大飯原発の再稼動をめぐる橋下維新と政府・民主党の対立が深まっている。これは、政府・民主党の原発政策が定まっておらず迷走していることに一つの原因があるが、他方では維新の側にも、一体何が維新の本当の主張であるのか、今一つはっきりしないという問題がある。私は、日本の政治改革の一極としての維新には大きな期待を寄せているのであるが、大飯原発の再稼動問題をめぐるその動きには疑問を呈さざるを得ない。そこで今回は民主党や自民党の問題はひとまずおいて、維新の一連の言動とあるべき原発論議について述べてみたい。
<維新は「脱原発」か、それとも「安全強化」なのか?>
現在の維新の主張が本当の「脱原発」であるのか、それとも「原発許容」ではあるが、現在の政府対応では「安全」が担保されていないと言っているのか、はっきりしない。さらにもう一つ考えられることは、維新の主張は十分検討された政策ではなく、単に選挙の票目当ての方便ということかもしれない。これらのどれなのかが今一つ明確でない。それゆえ維新の原発政策については原発推進論者と脱原発論者の双方が期待と同時に疑念を持っているはずである。どちらにも思えるようにして、双方から期待、支持を集めるというやり方は橋下氏の政治的駆引き、勝負感の冴え、いわば政治的センスによるものであるが、これも度を過ぎると害悪ともなりかねない。現状のようなやり方は問題であると言わざるを得ないだろう。
橋下維新の発言を素直に解釈すれば「脱原発」、「反原発」ということになるが、後述するように、これでは「大阪都」、「関西州」の構想と整合性が取れない。だから必ずしも「脱原発」、「反原発」とも言えない面がある。だからと言って、「安全」を徹底した上での「原発許容」のようにも見えない。となると残るは三つ目のものということになりそうである。
維新は「「8つの提案」を原発再稼働の条件として掲げ、是非を問う構えだ。維新幹部は「原発再稼働問題では、かなりの支持が見込める」と語り、次期衆院選の争点化を進める狙いを隠さない。」(25日読売)。つまり、維新は「脱原発」を争点化することによる集票効果に目が眩んでいるのではないかと思えるのである。
維新はまだ国政に進出するに十分な定見を持っていない、言い換えれば国政のノウハウが足りないということではないだろうか。しかし、これは国政に進出できないとか、すべきでないとかを意味せず、単に維新がこれからもっと本格的に取り組まなければならない課題があるということである。要は、維新はこれからの政党だということである。
だから維新の本音、あるいは落ち着き先がどこにあるのかは、今のところはっきりしないので、断定するわけにはいかない。そこで一応現在彼らが言っていることだけについてコメントしていきたい。
<「専門化が安全を宣言すべき」という主張には賛同できる>
24日の維新と藤村官房長官との会談では、橋下氏は「政治家が安全宣言をしたのは絶対におかしい。原子力安全委員会に安全性のコメントを出させるべきだ」と述べた(24日毎日)。これに対して藤村氏は「政治家が安全を宣言しているわけではない。安全性はあくまで専門的、技術的な観点から判断されている」と反論。議論は平行線に終わったとされる(同)。
福島原発事故のような歴史的、世界的な大事故を起こした割りには、その後の政府対応はお粗末である。「一次ストレステスト」でどこまでが確認できているのか、安全保安院の「30項目の改善策」でどこまでの安全が確保出来るのか、そしてこれらと大飯との関係はどうなっているのか。今回までの仮の対策と恒久的対策との関係、そして恒久的対策はいつ完成するのか、こういうことのタイムスケジュールはどうなっているのか。またIAEAとの連携した対応はどうなっているのか。「二次ストレステスト」の内容や実施時期はどうなっているのか。そもそも福島原発の事故原因調査の結果はどうなっているのか、これと原発再稼動との関係はどうなっているのか。これらのことについての説明は、断片的かつ消極的な形では なされてきたものの、体系的で総合的かつ積極的なものとしては なされておらず、もやもやしているだけで、いつまでもすっきりしない。この間の政府対応を見ていると、あれだけの大事故に対して、明確なけじめをつけることなく以前と同様のやり方で、なし崩し的に大飯の再稼動をしようとしているように見える。実際は、それなりの検討はなされているはずであるが、説明を最小限にして乗り切ろうとする姿勢であるので、どうしても不信感がつのるのである。
