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Earth Spiral

Survival&Creative life. 
大地と魂の声を聴き、自分の道を歩め

このブログについて

たまに更新します。
最近はnoteに記事を書いていますので、Earth Spiralのnoteもご覧ください。
note Earth Spiral
星々のことば/猫の言い分/Plant Medicine/白魔術研究所ほか

うさぎメディスン

2017-04-06 | 日記的な
【うさぎちゃん】
ねこもふシャーマンの安珠です。
夢の中で
「誰かヒーリングの練習台になってくれませんか~?」
って言ったら、里山の風景と
一匹の茶色い夏毛のウサギが出てきたのよ。
「なんだ、ウサギか…」と思いながらも、
練習をはじめた。
そしたら、山から黒いビルが
ニョキニョキと生えてきて辺り一面が真っ黒に。
上空から見た黒い日本列島が現れる。
そして、あのスノーデンの映画に出てきた、
日本のシステムがマルウェアによってダウンした時のような風景。
光が消えていき真っ暗になる日本の様子を上空から見た。
♪ウサギ追いしかの山、小鮒釣りしかの川
夢は今も廻りて、忘れがたきふるさと♪
の唄が頭の中に流れてきた。
次に満月が現れる。
そうだ、ここにもウサギがいる。
ウサギって、日本のことかも…。
ってところで目が覚めた。
そんなに強くないのに、虚勢を張ろうとしている、
もしくは、張ってきた日本が
ウサギとして顕われたのかな?
とか思いながら。
ウサギメディスンを調べてみよう。
そういえば、わたしの好きな
『天から火を盗んだウサギ』ってのは
力はないけど、賢いウサギが主人公だった。
ウサギは淋しくて死んじゃったり、
うちの猫に捕まえられたりする
よわっちいものじゃないのかも。

【うさぎの神話】

ウサギの夢から、ウサギが
日本を象徴しているという感じがしていた。

アニマルメディスンに書いてあったウサギの物語はこうだ。

昔々、ウサギはとても勇敢で恐いもの知らずだった。
昔、魔女とウサギは仲良しで、ウサギが喉が渇いた、
お腹が空いたといえば、魔女は魔法でそれらを用意してくれた。
ある時、ウサギが致命的なけがをした時にも、
魔女は魔法でウサギを助けた。

しかし、それからしばらく、ウサギは魔女の前から姿を消した。

しばらくして偶然にウサギに出会った魔女は、
「なぜ、あなたは私を避けるの?」と聞くと
「その魔法が恐いから、もう君とは一緒にいたくない」
とウサギは答えた。
腹を立てた魔女は
「それなら、これからは、あなたが恐れることを、
あなたが引き寄せるような呪いかけてやる」
といって、ウサギはその魔法にかけられてしまった。

「イーグルよ、恐いから僕に近づかないで!」とウサギは言う。
イーグルに聞こえないと、もっと大きな声で
「イーグルよ、僕に近づかないで!」。

そうするとイーグルがやってきてウサギを食べる。
オオカミにもコヨーテにもクマにも、ウサギは同じことをする。

と、そんな物語だ。いよいよJapanな感じがする。
一億総忖度w

忖度はドイツ語では「先行服従」と言うような言葉らしい。興味深いね。
https://togetter.com/li/1095809

そして、先日、神保町の三省堂書店をぶらぶらしていて見つけた本。
タイトルは「隠れることと逃げることの生物学」。
タイトルだけ見て読まなかったけど、
まさにJapanっぽいなと思った。

分をわきまえ、賢く勇敢なウサギに戻りたいもの。

はて、誰に呪いをかけられたのかわからないけど、
この魔法を解かねばならないです。

病と癒し

2017-03-27 | 日記的な
病と癒しは、自分と他者(人間のみならず)、
自分とモノごとの新しい関係性の構築のための、
一体となったシステムだ。
そのシステムは必要な時に作動する。
真実の癒しとは、繋がりを修正しつつ、
全体性をとり戻していくプロセスの中で
必然的におきるものであり、
物質世界においては時間が必要なもの。

