土手猫の手

《Plala Broach からお引っ越し》

「環状線の虹」(八)了

2011-12-25 07:00:13 | 短編小説(創作)
 ……明るい。ここは、神田か。あと一駅だ、乗り過ごさなくて良かった。
 まさかあの薬の所為ではあるまい。土曜日だというのに早起きをしたものだから、調子が狂ってしまった。一度ならず、二度までも眠りこけてしまった私は、自分自身に向かってそう繕った。電車の中で寝入るなんて。車両を見回して、乗客が自分だけということを確認して私はほっとした。だが、それもつかの間だった。
 一人? 今一度、車両を見回す。自分が乗る車両には誰一人、他の乗客は居ない。両隣の車両には、遠くに一人かろうじて、うつむいた腕を組んだ人が見える。ホームに人影は無い。向かい側の車両扉は、右も左も次もまたその次も全て開いている。そういえば、やけに停車時間が長い。時間を確認しようと袖に手をかけたとたん、アナウンスが入った。
「濃霧のため、ただ今全線で運転を見合わせております」
 全く、車内とホームの明りに目が眩んでもいたのか。あらためて外を確認すると、線路の先は、もう見えない。袖をずらして時刻を確認する。七時二〇分。一体いつから、この電車は止まっていたのか。まさか周回、自分が、ぐるぐる廻ってしまったのか。しかし既に、目黒駅を出てから六時間余りも経っている。ずっと止まっていたとは考えにくい。私は、あまりのことに唖然とした。だがそれよりも、パスモだ。私はパスモで入っている。もうやってしまったことは仕方ないとして、このまますんなり自動改札を通れるとは思えない。どうしよう。私は霧の中にぽっかりと浮かんだ誰も居ないホームに降り立ち、どうしようもない進むしかない、出口へと続く階段に向かった。「不覚」、と叫びたい気持ちを押さえながら。
 山手線の内回り、三番線を下りた正面には、道を塞ぐように太い柱が立っている。この柱の前に廻ると有るのが、ちょっと風変わりなエスカレーターだ。駅に入って、象牙色のタイルが張られた四角い柱の間をくぐり、アーチ状の天井の下まで来ると、改札を超えたすぐ先に一基のエスカレーターを見つけることが出来る。それはさながら、広いコンコースの中央からホームの床穴に直接架ける梯子、タラップのようで。何か昔見た、懐かしい不思議な感覚を呼び起こさせるものだった。今は節電のために柵で囲われ動いてないが、左脇にちょこんと置かれた短い、七段ばかりのエスカレーターと、二つ並んだこの景色が私は好きだった。弟と何度も何度も乗って下りて遊んだ「子ども用」の、乗れないエスカレーターを、ひとしきり眺めて。いよいよ、私は意を決した。
 だが、その覚悟とは裏腹にエラー音は鳴らなかった。運休とは、そういうものなのだろうか? 理由は定かでないが、何にせよ出られたのだから構わないだろう。とにかく、今はここを離れるのが先決だ。駅員が見えないのをいいことに、私はそそくさと駅を後にした。
 右手に東口、左手に北口という一見おかしな構造は、線路が東西南北を斜めに横切っているためからだが。地割りに対して直角に通っていない道が、どれだけ人の感覚を狂わすものかということを、私はこの駅で知っていた。そんな訳で、私は東口から外へ出た。家に帰るつもりが反対の大手町の方へ向かってた、なんて失敗をしないように。東口なら、道なりに歩いていけば靖国通りに出る。通りを超えた先の秋葉原には、さすがにもうこれからという気力は無いが。この霧の中を歩くのなら、大通りの方が安全だ。それにまた、大手町に出てしまう危険も無い。
 東口の通路は、上を何本もの線路が走る高架下に位置していて、昼間でも明りが必要なくらい薄暗いところなのだが。減灯の上、通路に点在する店が閉まっている週末のこの日は、いつもに増して暗かった。崩れた煉瓦塀に、埃のこびりついた換気口。生暖かい空気が籠るほんの数メートルが、いやに長く感じられた。
 錆びた鉄と、濡れた葉と土くれの匂い。雨が降った後の川の、匂い。街灯の光がわずかに揺らぐだけの街は、どこまで行っても果てが無い気がした。