政府は、これらのことについて総合的な見解を出し、地元民、国民にしっかり説明すべきだ。そして、説明は関係閣僚からはもちろんであるが、安全委員会の直接的な説明も聞きたい。従来のやり方は、安全委員会は政府の後ろに隠れ、表に出ない、そして、政府は「専門家の意見を反映した結果だ」ということで処理を進めていく、ということであったろう。しかし、これでは、どこが、そして誰がどういう考え、責任と権限を持ってやっていることなのかが明確になっていないので、何かが起きても結局はうやむやになってしまう。こういうことが無いように、事前に政府の見解と同時に、安全委員会の見解もはっきり聞いておきたいものだ。そして両者の間に矛盾がないこともしっかり確認しておきたい。なにしろ、原発の安全は、まずは優れて「技術的なこと」であるので、科学・技術者からのしっかりした説明を聞かないと納得できないのである。藤村官房長官は「専門家の意見を反映している」と言っているのだから、「安全委員会からの説明」に異存はないはずである。
<合理的で現実的な安全策が目指されるべき>
ところで、「安全」とはどういうものかについて考えてみると世の中に「完全な安全」、「絶対的な安全」というものはあり得ないことがわかる。このようなものが確保されない限り行動はできないものとすれば、事故リスクがあって車には乗れないし、墜落リスクがあって飛行機には乗れないし、副作用リスクがあって薬は飲めないし、おぼれるリスクがあって海水浴も出来ない。一事が万事こういう調子になってしまうから、こういう非現実的なものを求めることは馬鹿げたことであり、求められるべきは合理的で現実的な安全性なのである。それは十分な科学的知見にもとづき、可能な限りの想定を立て、それらの検討を行い、必要な対策を施し、さらにそれに適度な余裕をつけることによって得られた結果を、合理的で現実的な「安全確保」と見なすということであるだろう。
科学的、技術的に「完全な安全」、「絶対的な安全」を追求する努力は必要であるが、これらは極限としての理想であるので、これに到達することは出来ない。他の多くの事象と同程度にまでリスクを下げることができれば、良しとするしかないだろう。安全度が上がるたびに努力の効果は薄れ、膨大な金、時間、労力をかけても、得られる安全の改善は微々たるものになってしまう。それゆえ、どこかで「安全が確保されたこと」の線引きをする必要がある。
国の原子力安全規制や防災体制などの改革が必要なのは確かであり、大阪維新の会が出した8条件などの要求もそれなりに考慮され、可能なものは反映される必要あるだろう。しかし、実効性ある改善には更なる審議や時間が必要という現実の下で、これらを直近の必須の要件としたら、現在の国民の生活に大きな悪影響が出るとともに、そうでなくても、弱体化している日本の経済は混乱し、さらに沈んでいくことになる。だから、ここには自ずと適正な線引きが必要になってくるのである。
福島第1原発事故を受けて大飯原発が実施した安全強化措置を見ると、致命的事故に至るまでの余裕(耐性)が福島第1と比べて相当に向上していることは確かであり、「更なる強化措置を速やかに実施する事を条件として再稼働できるレベルに達している」と判断できるラインがあるはずである。政府、そして国民は、こういう考えに沿って議論をし、最適なラインを見出すことが必要であり、それはまた可能であるだろう。留意すべきことは、「安全」は一旦確立されたら、長期にわたって持続するというような固定的で静的なものではなく、変動する動的なものであり、常の監視と改善の努力の継続が求められるということである。原子力は、菅前首相のいう「統制不可能な技術」といったような、正体不明なもの、人知及ばない恐ろしいものではなく、すでに解明済みの、そして人間が統制できる技術である。ここで求められているのは、これまでのものに最大効率、最大効果の改善を継続的に加えていく営みなのである。
以下は、京都大学原子炉実験所教授・山名元原(やまな はじむ)氏による24日づけ産経【正論】記事の一部抜粋である。参考までに掲載しておきたい。「再稼働の条件として安全確保が必要であることは当然であるが、これは「社会リスクと安全リスクの対比」として判断されるべきものである。トラウマ的な感覚だけから再稼働を遅らせて社会的なダメージを被る損失はあまりに大きく、絶対安全とまでは言えなくとも、十分な安全の「余裕代」を確保できれば、再稼働して社会リスクを回避するメリットの方が高いという判断は十分にあり得る。」。ここで言われる「社会リスク」とは、原発停止が社会にもたらす負の障害要因のことである。
<原発なくして何のための「大阪都」、「関西州」?>
