。

ゴタゴタがありながらも、
2020年の東京オリンピックに向けて
進んでいく世界。

多くの問題を置き去りにしてそんなことでいいのか?という声と、
経済成長!前向きに行かなくてどうする!という声。

衣装は喪服に見えるけど、半襟に鶴が描かれているところなどは、
喪の中にも、祝福的な要素も含んでいたりと、
細部を見て、シンボリズム的な解釈をすればするほど、
よくできた作品と思ってしまいました。
(いちおう、祝いの場としての誂えらしい⇒解説

しかし、何度も繰り返し見てしまう理由としては、
そこから感じられる感覚であることに気づきました。

それは、そんなこんなも含めて、
慈愛を持って見送ることが出来るような感覚です。

それぞれが掲げてきた正義の旗も、
無自覚に共有された共同幻想も、
「実は何か違ったんだ」という気まずい雰囲気も、
受け入れがたい感覚も
すべてを巻き込み、何かの境界を超えていくような。

まさに、「若気の至りでバカだったな~」
という感じで、慈しみを込めて、否定もせず、
その時代に敬意を表して見送るような感じかな。

もし、なにかが終わったとして次に進んでいくとしたならば、
早速、誰かが勝ち誇ったかのように、新しい旗を掲げるならば、
結局同じことを繰りかえすような気がする今日この頃。

あぁ、必要なのは「こういう感覚」だな、
という風に感じたところが、
何度も繰り返してみてしまう理由でした。

「こういう」についてははっきり言語化しがたいので、
もうちょっと、寝かせてみたいと思います。

勝手にいろいろ書いていますが、お作りになっている方々は、
どこまで意識されているかわからないですけどね。
もしも、「そんなところまでは考えてないよ~」
って感じだったとしても、それは、アーティストとして
時代のスピリットに作らされた、
といってもいいのかもしれません。



最近またブログを書き始めた理由

2017-01-07 | 日記的な
このブログも2006年から書いているので
もう10年にもなる。すごいもんだ。

その前に書いていたのが2004年からはじめているが、
その頃、ブログというものが流行りはじめた頃だ。

しゃべることで自分の考えを整理するようなところもあったので、
ブログを書くっていうのは、なかなか良かった。

たぶん、これが普通に日記だったら、人を意識せず、
自分の書きたいことを書き連ねるだけなので、
あまり、まとまった形にできなかったように思う。

かといって、凄く読む人を意識するかというとそうでもない。
「誰か見るかもしれないので、ある程度かたちにしいとくか」
ぐらいの感じで、人にも分かるように書く努力をする。

自分と、読むかもしれない人の距離感がちょうど良かった。
だから、私はわりとブログをマメに書いていた。

ブログの次に始めたのはミクシーが先だったかツイッターだったか?

ミクシーはほんとに実際に会ったことがある友だちだけと繋がり、
コミュニケーションをするのが楽しかった。
離れていても何してるかな?とかわかるし。

ツイッターは、訳が分からなかったけど、
これは、仕事に出かけている旦那さんに、
うちのニャンコ情報を逐一お知らせするために
使い始めたのがきっかけ。

生後1か月ぐらいで2匹でやってきて、
毎日面白いことをするので、誰かと分かち合いたいけど、
旦那は仕事だし、それについていちいちメールが来ても
うざいと思うので、手が空いた時にちょっと見れるように、
ってのは、ツイッターが都合がよかった。

というわけで、それぞれのツールをいい感じで使っていたのだが、
フェイスブックを使い始めることで、なんだかぐちゃぐちゃになった。
フェイスブックのせいではなく、3.11があったからだと思う。

3.11後の情報収集などには、ツイッターがいちばんだった。
友だちの様子などはミクシー見たりツイッター見たり。
フェイスブックは、震災後のイベントを開催する時に、
一緒に主催した友人がイベントページを作ってくれて、
そのために、毎日チェックが必要になり、
なんとなく使い始めたような感じ。