世界もやもや会議

2017-03-19 | 日記的な
世界もやもや会議

未来をめざして走る時に
置き去りにされる様々な思い
それを置いたままでは
本当の未来にはいくことができない
光をめざして進めば
いつまでたっても
光に追いつくことはできない
すべての闇と影を照らし
自分が光になれ
すべてのもやもやに目を向けて
それらを慈しむ愛の中にあれ
今日は魂の同志たちとの
もやもやミーティングだった
この、もやもやの中に
本当の未来がある
もやもやの扱い方を学んで
世界もやもや会議を開きたい
というのが目下の
我々の目標となった
May the moyamoya be with you.

*世界もふもふ会議も同時開催予定(笑)

みえない暴力

2017-03-18 | 日記的な
(すごく長いです。森友、原発事故、メディア、日本、そして信仰などについて、つらつらと)

2011年の震災が起きる直前だったと思うけど、
山口県上関原発の建設を巡って
漁業を主なる生業としている祝島住民と推進派の対立があった。

この海に原発からの排水が流されたり、
万が一、事故があったら自然の恵みで暮らしている
平和な小さな島の暮らしは壊滅的になる。

当時、その反対運動にかかわっていた若者たちが
Ustreamを使って現場の様子を毎日中継するということをしていた。
新しいメディアを使って現場の生の様子を伝えるというのが、
とても革新的だと思い、毎日ハラハラしながら、応援しながら見ていた。
現場に駆け付けた友人たちもいた。

しかし、住民や反対している人たちの思いも空しく、
強制的に工事が始まった。

裏磐梯に移住したばかりの自分は、
ふと振り返れば足元には福島県には東電の原発があった。
それについて状況をわかっていないと思い調べたら、
ちょうど福島原発40年にあたり廃炉に関するフォーラムがあることを知った。
それには、検察により陥れられた元福島県知事の佐藤栄佐久氏も講演する予定だった。

それが2011年の3月下旬だった。それに参加してみようかと考えていた矢先に、
あの巨大地震と津波、そして原発事故があった。

日本は、こんなにひどい事故があっても、あまり変わらなかった。
原発推進の石原は都知事になり、安倍は首相になり、最悪すぎて、
もうどうでもよくなった。

自分のことだけちゃんとやろう、というか、
自分を立て直すだけで精一杯だった。
あの時は、遠くから上関原発の顛末を見ているだけだったが、
いったい誰の意図で動いているのかわからないけれど、
どうやって国家権力が個々人の想いや暮らしを無視し、
目に見えない暴力により人々を抑圧していくかを、
原発事故後の福島で目の当たりにした。

そう、見えない暴力。

そして、最近自分が見聞きする話の中には、
その見えない暴力が、日常に蔓延しはじめていることをじわじわと感じていた。
無言の脅しにより、自由にものが言えなくなる雰囲気。
個人レベルでもそうだし、マスメディアもみんな。幸いと言うか残念ながらと言うか、
安穏ときてしまっている日本の問題でもあるのかもしれない。

そして、見えないところで権力が個人を押さえつけるということが行われている。
いじめ問題だって同じ構造だ。いつも見えないところで起きる。
見えないから周りの人は気付かない。

森友学園の問題を、国家権力による個人の抑圧と言う人権問題を切り口にして、
周辺の問題を暴こうという、今回の菅野氏のやり方は慧眼だし、
同時に、日本のジャーナリズムがいかに腐っていたかがよくわかる。

そして、またツイキャスと言うネットメディアを使い、
大手メディアの記者も巻き込むという荒業を見ていて、
遠くから応援したい気持ちと、これで何かが変わるかもという淡い期待をする。