私の理解では、「大阪都」や「関西州」の構想は、地方行政組織を機動的、機能的、効率的、合理的なものに再編・再構築することにより、地域にあった経済の活性化方策を策定し、法律を整備して、大阪そして関西の経済を活性化したいということだろうと思っていたが、現在の維新の主張はこういうことと真っ向から対立するもの、矛盾するものである。橋下維新が提出した8提案は、原発から100キロ圏内にある都道府県との安全協定が締結できる仕組み作りや、使用済み核燃料の最終処分体制の確立といった項目を含んでいる。これは国や電力会社に、極めて高いハードルを課する内容である。もっと端的に言えば、これを認めたら、今後日本の原発は実質的に1基も再稼働できないだろう。また、橋下維新は「原発全廃(脱原発)」も唱えている。橋下市長は関電の株主提案で、原発廃止に加え
(1)再生可能エネルギーの飛躍的な導入
(2)発電部門と送電部門の分離
(3)取締役の半減と、取締役報酬の個別開示
(4)天下りの受け入れ禁止―なども求める予定であるとされる。大阪市が関電の筆頭株主とは言え、そして関電の経営の透明性が不十分なところがあるとは言え、これは大阪市が関電の経営に乗り出すことと同じような意味内容になってしまう。電力事業に素人の人たちがその経営についてどうこう言うことは、関電の経営を混乱させ行き詰らせることになってしまうだろう。もし、たとえこれが株主の立場ではなく、消費者としての大阪市からの要請であるとしても、これはやはり介入のし過ぎということであるだろう。維新の考えは、かなり混乱しているように思える。
大飯原発の再稼動を、「8提案」といった極めて厳しい要求(と言うよりも国や関電に対する敵対的な攻撃であるが)を突きつけ、大飯原発の再稼動を遅らせて、一体何をしようとしているのか? これは必然的にその他の原発も止め、関電を痛めつけ、関西圏の電力供給を不安定なものにし、節電や料金値上げで市民生活を窮屈にし、企業活動を停滞させるだろう。電力供給が不安定でかつ料金が高いとなれば、企業は寄り付かないだけでなく、現在の企業も関西圏から逃げ出すだろうし、企業の海外移転を加速させるだろう。大阪と関西は、活性化どころかますます地盤を沈下させることだろう。
地方自治体としての税収の増加は、本来の価値を清算する業界が潤って初めて実現することである。市や府の組織や体制を再編したぐらいのことでは、所詮は「出る金を減らす」だけのことで、「入る金を増やす」ことには結び付かない。金の出口を絞りこむことは重要なことではあるが、最も重要なのは「価値を生産し、稼ぐ社会システム」の構築であるはずだ。「パイ」の配分や節約摂取も重要ではあるが、パイを増やすことを考えないと所詮はジリ貧である。「カジノ誘致」が悪いとは言わないが、こんなものでは焼け石に水でしかない。
原発と再生エネルギーの問題については、すでに2月18日のエントリーで述べたのでそれを参照願えばよいのであるが、ここではそのいくつかを取り上げてみよう。原発を可及的速やかに廃止して、電力はどうするというのか? 再生エネルギーを活用するにしても、長い年月、莫大な金、広大な用地が必要となる。大阪市が原発の何十倍も要する用地を準備する? それとも、近隣の自治体に用地確保をお願いする? そんな土地がどこにある? 環境破壊はどうする? そんな金はどこにある? 大阪湾に海を埋め尽す風車、太陽光パネルを並べるのか? 電力源の再編からやっていたら電力インフラ整備が完了するまでにも数十年かかるのではないか。
<再生可能エネルギー産業では日本は飯が食えない>
原子力を再生可能エネルギーに切り替えることにより、雇用を増やし経済を活性化させるという議論がある。これはこれで部分的には間違いではないので、やる価値はあるだろうが、しかし、こんなことだけでは日本経済は立ち直らないし、日本は飯を食えないだろう。自治体や政府が助成金を出して、そういうものを支援すれば確かに雇用も増え、経済も活性化するだろう。しかし、そんな金はどこにある? もっと問題なのは、そういう仕事が終われば、あるいは投入する税金が尽きればまた元の状態に戻ってしまうということだ。輸出で食べられる? そもそも「再生可能エネルギー」産業は、一部の部品を除きどちらかと言えば低付加価値の労働集約型産業であるので、人件費が安い発展途上国に勝てるはずもない。中国でも新幹線や、原発、宇宙船などを作っているのだから、風車とか、太陽光パネルなどを作るのはわけのないことである。
<「脱原発」を「選挙の具」にするな! >
橋下維新は「脱原発」を来たるべき総選挙の争点にして、一挙に大量当選を狙っているようであるが、これでは原発を「選挙の具」にまで貶めたことにしかならない。戦いの敵が誰であるのかを明確にすることは、戦いの基本であり重要なことと思う。橋下維新は、こういう点では非常に巧みな技術を持っている。大阪の市役所労組の堕落、日教組による堕落した教育などは確かに、「敵」として設定する意味があるだろうし、そういうドラスティックなやり方でないととても改革は進まない。こういうことが出来るのが、既成政党にはない維新の強みでもある。しかし、この原発についてはその認識が誤っていると言わざるを得ない。原発は「敵」ではないし、また電気料金の問題に対してはともかくも、その他の点では関電は敵ではないはずである。