そして、そこで流れてくる膨大な量の情報、
特に震災、原発、放射能関係の情報、
それにとにかく2011年は翻弄された。

そこで、多くの情報を見て、
ガセネタかどうかを判断し、
どこのどなたさまの発言かをチェックし、
どだけの情報を精査してきたか。

おかげさまで、流れてくる情報が
どれぐらい信頼度があるのかは
直観でわかるようになってきた。

そして、原発被災県に住むものとして、
全体の中で自分はマイノリティとなった。

そこから発信する情報だからこそ、
耳を傾けてもらえたり、
逆に疎まれたりしていただろう。

被災地から正義を叫び続けることもできたかもしれないけれど、
ある時に、もう、そういう時代は終わったような気がした。
そんなことしても世の中変わらない、という絶望感もあった。

そしたらもう、自分が発信できることなど何もなくなった。
発信するにしても、当たり障りのない事ばかり。
日常の出来事をちょっとつぶやいたり、
思ったことを当たり障りなく書いてみたり。
正義を振りかざしたり、毒をはいたら
誰かが傷つくこともわかるし、
そんなことをして憂さ晴らししても
何も意味がないこともわかる。

でも、何か自分はここにいるということを
発信し続けていかないといけないという
強迫観念もあったかもしれない。

自分はどこに向かって進んでいるのか?
何か、自分の向かう方向を決めても、
また、それが破壊され失われるのではないか?
何か目に見える形をつくってもそれがなんなのだ?

そう思ったら、何も表現できることがなくなってしまった。

でも、SNSは悪い事ばかりでもないから、
なんとなくダラダラと使っている。

しかし、10年以上前に、ブログに思ったことを
自由に書いていた自分はいつの間にかいなくなっていた。

文章を書き、自分の思ったことを整理し、
それが自分の気づきにも繋がったり、
大事なことを伝えるものになったりしていた
そんなふうに文章を書く自分はいなくなっていた。

自分が表現しきれたと思う文章を
そろそろもう一度ちゃんと書きたいと思った。

短くすっきりとした文章を書きたい時もあるけれど、
別に誰も読んでくれなくてもいいので、
自分の思考のプロセスをそのまま書きたい時もある。

それから、311からもうすぐ7年になるけれど、
あの崩壊から、新しい何かが
自分の中で少し芽生えつつあるのかもしれない。

「新たな始まりのために楽園に終わりがやってくる」

これはタロットカードのLoversの解説にあった一節。
アダムとイブは蛇にそそのかされて
なんかの実を食べて楽園を追放された。
楽園の終わりは地獄ではない。

自分の中の、3.11と重なる気がした。








ちゃんと地球人になろう

2017-01-02 | 日記的な
(写真は2015年3月31日のものです)

先日『インター・ステラー』という映画を見ました。
映画館がない僻地のため、見たい映画は、
モチベーションさがって忘れた頃に、
暇な時に見たりします。

近未来の地球が、いよいよ人類が住めなくなるので、
代わりに住める星を探すというお話。
宇宙好きの私にとってはブラックホールの描き方とか
時空を超える感じとかが面白かったです。

最終的には、めでたく人類が住める星を見つけるんだけど、
いくら生きのびるためとはいえ、
地球以外には住みたくないなと思いました。
いわゆるハッピーエンドなんだけど、
素直に喜べない感じなのも、
作品としては、なかなかいいかなと。

そして、私的には、
人間として肉体を持って生きる以上は
地球に住みたい!と再確認をした次第です。

他の星に住むなら、
火星人とかグレーみたいな
違う形態になるでしょうね。やっぱり。
もしくは、肉体は無くて
エーテル体上にだけ存在するとか。

いつだったか前世はクラゲみたいな感じですね、
って言われたことがありますが、
そんな時は地球以外にいたのか、
もしくはレムリア時代とかかもしれません。

とにかく、地球がダメになるのは困るな~、
と切実に思ったわけです。
(今頃かよ!)