 それにしても、いくら土曜だと言っても、車の一台も通らないなんて。交通規制、封鎖でもしているのだろうか。そういえば、さっきから赤の点滅ばかりを見ていたような。車両一時停止。それにしても、人っ子ひとり見かけない。このまま、須田町の交差点まで誰ともすれ違わなかったら……
 私は、この滅多に経験することのない濃い霧がもう少し、あと少し、ずっと、消えないで欲しいと願っていた。
 殆どのビルが明りを落としていても、不思議と街は暗くない。白は光を反射する。厚い雲に覆われた夜の空が晴れた夜空より明るく感じられるように、霧は闇の中に沈まない。間引きした街灯と、点滅する赤信号。秋葉原の看板も明りを落としている。神田川を超えて、ひんやりとした風がやってくる。ふと見上げると、遥か高みに仄かに浮かぶ、白い月が見えた。細い赤い環が滲む、暈のかかった円い月。
 ずいぶん小さい……虹だけど。私は深く息を吸い込んだ。湿り気を帯びた大気は、記憶の中に有る夏の初めの匂いがした。「明るい色もいいでしょう」……私はまだ、あれからずっと、焦げ茶色のバッグを使い続けていた。

 霧が晴れてきた? いや、灯りだ。白く伸びる、横断歩道が見えている。道の突当りに一つ、灯りの点いた建物が見える。ここは靖国通りの筈だが、何か、変だ。明りが、信号が少ない? この交差点は五叉路の筈だ。なのに赤の点滅は、上下に一、二、三、……信号の下に伸びる道は、かろうして見える二本と、そしてそこへ繋がる、たった今自分が歩いてきた後ろの道。通行止めにしては、停止標示も見えない。まるで三叉路だ。
 灯りを見つめていた分、深くなっていた霧に気づかなかったのか。古い石造りの建物の建つ道の手前で私は立ち尽した。
 この建物には、見覚えが有る。だとすれば、やはりここは靖国通りに違いない。以前、車で通った時に、信号を待つ間に見たことが有る。昭和初期の近代建築が持つ、そのモダンな佇まいに惹きつけられて、そのうち、いつかまた、いつかと思っていながらそのままで。何年経っただろう、今の今まで、忘れていた建物。
 一、二、三、五階建て。建物の右肩から射す月の光で窓の数を数える。ブラインドの降りた窓。一階の、玄関の両脇の窓にはシャッターが降ろされている。錆色の花崗岩の石張りに、上はスクラッチタイルの外壁。一階と二階を分ける石とタイルの間には、ギリシア雷文の装飾が帯のように巡らされている。採光のためのはめ殺しを上に設けた玄関の、焦げ茶色の扉の中央には細長い板硝子がはめ込まれ、内側には日除けの白いカーテンが引かれている。ひさしの裏には、アイアンで縁取られた花の意匠の照明器具が一つ、白熱灯の光が隅切の入り口を照らしている。隅切、だっただろうか。確か、横付けした、いや、一度きりしか見てないのだから、きっと記憶違いだろう。私は三叉路の、隅切の前で立ち止まった。観音開きの片側だけが開いたままになっている。
 あの日、自宅へと歩く人々のために、多くの施設がそうだったように。今夜は、濃霧に迷う人のために、扉を開けてくれているのか。
 入り口に架かる三段の階段を上がって、扉へ歩み寄る。金属の框の中の、くもりの無い一枚硝子と、その上を横に渡る、磨かれた三本の真鍮の取っ手が、古いながらも大切に扱われてきたことを物語っている。半分だけ開かれた通路の奥で、床に敷かれた正方形のテラゾータイルの粒子が光る。グレースケールのように広がる路を中に入り、そのまま左へ折れて、辺りに目を配る。……暗い。
 中は思いの外暗かった。門灯の灯り一つで、あんなにも明るく感じられるものだとは。私は改めて目を凝らしてみた。暗がりの奥の奥に何かが見える。何か……
 私は思わず後しざった、踵が固い何かにぶつかった。乾いた音が反響する。肩が反射的に跳ね上がる。慌てて振り返った目の前に椅子が、薄暗がりでも一目でそれと解る、学校の昔の、木の、生徒の椅子が有った。
 折りたたみのパイプ椅子、革張りの肘掛け椅子、布張りの安楽椅子、木製のベンチ、スツール、ロッキング・チェア、車椅子。椅子は一つではなかった。そこには、何の関連性も見受けられない幾つもの椅子が置かれていた。
 私は椅子が用意されているのを見てほっとした。背もたれの有る椅子にくずおれると、背中を押し返すバッグを胸の前に抱えこんだ。……考えられない。なんで、観覧車!