橋下市長は政府の再稼働手続きに不備があると指摘し、維新の会も政権与党である民主党の対応を批判し、次期衆院選で民主党との全面対決も辞さない方針を確認している。これは「原発」を選挙の争点にまつり上げることで、民主党を市民、国民の「敵」として設定し、これでもって選挙での大勝をもくろんでいるものと思われる。しかし、大飯の再稼動を口実に「民主党打倒」という主張にするのはいかにも不自然で、強引な仕掛けである。ここには人々を納得させる論理的必然性がない。国民の原発の安全に対する不安感を煽って、その「不安解消の方策としての維新」をアピ―ルし、大量得票を狙う作戦であると見える。選挙は戦いであるので、作戦を立てることは重要であり当然のことである。しかし、これは「策に溺れた」作戦であって、やり過ぎの感が否めない。
ここで問われるべきは、そもそも維新は「原発」をどう評価しているのかという根本的問題である。この点を曖昧にして原発を「選挙の具」とすることは許されない。
もし「脱原発」が本気であるなら、上述の理由によって、もう「大阪都」も「関西州」も何をか言わんやということになる。
橋下市長は関電を「敵」とみなして票を集めることを考えているようにも見えるが、そのようなことは許されないだろう。彼は関電が電気料金値上げに踏み切る可能性に関連し「値上げと言った瞬間に、市役所改革のやり方で関電に切り込んでいく」とけん制した。しかし、これもかなり乱暴な話である。市役所のような自治体組織と、関電のような民間企業は、その目的も運営のやり方も別のものであるから、これに市役所流のやり方を適用してもうまくいくはずもない。関電を「敵」とみなしては、大阪や関西の経済の活性化は望むべくもない。
もし、「脱原発」が、選挙目当ての方便、つまり、政権をとったあとに転換することを前提にそうしているのであれば、これは民主党の「マニフェスト詐欺」とは別種の詐欺になる。そして、こういうやり方は、たとえ「結果オーライ」ということになったとしても、国民を欺いた上での好結果であるので、政治の信頼性を壊してしまうことになる。第一、このようなやり方では、「結果オーライ」ともならず、大阪のみならず日本経済と、国民の生活が破壊されてしまうことになるだろう。
<橋下維新は、「原発政策」をもっとしっかり検討して、方向を修正すべき!>
国政は「大阪の自治」の延長ではない。共通点もあるが、国政固有の要素も多い。国政進出を目指すなら、今のうちから責任ある対応をすべきである。現状では以上に述べたように、矛盾、疑問が多いので、維新は今一度この問題を整理して、国政に進出する政党にふさわしいものにまとめ直して欲しい。橋下氏は、これまでも失言をしたり、言い過ぎたりしてきたが、民主党や自民党と異なるのは、それが誤りだとわかると、すぐに撤回したり、謝罪したりしてきたことである。これは、政治にとって非常に重要な要素であると思う。
現に26日の記事では、「大阪市の橋下市長は26日、市役所で報道陣に、「原発を再稼働させなくても(今夏の電力需要を)乗り切れるかどうかは関西府県民の努力次第。相当厳しいライフスタイルの変更をお願いすることになる。その負担が受け入れられないなら、再稼働は仕方がない」と述べ、節電策に住民の支持が得られない場合、再稼働を容認する意向を示した。」(26日読売)。これは、これまでの政府、関電に対する強硬路線の軟化を計ったものとも見える。また上述の、社会的リスクと安全リスクのバランスの上に、原発政策を進めて行くことの表明であるとも受け止められないこともない。とは言え、これだけでは本当のことはわからないので、今後の維新の言動を注視する必要がある。
人間は完全ではないから、どんなに優秀な人でも、また優秀な人が集まったとしても、誤ることもある。また、政治は生き物であり、そこでは駆け引きや勢いといったものが重要な要素でもあるから、いつも不動の固定化した主張だけをしていればよいというものでもない。柔軟で動的、そしてその中にも目標に向けて筋を貫いて行くという行動が求められるのであるから、政策が駆け引きとして唱えられたり、誤ったりぶれたりすることもあるだろう。重要なことは、誤りやブレは速やかに軌道修正して、正しい方向に進路を切り直すことだろう。維新にはそれができると思う。そのダイナミズムこそが維新の維新たるゆえんであり現在求められているものであるだろう。