いやいや、自然の中で暮らしたいな~と、
今では思っていますが、子どもの頃は、
地球に関することには全く興味がなくて、
なんだか地球っていやだなという感覚と
宇宙に帰りたいですけど、という感覚。

それこそ、ブラックホールなど
宇宙のことが書かれた本が好きで、
小学校の図書館で、そんなのばかり借りていました。

ところが、おかげさまで半世紀生きてみて、
「地球って美しい!」
と心から思えるようになりました。

もしかすると、私みたいに
「地球ってなんだかな…」
と思っている人が多かったりして。
そうじゃなかったら、
もっとまともな世界になってるはずだ。

最近、ハーブとか自然を暮らしに取り入れたい!
という人も増えています。
薬草魔女になりたいとかね。

自然を取り入れた暮らしは、
昔はいやおうなくやっていたのです。
それが生きることだったし、当たり前のこと。
だから、タイムトラベルして、
その時代の人に「素敵ですね~」
とか言ったら、アホかと思われます。

今は、そういった暮らしを『再び自由意志で選択する』
というような時代に来ているのかもしれません。
そんな人はきっと、地球の美しさをより深く知る入口に
立っているのかもしれません。

(そんなのをビジネスネタとしてしか考えない
バリバリ物質主義の人もいたりしますけど。まあそれはそれとして)

真剣に向き合ってみると、
思ってる以上に凄いからね。地球の自然は。

地球に生きる自分たちは、いつもそこにあって、
その上に立っているから、全く地球に対しては、当たり前で、
分かっているものと無意識に思っているかもしれないけど、
実は全然わかってなかったりします。

ちゃんと地球人になろう。



時間を無駄にできること

2016-12-31 | 日記的な
今読んでいる本に、「星の王子さま」の一節が出てきた。

「君が、君のバラの花をとても大切に思っているのはね、
そのバラのために、時間を無駄にしたからだよ」

その一節に対して、
今、読んでいる本にはこう書いてあります。

「その言葉は、聴く、とはどういうことか、
その本質を鋭く突いていると言えるでしょう」

確かにそうかも。

そして、思ったのですが、
それが「愛」の本質につながるのではないかと。

秘教的な教えに於いての
三位一体は「意志」「愛と叡智」「創造的知性」
を表わしている。

そして私たちが生きる宇宙は
「愛と叡智」を土台とした宇宙。

よく見る、聴く、知ろうとする、
そこに時間を使い自分の心を使う。

例えば、飼い猫の気持ちになった時に、
「〇〇ちゃんかわいいね~」
とは言っているけれど、猫的には
「あんた、そういってるけど
私のことちゃんと見てないがね」
と思ってる。

相手が人間だったら
「ありがとう」とか「きもちわるい」とか
「そんなことないです」とか
何らかのリアクションがあるので、
勝手な思い込みを修正する機会がある。

しかし、相手が動植物の場合、それがわかりにくいので、
勝手に人間目線の思い込みで判断することは良くあること。

世の中の人たちは忙しいので、
動植物はもちろんのこと、人間に対しても

「あれはこうでああで、あの人は、ああいう人で、
だからこうなんだ」

と適当に結論付けて
「無駄に時間を使わないようにして」
さっさと次に行く。

はい、次行ってみよ~的な。

ましてや動植物をや、
そして地球をや、だ。

忙しい人たちは、
休むことすら、忙しそうに
無駄にしないように休んでいる。

ちなみに「時間」とは「記憶」であるといわれる。
もし、バラの花に無駄な時間を使ったらどうなるか?