 そこには観覧車が置かれていた。空間を占拠するかのようにそびえ立つ、天井まで届く大きな観覧車。一階の天井ではない、五階の天井にまで届く大きな観覧車が。
 一体これは、まさか……倉庫ではあるまい、これだけの建造物。だけど何故、がらんどうだなんて。床は? 天井は? 落ちた、いや、やめよう。それよりも、こんなところに入れられてる目的は。景色を見るためのものを、屋内にだなんて。何も無い壁を見たところでどうしようも、ないだろうに。なんで。どう考えても、意味が解らない。
 私は混乱した。考えたところで、納得のいく答えなど見つかりそうにないと解っているのにやめられなかった。理由を探せば探すほど、私は不安になっていった。
 二連の輪っかの間にぶら下がった十二の円いゴンドラ、太い支柱、鈍色の鉄の骨組み。どう見てもオブジェじゃない、本物だ。かといってスクラップのようにも見えない。 
 すくんだまま見上げていた私は、目が暗がりに慣れるころになって、ようやく首の痛みに気がついた。そして、そこに有るのが、観覧車だけではなかったことにも気がついた。しかしそれも、答えになりそうになかった。
 左真横に、階段が付いていた。まるでタラップだ。どこをどう見ても電源は、動力に見えるものは置かれてなかったが、乗り込むに必要な梯子は付いていた。それも天辺のゴンドラに架かった、梯子。それは……すべり台、だろ?
 傍に行けば他にも何か、有るのだろうか。私はバッグを横の丸椅子に下ろすと、遠巻きにそろそろと、梯子に近寄った。特別注意書きも、搭乗を遮る柵も、チェーンも張られていない。足元から見上げる二つの巨大な鉄の塊は、やはりと言うべき異様な様相をたたえていたが、どうにも逃げられる気がしなかった。
 梯子状の階段は、円の真横までは斜めに立っていたが、そこから先は円に沿うスロープように緩やかな弧を描いていた。階段は一番上に止まっているゴンドラの、その上まで続いていた。一番上まで来てみると、観覧車の二本の車輪の間に、ゴンドラをぶら下げるための太い軸が一本、鉄棒のように、目の前に横たわっていた。天井も窓硝子も無いフレームだけの、空に開かれたゴンドラだった。昔のものかもしれない。私は手すりに掴まったまま辺りを見渡した。隅切部分の一番上のそのまた上に、明り取りの円い天窓が有った。淡い光がゴンドラの中を照らしていた。これのおかげで真っ暗闇にならずに済んだのか。鉄棒までは人ひとり乗り込む距離が口を開けている。私は、腹を決めた。
 乗り込むのに、さほど時間はかからなかった。意外な程簡単に滑り込めるものだと感心した。しかし、これからどうしよう。よく考えてみれば、戻る方は簡単ではないかもしれない。余震のことも忘れてた。わずかに震えるゴンドラの中で、まんじりともせずに考える。そっと、座席の木目をなぞってみる。……恐くない。誰も居ないのに、何も無い部屋なのに、ここは暖かい。冷たい筈の鉄の感触さえ、気にならなかった。
 解ってる。理由なんてどうでも、見えるものが壁だけだって。乗ってみたかった、乗りたかったんだ。目の前に有る、観覧車に。
 充足が、肩から力を抜けさせる。一息つくと、私は椅子の並んだ、さっきまで自分が居た場所を見てみようと、ほんの少し身を乗り出した。すると、まるで自らの重みを動力とするかのように、静かに、ゴンドラが動き始めた。
 キイ、と金属の滑る音が鳴る。降ろされたブラインドがかすかに揺れる、そこから光が漏れ入る。壁のわずかな色の変化が見て取れる。ゆっくりと天井が遠ざかる。漆喰の梁が壁に陰影を刻んでる。一つ、また一つと目に映るものが、静かに形を変えていく。扉と同じ色だろう腰板。壁際に置かれた椅子が、こちらを見上げている。置きっぱなしのバッグが。誰か入ってきたら、いや、入ってきて……
 私は扉を見つめた。風が吹いて、灯りが揺れた。見えない時間が回り、やがて、順行のゴンドラは帰途に着いた。
 私はバッグのもとへ帰った。腕に抱えると、丸椅子が目に入った。私の椅子に、よく似てる。円い縁にへこみが見える、けれども脚のひびは見つからなかった。何かが頬を、つたった。
 丸椅子に腰を掛け、私はもう一度、観覧車を仰ぎ見た。鈍色だった空間に、少しずつ色が、甦っていく。霧が晴れてきたのか。満月が天窓の上まで、移動してきたのかもしれないと思った。ずいぶんと長い間、ここに居る気がした。私は光を探し、手首をかざしてみた。
 円いフェイスの中で、短針を上に、針は、「L」の字に停まっている。4の無い文字盤の、窓に覗く「1」の文字。つきたち。陰暦は……
 そうか。それでも、あれは確かに円い虹を抱く白い、月だった。
 見えない月の、見えない光。窓から射し込む、月の光が、天頂に架かって。観覧車の天辺が光を反射し、アーチを描く。
 観覧車は銀色だった。
 しろがねに輝く、まるで……
 扉を開ける音がして、
「白い虹」
 声が、聞こえた。