原子力そしてその政策は、非常に大きな総合的技術であり、重要かつ長期に影響が及ぶものであるから、一旦「脱原発」に走り出すと、その修正には十年単位の時間が掛かることになる。本番前に現在の維新の主張を見直すには、今がラストチャンスと言えるだろう。
<維新は「脱原発」か、それとも「安全強化」なのか?>
現在の維新の主張が本当の「脱原発」であるのか、それとも「原発許容」ではあるが、現在の政府対応では「安全」が担保されていないと言っているのか、はっきりしない。さらにもう一つ考えられることは、維新の主張は十分検討された政策ではなく、単に選挙の票目当ての方便ということかもしれない。これらのどれなのかが今一つ明確でない。それゆえ維新の原発政策については原発推進論者と脱原発論者の双方が期待と同時に疑念を持っているはずである。どちらにも思えるようにして、双方から期待、支持を集めるというやり方は橋下氏の政治的駆引き、勝負感の冴え、いわば政治的センスによるものであるが、これも度を過ぎると害悪ともなりかねない。現状のようなやり方は問題であると言わざるを得ないだろう。
橋下維新の発言を素直に解釈すれば「脱原発」、「反原発」ということになるが、後述するように、これでは「大阪都」、「関西州」の構想と整合性が取れない。だから必ずしも「脱原発」、「反原発」とも言えない面がある。だからと言って、「安全」を徹底した上での「原発許容」のようにも見えない。となると残るは三つ目のものということになりそうである。
維新は「「8つの提案」を原発再稼働の条件として掲げ、是非を問う構えだ。維新幹部は「原発再稼働問題では、かなりの支持が見込める」と語り、次期衆院選の争点化を進める狙いを隠さない。」(25日読売)。つまり、維新は「脱原発」を争点化することによる集票効果に目が眩んでいるのではないかと思えるのである。
維新はまだ国政に進出するに十分な定見を持っていない、言い換えれば国政のノウハウが足りないということではないだろうか。しかし、これは国政に進出できないとか、すべきでないとかを意味せず、単に維新がこれからもっと本格的に取り組まなければならない課題があるということである。要は、維新はこれからの政党だということである。
だから維新の本音、あるいは落ち着き先がどこにあるのかは、今のところはっきりしないので、断定するわけにはいかない。そこで一応現在彼らが言っていることだけについてコメントしていきたい。
<「専門化が安全を宣言すべき」という主張には賛同できる>
24日の維新と藤村官房長官との会談では、橋下氏は「政治家が安全宣言をしたのは絶対におかしい。原子力安全委員会に安全性のコメントを出させるべきだ」と述べた(24日毎日)。これに対して藤村氏は「政治家が安全を宣言しているわけではない。安全性はあくまで専門的、技術的な観点から判断されている」と反論。議論は平行線に終わったとされる(同)。
福島原発事故のような歴史的、世界的な大事故を起こした割りには、その後の政府対応はお粗末である。「一次ストレステスト」でどこまでが確認できているのか、安全保安院の「30項目の改善策」でどこまでの安全が確保出来るのか、そしてこれらと大飯との関係はどうなっているのか。今回までの仮の対策と恒久的対策との関係、そして恒久的対策はいつ完成するのか、こういうことのタイムスケジュールはどうなっているのか。またIAEAとの連携した対応はどうなっているのか。「二次ストレステスト」の内容や実施時期はどうなっているのか。そもそも福島原発の事故原因調査の結果はどうなっているのか、これと原発再稼動との関係はどうなっているのか。これらのことについての説明は、断片的かつ消極的な形では なされてきたものの、体系的で総合的かつ積極的なものとしては なされておらず、もやもやしているだけで、いつまでもすっきりしない。この間の政府対応を見ていると、あれだけの大事故に対して、明確なけじめをつけることなく以前と同様のやり方で、なし崩し的に大飯の再稼動をしようとしているように見える。実際は、それなりの検討はなされているはずであるが、説明を最小限にして乗り切ろうとする姿勢であるので、どうしても不信感がつのるのである。
政府は、これらのことについて総合的な見解を出し、地元民、国民にしっかり説明すべきだ。そして、説明は関係閣僚からはもちろんであるが、安全委員会の直接的な説明も聞きたい。従来のやり方は、安全委員会は政府の後ろに隠れ、表に出ない、そして、政府は「専門家の意見を反映した結果だ」ということで処理を進めていく、ということであったろう。しかし、これでは、どこが、そして誰がどういう考え、責任と権限を持ってやっていることなのかが明確になっていないので、何かが起きても結局はうやむやになってしまう。こういうことが無いように、事前に政府の見解と同時に、安全委員会の見解もはっきり聞いておきたいものだ。そして両者の間に矛盾がないこともしっかり確認しておきたい。なにしろ、原発の安全は、まずは優れて「技術的なこと」であるので、科学・技術者からのしっかりした説明を聞かないと納得できないのである。藤村官房長官は「専門家の意見を反映している」と言っているのだから、「安全委員会からの説明」に異存はないはずである。
