土手猫の手

《Plala Broach からお引っ越し》

「環状線の虹」(三・四)

2011-12-19 00:30:07 | 短編小説(創作)
「地下鉄も止まってます」そう言いながら、コンビニの袋を両手に下げて彼女は帰ってきた。中身はカップ麺の五、六個と、おにぎりの七、八個、それに菓子。聞けば、帰宅出来るかどうか怪しいので、取り敢えず買ってきたという。サンドイッチはもう売り切れていて、これも買い占めるみたいで、人目が気になったので、思わずパフォーマンスに領収書を切ってもらおうかと思ったけど、それもまた迷惑なので早々に逃げてきた。というようなことを言っていたと記憶している。
 それから、それらを空のダンボールの中に開け、レシートをセロファンテープで縁に留めて、こう言い放った。「お金は、ここに入れてね」。
 一見おっとりとしてるこの同僚が、実は目前の利く行動的な人間だと判明した一件だった。
 結局、遠距離通勤組の殆どが帰るのを諦めて会社に泊まることになった。例外は家庭持ちだったか。迷った自分は、徒歩で帰るルートをグーグルマップで調べ、from: 目黒、to: 神保町、約一〇キロ、二時間程で帰れそうだったので歩くことにした。他にも数人が同様に調べた結果帰ると決めた。あの日は金曜日だった。明くる日の出社を考えなくて良かった。
 一階に入っているドラッグストアで、ペットボトルのお茶と缶コーヒーの二本に、買ったことの無い天然酵母のパンを一つ。帰る頃には菓子パンも既に売り切れていた。一緒に出た同僚とは駅で別れた。「無印に、スニーカー残ってるかなあ」と言っていた。
 人で溢れかえる駅ビルの中へ入っていった彼女を見送った後、私は背を丸めて歩く帰宅困難者の列に混ざって目黒通りを歩いた。途中、脇に入る道の先に明りが灯っているのを認めて一人列から離れた。
 間口二間有るか無いかの、ビルの、その小さなセレクトショップには、私は今までにも何度か立ち寄っていた。何も買わずにしれっと出てくるには、少々勇気を要するくらい狭い店なのだが。バッグの値段にふんぎりがつかず、店員の視線をよそに眺めては帰るを私は繰り返していた。肩掛けの他、背負いも出来るそのボストンは、洗いをかけた革が柔らかく、焦げ茶の色に使い込んだような風合いがあった。久しぶりに入った店にそれがまだ残っているのを見つけて、私は観念した。

「タグを切ってもらえますか」
「このままお使いになりますか?」
 見覚えのある中年の女性が、にっこりと微笑んだ。
「パフォーマンス」の一言が、頭をよぎる。実際これから二時間の道のりを歩く訳なのだから、手に何も持たずに済めば。ポケットに、手もつっこめる。それはそうなのだが、よりによってこんな日にと、何か気が引けていたのも事実だった。
 そんなこちらの気持ちを知ってか知らずでか、彼女は何か、淡い色のパッケージが入ったかごを、そっとレジ脇に置いて顔を上げた。
「オーガニックコットンタオルのストールなんですよ。お好みの色をどうぞ」
 ビニールの薄い袋の中に収まった、オレンジ、ピンク、ブルー、若草、生成り。私は芥子色を手に取った。
「優しい色合いですね」
「これから、春先から夏にかけてね、明るい色もいいでしょう」
 そう尋ねるように言うと、女性はバッグを保存する為の白い布袋とストールを一緒に包み、タグに鋏を入れた。
 テレビの代わり、か。リュックにペットボトルと手提げを詰め込んで、カードが返ってくるのを待つ間私は考えていた。翌日買う筈だった、変更せざるを得なくなった、翌日の予定のことを。
「ありがとうございます」
 手渡されたカードを収めて、ふと店の奥を見やり、気がついた。
「大丈夫でしたか?」
 視線で察したのだろう、彼女は振り返った。
「ええ、おかげさまで被害はあれだけ」
 店の隅に追いやられてるハンガーの、木を模したその枝の何本かが折れていた。
「ごらんのとおり狭い店でしょ。どうしても棚は薄くなるから、それは初めにくくり付けてもらって、大丈夫だったんですけど。ハンガーは無理よね」
「ハンガーだけですか」
「揺れが東西だったから、かしら。棚の商品は倒れただけでどうにか。もちろん、お客様のバッグは大丈夫、ご安心下さいね。落っこちたのは、ハンガーに掛けてあったトートだけ」
 店先の、出入り口脇まで来て私達は立ち止まった。
「それでここだけ、ぽっかりと空いてたんですね。大変でしたね……」
 私の言葉に大きく頷いて、そして。
「『訳有り』セールを致しますから、またお越し下さいね」
 彼女は、そう付け加えた。
 片付けられた店内。何一つ変わりなく見えたのは、見たいものしか見てないからか。
「後先だった」
 店を出て、通りの列に戻ったところで、私はひとりつぶやいた。