バラの花から伝わってくる様々な印象、
美しさやトゲトゲ、気高さ、喜び、
それは自分の中に深く浸透してくるだろう。

よく見たモノ、良く聴いたもの、
そこには宇宙の真理が含まれている。
記憶というより、真理を得ることで、
その時間は永遠のものとなる。

永遠なるものは、
自分が肉体から去ったとしても
魂に永遠に残っていく。

できればそういう時間の使い方をしたいものだ。

子どもの頃は、星の王子さまのその一節を読んで、
さっぱりわからなかったけれど、そんな風に思い、
また読んでみたくなりました。








『絶望の淵』の記憶

2016-12-30 | 日記的な
2011年
深い絶望を感じていた
そんな中で
みんなでやってきた対話
自分は救われていた

最近自分で気づいた
背中にある緊張感
そこにもう少し自覚的に
意識を向けてみようかと思い
やってみた

そこから出てきたものは
何か絶望のような感覚
そこから何か
映画のフィルムが
まわっているように
物語が流れていった

そのまま寝てしまったので
あまり覚えていない

カラダは記憶している
とはいうけれど
緊張感と痛みの中に
何かが記録されているのでしょう

またそこに取り組んでみようと思う


蝶々とクラゲ

2016-01-19 | 日記的な
先日、頭蓋内にある蝶形骨と仙骨が繋がっている、
という話が書いてある面白いブログを知人が紹介してくれていました。

蝶形骨の位置と、そこに繋がっている骨の動画

自分の身体で、今、ちょうど違和感を感じているところが、
右側の鼻の奥のほうと、右の仙骨なので、
これ、ピッタリじゃんと思ったわけです。

骨盤と頭部のつながりは当然あるので、
この2つの違和感はセットだろうなとは思っていましたが、
蝶形骨の話を聞いて、ものすごく腑に落ちたわけです。

布団の中で寝る時、左を下にして横になってみた時に、
「自分の中の蝶々が自由に動けるようにしたいな~」と思ったら、
蝶形骨だけではなく、肩甲骨も骨盤も全部蝶々に思えてきました。

フェルデンクライスでは横に寝てやるワークも多いわけなのですが、
仰向けやうつ伏せに比べて、接地面が少ないので、
呼吸の動きによる身体の微細な動きが制約されにくいので、
横に寝て、自分の中の蝶々の動きを感じるのは、
なかなかいい感じだなと思いました。

そんな風な観察をしていて気づいたのは、
蝶々だけじゃなくてクラゲもいる、
ということでした。

そう、横隔膜です! 焼き肉屋では、ハラミとも言われているw
最近、自分の中のクラゲさんが緊張しているような気がするのです。

蝶々とクラゲさんを自由に解放する。
それをちょっと意識してみようと思います~。

シャドウに向き合う

2016-01-19 | 日記的な
反論はあるかもしれないのですが、自分の感覚としては、
植物療法やボディワーク方面が得意な人は、感情的なものの扱いが、
いまいち苦手な傾向があるように感じます。あ
まりにも大雑把な分け方で申し訳ないです。

これは、私もどちらかというと、ボディワーク、植物療法系で、
そういう傾向があるからそう思うだけかもしれないけど。
心と体は表裏一体なので、心や感情面に対しての何かは必要と思っても、
ほおっておくと、ボディワークからエネルギーワークの方に流れていってしまうのです。
そしてシャドウにも向き合わないまま、いい気になっちゃうというか(笑)

しかし、向き合いたくもないシャドウに向き合うのは、
切羽詰まらないとやらないし、そして現実の中にしか、その機会は存在しないのですな。
ワークショップ内で練習問題だけやっていても、あまり変わらない。

そこはもう、自分で取り組むしかないところであり、
生きている間、際限なく続くので、楽しんでできるようになる、
ってのがポイントだったりするかな、と思います。

次回のトトラボは水のエレメントの話なので、
そんな感情やシャドウの扱いの話もできたらいいなと、ちょっと考え中。

なにもしない

2016-01-19 | 日記的な
(2015年12月7日記 facebook ノートより転載)