<合理的で現実的な安全策が目指されるべき>
ところで、「安全」とはどういうものかについて考えてみると世の中に「完全な安全」、「絶対的な安全」というものはあり得ないことがわかる。このようなものが確保されない限り行動はできないものとすれば、事故リスクがあって車には乗れないし、墜落リスクがあって飛行機には乗れないし、副作用リスクがあって薬は飲めないし、おぼれるリスクがあって海水浴も出来ない。一事が万事こういう調子になってしまうから、こういう非現実的なものを求めることは馬鹿げたことであり、求められるべきは合理的で現実的な安全性なのである。それは十分な科学的知見にもとづき、可能な限りの想定を立て、それらの検討を行い、必要な対策を施し、さらにそれに適度な余裕をつけることによって得られた結果を、合理的で現実的な「安全確保」と見なすということであるだろう。
科学的、技術的に「完全な安全」、「絶対的な安全」を追求する努力は必要であるが、これらは極限としての理想であるので、これに到達することは出来ない。他の多くの事象と同程度にまでリスクを下げることができれば、良しとするしかないだろう。安全度が上がるたびに努力の効果は薄れ、膨大な金、時間、労力をかけても、得られる安全の改善は微々たるものになってしまう。それゆえ、どこかで「安全が確保されたこと」の線引きをする必要がある。
国の原子力安全規制や防災体制などの改革が必要なのは確かであり、大阪維新の会が出した8条件などの要求もそれなりに考慮され、可能なものは反映される必要あるだろう。しかし、実効性ある改善には更なる審議や時間が必要という現実の下で、これらを直近の必須の要件としたら、現在の国民の生活に大きな悪影響が出るとともに、そうでなくても、弱体化している日本の経済は混乱し、さらに沈んでいくことになる。だから、ここには自ずと適正な線引きが必要になってくるのである。
福島第1原発事故を受けて大飯原発が実施した安全強化措置を見ると、致命的事故に至るまでの余裕(耐性)が福島第1と比べて相当に向上していることは確かであり、「更なる強化措置を速やかに実施する事を条件として再稼働できるレベルに達している」と判断できるラインがあるはずである。政府、そして国民は、こういう考えに沿って議論をし、最適なラインを見出すことが必要であり、それはまた可能であるだろう。留意すべきことは、「安全」は一旦確立されたら、長期にわたって持続するというような固定的で静的なものではなく、変動する動的なものであり、常の監視と改善の努力の継続が求められるということである。原子力は、菅前首相のいう「統制不可能な技術」といったような、正体不明なもの、人知及ばない恐ろしいものではなく、すでに解明済みの、そして人間が統制できる技術である。ここで求められているのは、これまでのものに最大効率、最大効果の改善を継続的に加えていく営みなのである。
以下は、京都大学原子炉実験所教授・山名元原(やまな はじむ)氏による24日づけ産経【正論】記事の一部抜粋である。参考までに掲載しておきたい。「再稼働の条件として安全確保が必要であることは当然であるが、これは「社会リスクと安全リスクの対比」として判断されるべきものである。トラウマ的な感覚だけから再稼働を遅らせて社会的なダメージを被る損失はあまりに大きく、絶対安全とまでは言えなくとも、十分な安全の「余裕代」を確保できれば、再稼働して社会リスクを回避するメリットの方が高いという判断は十分にあり得る。」。ここで言われる「社会リスク」とは、原発停止が社会にもたらす負の障害要因のことである。
<原発なくして何のための「大阪都」、「関西州」?>
私の理解では、「大阪都」や「関西州」の構想は、地方行政組織を機動的、機能的、効率的、合理的なものに再編・再構築することにより、地域にあった経済の活性化方策を策定し、法律を整備して、大阪そして関西の経済を活性化したいということだろうと思っていたが、現在の維新の主張はこういうことと真っ向から対立するもの、矛盾するものである。橋下維新が提出した8提案は、原発から100キロ圏内にある都道府県との安全協定が締結できる仕組み作りや、使用済み核燃料の最終処分体制の確立といった項目を含んでいる。これは国や電力会社に、極めて高いハードルを課する内容である。もっと端的に言えば、これを認めたら、今後日本の原発は実質的に1基も再稼働できないだろう。また、橋下維新は「原発全廃(脱原発)」も唱えている。橋下市長は関電の株主提案で、原発廃止に加え
