Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

色絵 草花蝶文 羽団扇形小皿

2021年11月10日 12時55分16秒 | 古伊万里

 今回は、「色絵 草花蝶文 羽団扇形小皿」の紹介です。

 この「色絵 草花蝶文 羽団扇形小皿」につきましては、このブログにおきましても、既に、令和2(2020)年4月1日の「軍配羽団扇形皿の発想」のところで紹介しているところではあります。

 しかし、その時の紹介は簡単なものでしたが、詳しくは、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で紹介しているところです。

 そこで、次に、そのかつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中での紹介文を再度紹介することをもちまして、この「色絵 草花蝶文 羽団扇形小皿」の紹介とさせていただきます。

 

 

==========================================

         <古伊万里への誘い>

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

*古伊万里ギャラリー220  伊万里古九谷様式色絵草花蝶文羽団扇形小皿 (平成28年9月1日登載)

 

表面

 

 

斜め上から見たところ

 

 

裏面

 

 

 この小皿は、およそ3年半ほど前に、或る骨董市で購入したものである。

 小さいながらも目立った存在だったので、遠くから見ても目についた。

 ところが、だんだんと近づいて行くにつれ、今度は、「あれっ?」と思うようになった。何か違和感を感じるのだ・・・・・。染付にしてはおかしいし、と・・・・・?

 手に取ってよ~く見てみると、染付ではないことがわかった。なんと、青一色のみの色絵の小皿だったのである。青一色のみの上絵具の使用ではあるが、染付ではないのだから、一応、色絵には違いないのだろうと思い、珍しいので、即購入となったものである。

 シノギの削り跡など、槍を何本も並べた槍ぶすまのように鋭く、また、全体を羽団扇形にするなど、厳しい造形であり、なかなかに古格を感じさせる。

 

生 産 地 : 肥前・有田

製作年代: 江戸時代前期

サ イ ズ : 長径:11.9cm  短径:10.9cm  高さ:2.6cm

 

 

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

*古伊万里随想46  「山辺田遺跡発掘調査速報」を読んで (平成28年9月1日登載)(平成28年8月筆)   

 

 公益社団法人日本陶磁協会発行の月間機関紙「陶説」759号(2016年6月号)に、有田町教育委員会の村上伸之氏が「山辺田遺跡発掘調査速報」なる論文を寄せられた(同誌25~31頁)。

 以下に、この論文内の文章を引用しつつ、自分なりのコメントも若干加えながら、同論文を紹介したい(以下の「 」内の文章は、引用した同論文内の文章である。)。

 

 同論文によると、「山辺田(やんべた)遺跡は、佐賀県有田町のほぼ中央部、黒牟田(くろむた)地区に位置する近世の集落遺跡である。最初期の色絵磁器生産を象徴する窯場である国指定史跡山辺田窯跡の南側に隣接しており、現在は主に水田として利用されている。」とのこと。

 そもそも、「この遺跡自体は、平成4年度の工事の際に偶然発見され、・・・・・・・古九谷として伝世しているような色絵大皿片などもいくつか出土している。」という。

 その後、この遺跡については、「平成10年度の発掘調査で複数の建物跡が検出され、正式に遺跡登録されるとともに、出土資料から山辺田窯跡に関わる工房跡の可能性が高まった。」と認識されるようになったようである。

 「そして、平成25年度には色絵技術のはじまりを解明する目的で調査が実施され、六百点にも及ぶ色絵磁器片が出土した。」とのことであった。

 「これにより、出土遺物の面では、やはり山辺田遺跡は工房跡と考えるべき要件が整ったのである。残るは、確実に工房跡と分かる遺構や赤絵窯などの発見が期待された。」わけで、そのような状況のもと、平成26年度~28年度までの三カ年度の継続事業として山辺田遺跡の発掘調査が行われることになったという。

 この三カ年度にわたる継続事業による調査は、「平成26年度と27年度に現地調査を行い、28年度は平成4年度以来の出土資料の整理作業を行い、発掘調査報告書を刊行する予定になっている。」とのこと。

 27年度の調査では、「25年度及び26年度に点々と試掘を行っていた地点を中心に、表土を全面除去して」実施されたようである。それによって、建物の柱穴等が点々と残っていることも確認されたようではあるが、この27年度の調査の主目的は、確実に工房跡と実証できる遺構の発見にあったとのこと。