  ◯

「おおっ!」
 年配の男性が声をあげる。洗面所のノブに手をかけていた私と鉢合わせして極り悪そうにしているその人の、脇を軽く会釈してすり抜ける。さっきまで何も置かれてなかったソファーの上に薄手のジャンパーが丸められている。壁に掛かったカレンダーが小さく左右に揺れている。29、30に「休診」の赤い文字が並んでいる。1、2……カレンダーをめくって気がつく。
 さっき言ってたのはもしかしたら? いや、今さら気にしたところで巻き戻せる訳じゃなし、訂正するにも、訂正、するまでもないことだ。私は一つ、長い溜め息をつき、受付の脇を通り抜けた。
「お世話様でした」
「お大事に」
 昼は、どうしようか。混雑する秋葉原で待たされるのも、また面倒だ。私は行きつけのカフェに行き、サンドイッチとカフェラテを頼んだ。
 パンなら構わないだろう、ラテならコーヒーよりは幾分刺激が弱いかな。別に誰に見とがめられる訳でもないのに、何とは無しに思う癖がついている。左の頬は感覚がまだおかしい。もう少し、時間を置こうか。頬を押さえたそのままの格好で、二階の窓辺で肘をつく。昼になって人の出の増えた駅周辺でも、行き交う人の流れは心無しかゆったりとしてるようで。出社する要の無い、土曜の街は普段と違って見える。
『CLOSED』。歯医者からの帰り道の途中に有る、あの店の定休日がいつなのかなど今まで気に留めたことも無かった。
 靖国神社の桜が五輪、六輪開いたと、ニュースに上った頃だったと思う。

「売り上げの一部を被災地への義援金に充てさせていただきます」。そう一言書き添えられた、赤い『SALE』の文字がウィンドーに張られているのを見て、私は思い出した。
 接客中の彼女に、声をかけるのは後回しにして店内を見渡す。小さなワゴンの中に、あの日隅に追いやられていたトートバッグが、「訳有り・半額」と書かれた紙きれと一緒に置かれていた。
「こちらの代金は、全額寄付に回させていただきます」。買い物を済ませた客に話しかける声が聞こえる。
「こんにちは」
「先日は、ありがとうございました」
「『全額』は、これですか?」
「ええ。特別ひどい傷が有る訳でも無いんですけど、ご存知のように『訳有り』でしょ。商品として買っていただくのなら、せめてと思って。それぐらいしか出来ませんものね」
「あの時、もう考えられていたんですか?」
「いえいえ後で。後で、思いついたんです。最初は、ただただ『あーあ』でしたよ」
 彼女は自嘲するかのように、笑ってみせた。
「私も『せめて』に協力させて、ほんの少し、協力させていただこうかな」
「ありがとうございます。……その色、お似合いになりますね」
「ああ、ありがとうございます。重宝してます」
「恐れ入ります」

 結局、バッグを買ったばかりの私は、まだだいぶ先の「母の日」の為にスカーフを一枚と、実は売り物だった、このタオルのストールを二枚買って店を後にした。
 まだ吹く風が冷たい、春浅い日のひとときだった。