(1)再生可能エネルギーの飛躍的な導入
(2)発電部門と送電部門の分離
(3)取締役の半減と、取締役報酬の個別開示
(4)天下りの受け入れ禁止―なども求める予定であるとされる。大阪市が関電の筆頭株主とは言え、そして関電の経営の透明性が不十分なところがあるとは言え、これは大阪市が関電の経営に乗り出すことと同じような意味内容になってしまう。電力事業に素人の人たちがその経営についてどうこう言うことは、関電の経営を混乱させ行き詰らせることになってしまうだろう。もし、たとえこれが株主の立場ではなく、消費者としての大阪市からの要請であるとしても、これはやはり介入のし過ぎということであるだろう。維新の考えは、かなり混乱しているように思える。
大飯原発の再稼動を、「8提案」といった極めて厳しい要求(と言うよりも国や関電に対する敵対的な攻撃であるが)を突きつけ、大飯原発の再稼動を遅らせて、一体何をしようとしているのか? これは必然的にその他の原発も止め、関電を痛めつけ、関西圏の電力供給を不安定なものにし、節電や料金値上げで市民生活を窮屈にし、企業活動を停滞させるだろう。電力供給が不安定でかつ料金が高いとなれば、企業は寄り付かないだけでなく、現在の企業も関西圏から逃げ出すだろうし、企業の海外移転を加速させるだろう。大阪と関西は、活性化どころかますます地盤を沈下させることだろう。
地方自治体としての税収の増加は、本来の価値を清算する業界が潤って初めて実現することである。市や府の組織や体制を再編したぐらいのことでは、所詮は「出る金を減らす」だけのことで、「入る金を増やす」ことには結び付かない。金の出口を絞りこむことは重要なことではあるが、最も重要なのは「価値を生産し、稼ぐ社会システム」の構築であるはずだ。「パイ」の配分や節約摂取も重要ではあるが、パイを増やすことを考えないと所詮はジリ貧である。「カジノ誘致」が悪いとは言わないが、こんなものでは焼け石に水でしかない。
原発と再生エネルギーの問題については、すでに2月18日のエントリーで述べたのでそれを参照願えばよいのであるが、ここではそのいくつかを取り上げてみよう。原発を可及的速やかに廃止して、電力はどうするというのか? 再生エネルギーを活用するにしても、長い年月、莫大な金、広大な用地が必要となる。大阪市が原発の何十倍も要する用地を準備する? それとも、近隣の自治体に用地確保をお願いする? そんな土地がどこにある? 環境破壊はどうする? そんな金はどこにある? 大阪湾に海を埋め尽す風車、太陽光パネルを並べるのか? 電力源の再編からやっていたら電力インフラ整備が完了するまでにも数十年かかるのではないか。
<再生可能エネルギー産業では日本は飯が食えない>
原子力を再生可能エネルギーに切り替えることにより、雇用を増やし経済を活性化させるという議論がある。これはこれで部分的には間違いではないので、やる価値はあるだろうが、しかし、こんなことだけでは日本経済は立ち直らないし、日本は飯を食えないだろう。自治体や政府が助成金を出して、そういうものを支援すれば確かに雇用も増え、経済も活性化するだろう。しかし、そんな金はどこにある? もっと問題なのは、そういう仕事が終われば、あるいは投入する税金が尽きればまた元の状態に戻ってしまうということだ。輸出で食べられる? そもそも「再生可能エネルギー」産業は、一部の部品を除きどちらかと言えば低付加価値の労働集約型産業であるので、人件費が安い発展途上国に勝てるはずもない。中国でも新幹線や、原発、宇宙船などを作っているのだから、風車とか、太陽光パネルなどを作るのはわけのないことである。
<「脱原発」を「選挙の具」にするな! >
橋下維新は「脱原発」を来たるべき総選挙の争点にして、一挙に大量当選を狙っているようであるが、これでは原発を「選挙の具」にまで貶めたことにしかならない。戦いの敵が誰であるのかを明確にすることは、戦いの基本であり重要なことと思う。橋下維新は、こういう点では非常に巧みな技術を持っている。大阪の市役所労組の堕落、日教組による堕落した教育などは確かに、「敵」として設定する意味があるだろうし、そういうドラスティックなやり方でないととても改革は進まない。こういうことが出来るのが、既成政党にはない維新の強みでもある。しかし、この原発についてはその認識が誤っていると言わざるを得ない。原発は「敵」ではないし、また電気料金の問題に対してはともかくも、その他の点では関電は敵ではないはずである。