 幸い、「調査区の一角で、陶石の粉砕砂が集められている場所が発見された。」とのことで、「およそ150平方メートルほどの範囲に、幾重にも薄い砂が深さ30センチほど縞状に重なっており、長い年月の間に徐々に堆積したものと推測される。」とのことである。「当時、貴重な陶石は、たとえ粉砕砂であっても民家に置くことは許されておらず、これまでの出土例でも工房跡だけに限られる。」とのこと。

 「また、オロと推測される遺構も、複数発見された。」という。「オロは水簸(すいひ)した泥状の粘土を移し、適度に粘りが生じるまで保管する施設である。」とのことで、「長方形に土壙(どこう)(穴)を掘り、周囲に全体的に黄褐色の粘質土を張って土壙壁とし、その中に白色粘土が残っていた。」とのことである。「類例は、製陶業者跡である同じ有田町の中樽(なかだる)1丁目遺跡で、18世紀から19世紀にかけての例がいくつも発見されている。」とのこと。

 「その他、まるで意識的に壊したかのように破壊の進んだ赤絵窯も発見された。」という。「加えて、遺跡内で焼成前の赤絵具が入った状態の乳鉢なども出土しており、ここで上絵付けまで行われたことは間違いない。」と記している。これらのことは、「17世紀末には赤絵屋が完全に上絵付専門業者となる」わけであるが、それ以前には、各窯場において、上絵付まで行われていたことを物語っていると言えよう。

 出土遺物については、「まだ出土遺物の水洗い前で詳細は不明であるが、現状で百点近くの色絵磁器片の出土を確認している。大皿が主体であるが、ほかに鉢や瓶、器台なども出土している。」という。

 なお、出土遺物の色絵について、「伝世品には見られない、素地や上絵付けがやや粗雑な種類の製品も比較的多く、このタイプには赤絵具が使用されることが多い。いわば古九谷様式ではない初期の色絵とも言えるが、九谷古窯の開窯に際しては、こうした製品の技術が移転された可能性がある。」と記している。

 ところで、この記述はかなり重要である。「古九谷産地論争」については既に決着済みと考える研究者が多いのであるが、最近、九谷側において、大聖寺川を挟んで九谷古窯の対岸に当たる地に工房跡とみられる遺跡が発見され、その遺跡から上絵付窯跡とみられる焼土遺構と青手古九谷の陶磁片が発掘されたことに伴い、その論争が再燃してきた観があり、この記述は、それを意識して書かれているからである。論者は、九谷古窯において焼かれたものは、「古九谷様式ではない初期の色絵とも言える」ようなものではなかったのではなかろうかと言っているわけである。なお、論者は、九谷古窯の工房跡とみられる遺跡から出土してきた青手古九谷の陶磁片については、九谷古窯で焼かれたものではなく、工房で何らかの目的で使用されていた有田製の青手古九谷様式のものの残欠が混入してしまっていたのであろうと思料しているのであろうか・・・・・?
 ちなみに、「古九谷産地論争」については、当ホームページの「古伊万里随想44 古九谷産地論争」(平成24年12月1日登載):現在、このホームページは閉鎖しております)にも記しているので、御笑覧いただければ幸いである。

 最後に、同論文の「おわりに」の部分を紹介し、同論文の紹介を終了したい。

 

「            おわりに

 本焼き窯である山辺田窯跡では、色絵素地は多く出土するものの、当然のことながら、上絵付けされた製品の出土は8点ほどに過ぎない。そのため、色絵素地と伝世品との比較によって完成品の姿を特定できる例はあるものの、特に染付を伴わない白磁を素地とするものなどでは困難である。しかし、山辺田遺跡の発見によって多くの色絵磁器が出土したことから、山辺田窯跡で生産された色絵がどのような種類の製品であったのか、より鮮明に把握することが可能となった。また、窯跡とそれに関わった工房跡の位置関係が判明したことにより、今後別の窯跡についても、工房の位置を推測する上で、貴重な手がかりができた。平成26・27年度調査の出土遺物については、まだほとんど手付かずの状態であるため、今後整理作業が進めば、さらにさまざまなことが判明するものと思われる。 」

 

 

<付記>

 文章だけでは寂しいものがあるので、この論文の内容とは直接の関連はないが、これまでに当ホームページに紹介していないものの中で現在手元にある古伊万里のうちから、多少はこの論文の内容や時代に近いものを次に紹介したい。
 なお、この小皿に関するコメントについては、「古伊万里ギャラリー220」:上掲の「*古伊万里ギャラリー220  伊万里古九谷様式色絵草花蝶文羽団扇形小皿)」)を参照されたい。

 

表面

 

 

 斜め上から見たところ

 

 

裏面

 

 

==========================================