同時に、前に書いた上関原発のことも、
震災後何も変わらなかった事実もあるので、
どうせやってもダメかも知れないというあきらめの気持ちも持っている。

でも、人権を無視されるということは、誰の身にも降りかかる事であり、
明日は我が身であるという問題だ。
原発避難者の問題だって、自衛隊の問題だって、
「自分の保身のために人を人とも思わない」ロール(役)があちらこちらに暗躍している。
もし、内閣が転覆しなくても、身近にあるそのロールには立ち向かわなければいけない。

数日前に書いた精油の問題だってそう。正論により自分が批判されると、
「それ以上言うと痛い目に合うわよ」と脅しをかけてくるような雰囲気。
何も国家権力レベルだけで起きているわけではない。
すべての規模でフラクタルに起きている。

わたしも、小さいことだけれど、田舎コミュニティなどでは、
はっきり表面化するわけではないが、
脅しのエネルギーのようなものを感じる時がある。
「そんなことしてると村八分になっちゃうよ」的なものとか。
それは恐ろしく気持ち悪いエネルギーだ。

自分が抵抗できる規模のものとそうでないものがあったとして、
自分が抵抗できる規模のものは、ちょっと勇気を出してみたら、
撥ね退けることは出来る。
ただし、そこで何が起きているかということをクリアに認識する必要がある。
脅している相手も無自覚な時があるから。
それが、分断を起こさず最善の対処をする方法だ。

今回の森友に関しては、菅野氏が籠池の人権を守ることに
焦点を当てて事実関係の解明にあたっている。
事態は一体どう動くかわからないけれど、関係した人たちが少しでも、
自分がやっていることに対する認識が高まり、
良き方向に事態が進むことを祈ります。

個と集団

2017-03-17 | 日記的な
森友問題ウォッチャーのあんじゅです(笑)
気になる記事があったので書きたくなった。

「教育勅語」を愛する人々

いやね、わたしもお金の問題だけなら「またかよ」って思うの。
小学生の頃にロッキード事件があったから、
「政治家って金と権力でんでん、じゃなくて云々な人たち」
って思って子供のころから見てたからさ。

今回のどうしてもウォッチしてしまうのは、
この人たちの精神構造に興味津々だから。
そして、そこに今の日本を作っている根深い問題もあり
ひいては日本のカルマにも繋がってるのではなかろうか、
って思うから。

日本って昔からなぜか嫌いだったのよ。
学校でも世界史は好きだったけど、
日本史の授業の時はこっそり受験勉強しているタイプだったので、
さっぱりわからない。

漢字で人名がいっぱい出てくるのも苦手だし。
教育勅語の「個人より集団を重視する」っていう、
この小田嶋さんの意見はなるほどだよ。

私はアレも嫌いだね、「ならぬものはならぬのです」。
目上の人を大事にしましょうとか、それはわかるけど、
なんだか若い者を抑圧している感じでいやだわ~。

道徳を説いたものって、いろいろありますが、
例えばモーセの十戒、これ、どうでしょう。
「汝、殺すなかれ」「盗むなかれ」。
「は?あたりまえなんですけど」って思いませんか?

人間って、いまだに馬鹿なところもあるけれど、
昔よりは意識って進化しているわけなんです。
だから何千年も何百年もたった教えは適用できない。
もちろん普遍的な教えもあります。それは見分けないといけない。

そして、集団主義や自己犠牲の賛美のおかしさについては重要なところです。
自分を自分として認識する個人主義の段階を経て、
健全なる集団意識が得られ、そこでやっと自分のエゴをおいて
社会や地球のために奉仕できる。


個人意識をしっかりもたない全体主義は非常に危険で、
個々人のためにもならなければ、集団のためにもならない。
それは、インテグラル理論やスパイラルダイナミクス理論などが参考になると思います。
とまあ、こういうところにも、考察すべき重要な問題が隠れています。

魑魅魍魎界に巻き込まれる人々

2017-03-02 | 日記的な
ちょっと長めのお小言。
20年以上前のバブル期には広告や編集関係の仕事してた。

編集記事と見せかけて、実は広告記事、というのはその頃から流行りだして、
何度も作ったことあるけれど、ちゃんと広告なのか純粋な編集記事なのかを読んだ人にわかるようにする、
っていうモラルは企業としても、ちゃんとしようよっていう感じだった。