12月5日に行われた日本ホリスティック医学協会のセミナーに参加してきました。

スピリチュアリティとエネルギーケアの理解を深めよう、というテーマの4回連続講座の2回目。
今回はクラニオセイクラルとロルフィングがテーマでした。
自分もロルフィング、アレクサンダーテクニークと並んでソマティクス(身体を通した教育)に
カテゴライズされるフェルデンクライスメソッドをやっているので、
ソマティクスの視点からエネルギーケアにどうつながるかは興味津々。
4回のうちでもっとも聞きたいと思っていた回でしたが、とても充実した内容でした。

詳しいレポートは、先に降矢先生のレポートをシェアさせていただきました。
私のばあい、レポートっつうより、感想。

私の中で印象に残ったのは、それぞれの講師の方々が、
身体から働きかけるワークとしてはじめられていますが、
徐々に、施術の体験を通して微細なところに触れていくワークに移行されているところでした。

私が今学んでいるヒーリングのトレーニングにも、治療系のお仕事をされている方も多く、
それぞれ、お話してみると、身体に触れていると、
より微細なところを視野に入れざるを得なくなったとおっしゃる方が多いのです。

そして、治療系の仕事をしていて、最終的には「なにもしない」というところにたどり着く人は多いものです。
「どうなりたいか」は本人、つまりクライアントが知っているというところにたどり着きます。
ただ、本当の意味で「なにもしない」ことを実践するのは、
言うのは簡単でも実は難しいものだということを、講師の方々もおっしゃっていました。

クラニオのお話をしてくださった小笠原さんは、もともと宇宙物理学を学ばれていて、
オーストラリアでブラックホールの観察をしていた、というあたりも興味深いところです。
施術者としての言葉として、印象に残ったものがいくつもありました。

・知識があればあるほど、身体がやろうとしていることをトラッキングしていけるので、プロセスが進みやすい。
・施術者は安全で中立的な意識をつくる。ジャッジ、介入、矯正はしない。
・クライアントが自分の力を信じて、それが表現できる場をつくるのが施術者の役割。
・意識がニュートラルではなく、いろいろ思うことで、「変な磁気、電化」を帯びる気がする。

ロルファーの藤本さんがお話してくださった、手技療法の三分類のお話も印象的でした。
神経的に説明した場合の三つの分類と言っていたような気がします。

それは、1.直接法、2.間接法、3.バランス法です。

直接法は、緊張して縮んだものを「伸ばす」という直接的な対処
。間接法は、緊張してで縮んだものを更に行きたい方に縮めて、その反動で伸ばす方法。
バランス法は、本人が自分がどういう状態になっているかに気づいていない情報を
術者が捉えてフィードバックする方法です。

この最後のバランス法というのが、藤本さんも目指して行きたい方向であり、
ここには、術者の身体感が影響するとのことでした。

私自身はアロマセラピストとしてキャリアをスタートし、
その後エサレンマッサージを学んだので、緊張した身体をリラックスさせるのが「良い事」と思っていたので、
フェルデンクライスメソッドを学びはじめた時には、その癖がなかなか抜けませんでした。

しかし、緊張はその人が必要で持っている場合もあるので、
手放すタイミングではない時に無理やりリラックスさせるのが良いとは限りません。
そして、術者が「緊張」=「悪い」と思っていると、それが影響し、
クライアントはありのままの自分でいられなくなるわけです。

そこまで深い理解が出来ていなかった頃にトレーナーから言われた言葉は今でも残っています。
それは、「身体はその人の歴史。それを尊重しなさい」という言葉でした。

施術者は場をつくり、あとはクライアントのシステムの英知に任せる。
その「場」をつくるということが、一体どういうことなのか、というのが難しいところなのだと思います。
宇宙のシステムへの理解と信頼、そして起きていることを見続ける在り方が、場をホールドするのだと思います。

「なにもしない」はそういうこと。

エネルギーに関するこまごまとしたことは、エーテルとかアストラルとかチャクラとかなんとかかんとかは、
まあ、いろいろ捉え方はあるよね、って感じですが、施術者の在り方やめざす方向は、
そうだよね、ということが確認できたし、やはり実践されている方からのお話は、
体験という共通言語があるので、とても理解しやすくて面白かったです。