橋下市長は政府の再稼働手続きに不備があると指摘し、維新の会も政権与党である民主党の対応を批判し、次期衆院選で民主党との全面対決も辞さない方針を確認している。これは「原発」を選挙の争点にまつり上げることで、民主党を市民、国民の「敵」として設定し、これでもって選挙での大勝をもくろんでいるものと思われる。しかし、大飯の再稼動を口実に「民主党打倒」という主張にするのはいかにも不自然で、強引な仕掛けである。ここには人々を納得させる論理的必然性がない。国民の原発の安全に対する不安感を煽って、その「不安解消の方策としての維新」をアピ―ルし、大量得票を狙う作戦であると見える。選挙は戦いであるので、作戦を立てることは重要であり当然のことである。しかし、これは「策に溺れた」作戦であって、やり過ぎの感が否めない。
ここで問われるべきは、そもそも維新は「原発」をどう評価しているのかという根本的問題である。この点を曖昧にして原発を「選挙の具」とすることは許されない。
もし「脱原発」が本気であるなら、上述の理由によって、もう「大阪都」も「関西州」も何をか言わんやということになる。
橋下市長は関電を「敵」とみなして票を集めることを考えているようにも見えるが、そのようなことは許されないだろう。彼は関電が電気料金値上げに踏み切る可能性に関連し「値上げと言った瞬間に、市役所改革のやり方で関電に切り込んでいく」とけん制した。しかし、これもかなり乱暴な話である。市役所のような自治体組織と、関電のような民間企業は、その目的も運営のやり方も別のものであるから、これに市役所流のやり方を適用してもうまくいくはずもない。関電を「敵」とみなしては、大阪や関西の経済の活性化は望むべくもない。
もし、「脱原発」が、選挙目当ての方便、つまり、政権をとったあとに転換することを前提にそうしているのであれば、これは民主党の「マニフェスト詐欺」とは別種の詐欺になる。そして、こういうやり方は、たとえ「結果オーライ」ということになったとしても、国民を欺いた上での好結果であるので、政治の信頼性を壊してしまうことになる。第一、このようなやり方では、「結果オーライ」ともならず、大阪のみならず日本経済と、国民の生活が破壊されてしまうことになるだろう。
<橋下維新は、「原発政策」をもっとしっかり検討して、方向を修正すべき!>
国政は「大阪の自治」の延長ではない。共通点もあるが、国政固有の要素も多い。国政進出を目指すなら、今のうちから責任ある対応をすべきである。現状では以上に述べたように、矛盾、疑問が多いので、維新は今一度この問題を整理して、国政に進出する政党にふさわしいものにまとめ直して欲しい。橋下氏は、これまでも失言をしたり、言い過ぎたりしてきたが、民主党や自民党と異なるのは、それが誤りだとわかると、すぐに撤回したり、謝罪したりしてきたことである。これは、政治にとって非常に重要な要素であると思う。
現に26日の記事では、「大阪市の橋下市長は26日、市役所で報道陣に、「原発を再稼働させなくても(今夏の電力需要を)乗り切れるかどうかは関西府県民の努力次第。相当厳しいライフスタイルの変更をお願いすることになる。その負担が受け入れられないなら、再稼働は仕方がない」と述べ、節電策に住民の支持が得られない場合、再稼働を容認する意向を示した。」(26日読売)。これは、これまでの政府、関電に対する強硬路線の軟化を計ったものとも見える。また上述の、社会的リスクと安全リスクのバランスの上に、原発政策を進めて行くことの表明であるとも受け止められないこともない。とは言え、これだけでは本当のことはわからないので、今後の維新の言動を注視する必要がある。
人間は完全ではないから、どんなに優秀な人でも、また優秀な人が集まったとしても、誤ることもある。また、政治は生き物であり、そこでは駆け引きや勢いといったものが重要な要素でもあるから、いつも不動の固定化した主張だけをしていればよいというものでもない。柔軟で動的、そしてその中にも目標に向けて筋を貫いて行くという行動が求められるのであるから、政策が駆け引きとして唱えられたり、誤ったりぶれたりすることもあるだろう。重要なことは、誤りやブレは速やかに軌道修正して、正しい方向に進路を切り直すことだろう。維新にはそれができると思う。そのダイナミズムこそが維新の維新たるゆえんであり現在求められているものであるだろう。
原子力そしてその政策は、非常に大きな総合的技術であり、重要かつ長期に影響が及ぶものであるから、一旦「脱原発」に走り出すと、その修正には十年単位の時間が掛かることになる。本番前に現在の維新の主張を見直すには、今がラストチャンスと言えるだろう。