最近ネット上で横行している、記事と見せかけた広告まがいにものは、
すべてと言っていいぐらい感情に働きかける。感動したらシェアとか、
驚かせるようなもの、センセーショナルなものなど、よく見かけるでしょ。
決して思考のレベルではない。

SNSだのなんだのかんだの、メディアはとても複雑化していて、
情報も毎日大量に垂れ流されていて、
しかし、みんな忙しすぎて自分で精査する時間もなくて、という世界。

だから、政治だってそう。マニフェストなんかを出してもそれを読まないで、
だいたいイメージとか感情的なものや感覚、
田舎だったら「お世話になってるから」っていう関係性で決まる。

オカルトな視点から言えば、ほおっておけば今の人間は、
アストラル界という魑魅魍魎界に反応し、巻き込まれるけど、
本当はそこからは一歩ひいておく必要がある。
つまり、ちゃんと思考を働かせないといかんということ。

人間、だんだんかしこくなってきている(はずだ)から、
アストラルレベルに働きかけるような広告手法は、
すぐに廃れると思うけど、というかそう願う。

恐れに向き合え

2017-02-09 | 日記的な
この絵に惹かれて買ったタロット。
Wild Unknown Tarot.

なんか使い道あるかな?
と思っていたが、
出番がやってきました。

仕事にまつわるある言葉を聴くと
恐ろしいものを連想してしまい
それゆえやる気につながらない
というAさんのセッション。

ハーバルタロットでは、
絵を見てワークをするセッションを
必要とあればやるのですが、
今回ばかりはハーバルタロットじゃないな…
と思い、いくつか他のタロットを出してみた。

これと、クローリーとハーバルタロット。

そしたら、このカードがしっくりくるとのことで
気になるカードを一枚選んでもらう。
選んだカードから感じる感覚を辿って
ワークをしていく。

カードから感じたことを
絵に描いてもらう。

選んだカードはソード(剣)の10で、
牛が剣で突き刺された
こわ~い絵だった。

そのカードから生まれたものが
小さく、黒い梅干しのようなもの。
名前を「ベロ」とつけた。
そんな妖怪人間いましたね。



そして、続いてのワークの中でAさんは
この黒い梅干しのような「ベロ」から
こんなメッセージをもらう。

「恐れと向き合い味わい尽くせ
そうすれば、そんなものは恐れるに足らないことが
わかるだろう」

中途半端な妄想に自分自身が
恐怖というエネルギーを与えてしまったものを
再度、よくよく見て味わってみる。

そしてAさんは、ワークを通して
どんよりした重さがなくなり
仕事に対するワクワク感が
出て来たそうな。

カードも内容もダークな感じだったので、
なんだか、ゴーストバスターをした気分でした。

このカードは準備できている人にとっては
深い闇に向き合う良いサポートをしてくれそうです。

合掌。

自然の中に己を見よ

2017-02-03 | 日記的な
節分から立春へ。
春のはじまりと共に、
冬の引きこもり研究は
ぼちぼち終えようかな。

何を読もうが、何を見ようが、
結局は目の前にある自然が、
すべてを示している。

それを有らしめている力、
その背後にある力を感じてみる。

古代の人々は天球に神を見ていた。
しかし私たちの知りうる宇宙はどんどん広がり、
宇宙の果てがわからなくなった今、
天球は失われ、神の居場所がなくなった。

しかし、神は細部に宿る、
と誰かが言ったように、
実は神はどこにでもいる。

everywhere!

その回転の中心に、
神々が鎮座している。

その中心に、そっと意識をあわせてみる。
こんにちは、ちょいといいですかね。
といって、静かにそこに心をあわせる。

書を捨て、自然に中に出よう。
自分探しをやめて自然の中に出よう。
自然こそ己を映す鏡となる。

今日は、そんな気分の節分だ。


祈ること

2017-01-31 | 日記的な
何年か前に、朝は磐梯山にお祈りをすることにした。
ひきこもりがちな冬の時期だったので、
生活のリズムをつくるのにもいいと思って、
2階の出窓から、毎朝お祈りをすることにした。

静かに手を合わせてみる。
大地の恵みに感謝するように、
磐梯山のことを思うと、
そこから、つながっている山々や、
周辺の土地、そこからさらに広がって、
結局、日本全部、そして地球全部につながっていった。

ひとつのことを思えば、
結局、地続きで全部繋がっている、
ということを、頭でのイメージだけではなく、
腑に落ちて実感したような感じだった。

また、ある日のこと、
静かに手を合わせてみると、
なぜかいつも仙骨がパキっとなった(笑)
手を合わせてそこに立っているだけで、
カラダの調整をしてもらっているような感じだった。
一度ならず、何度か同じ体験をした。

それから、ふと「今日は、あの本を読んでみよう」
「これについて調べてみよう」
と、その日にやりたいことが浮かぶようになってきた。

2011年の震災後のごたごたから、
なんとなく自分のペースがつかめず、
何をしていいかわからない頃だったので、
内発的に、何かがわいてくるのは、
とてもありがたかった。

今思えば、あの時の体験が、
自分が今までやってこなかったこと、
でも、大事なことにつながるきっかけになった気がする。

最近は、お祈りというよりは、
もっぱら瞑想に時間を使うことの方が多くなった。
瞑想は、ヒーリングのトレーニングではじめたものだが、
最初は集中瞑想がとても苦手で、
出来るまでに時間がかかった。
何事も訓練って大事だなと思う。

ハーバルタロット講座でも、
リーディングには必須だと思うので、
瞑想の練習を取り入れているし、
ヒーリングセッションでも、
セルフケアのための瞑想指導をする。

ただ、自分も苦手だったので、
出来るようになるまでに、
ちょっと時間がかかる人もいる。

でも、もし、瞑想が苦手だったら、
お祈りすることからはじめてもいいかなと思う。

自分が祈りたい対象を決めて、
毎日、そこに心をあわせること。

そうした時の「静けさ」が、
忙しい世界に生きる私たちには、
とても必要だ。

たぶん、いろいろな気づきがあると思う。
お祈り、瞑想が苦手な人にもお勧めだ。

魂の戦友

2017-01-31 | 日記的な
【魂の戦友】
昨日、久しぶりに友人たちがやっている対話に参加した。
2011年の震災直後、私も対話の活動をほそぼそと行い、
この混乱した世界を何とかしたい、より良い方向に、
という想いで数年間続けてきた。

しかし、ある時期から、全体のことを考える前に、
自分個人の中で崩壊したものを構築し直さなければ、
何も進まない段階が来て、ここ2~3年は、
自分のことに取り組むという時期であった。

もちろん、まだまだ個人的にやるべきことはたくさんあるのだけれど、
世界で様々なことが起きる中、ふと、外を見渡してみると、
1人で何かをコツコツやってるだけじゃダメな気がしてきた。

その時に、ふと脳裏に浮かんでくるのは、
2011年からのあのクリティカルな時期に一緒に対話をしたり、
出逢ってきた人たちだ。

彼らとは、何かを成し遂げましたとか、
今もプロジェクトやってますとか、
こんなことをめざして尽力していますとか、
そんな外面的なこととは、全く関係ない次元で、
何かが繋がっている感じがする、言ってみれば魂の戦友だ。

昨日の対話に行ってみたくなったのも、その戦友たちに会って、
何かを確認したくなったというのが一番の理由だった。
たまに確認のために会うのは、必要なんだなと思った。

じっくり話し、また散っていく。
そして自分の生きる場所で、ちゃんと生きている。
ただそれだけなので、助成金とかとるのは無理だ(笑)。
そういう戦友がいることに、とても勇気づけられる。

ということで、また、ひっそりと戦い続ける。