土手猫の手

《Plala Broach からお引っ越し》

「環状線の虹」(八)了

2011-12-25 07:00:13 | 短編小説(創作)
 ……明るい。ここは、神田か。あと一駅だ、乗り過ごさなくて良かった。
 まさかあの薬の所為ではあるまい。土曜日だというのに早起きをしたものだから、調子が狂ってしまった。一度ならず、二度までも眠りこけてしまった私は、自分自身に向かってそう繕った。電車の中で寝入るなんて。車両を見回して、乗客が自分だけということを確認して私はほっとした。だが、それもつかの間だった。
 一人? 今一度、車両を見回す。自分が乗る車両には誰一人、他の乗客は居ない。両隣の車両には、遠くに一人かろうじて、うつむいた腕を組んだ人が見える。ホームに人影は無い。向かい側の車両扉は、右も左も次もまたその次も全て開いている。そういえば、やけに停車時間が長い。時間を確認しようと袖に手をかけたとたん、アナウンスが入った。
「濃霧のため、ただ今全線で運転を見合わせております」
 全く、車内とホームの明りに目が眩んでもいたのか。あらためて外を確認すると、線路の先は、もう見えない。袖をずらして時刻を確認する。七時二〇分。一体いつから、この電車は止まっていたのか。まさか周回、自分が、ぐるぐる廻ってしまったのか。しかし既に、目黒駅を出てから六時間余りも経っている。ずっと止まっていたとは考えにくい。私は、あまりのことに唖然とした。だがそれよりも、パスモだ。私はパスモで入っている。もうやってしまったことは仕方ないとして、このまますんなり自動改札を通れるとは思えない。どうしよう。私は霧の中にぽっかりと浮かんだ誰も居ないホームに降り立ち、どうしようもない進むしかない、出口へと続く階段に向かった。「不覚」、と叫びたい気持ちを押さえながら。
 山手線の内回り、三番線を下りた正面には、道を塞ぐように太い柱が立っている。この柱の前に廻ると有るのが、ちょっと風変わりなエスカレーターだ。駅に入って、象牙色のタイルが張られた四角い柱の間をくぐり、アーチ状の天井の下まで来ると、改札を超えたすぐ先に一基のエスカレーターを見つけることが出来る。それはさながら、広いコンコースの中央からホームの床穴に直接架ける梯子、タラップのようで。何か昔見た、懐かしい不思議な感覚を呼び起こさせるものだった。今は節電のために柵で囲われ動いてないが、左脇にちょこんと置かれた短い、七段ばかりのエスカレーターと、二つ並んだこの景色が私は好きだった。弟と何度も何度も乗って下りて遊んだ「子ども用」の、乗れないエスカレーターを、ひとしきり眺めて。いよいよ、私は意を決した。
 だが、その覚悟とは裏腹にエラー音は鳴らなかった。運休とは、そういうものなのだろうか? 理由は定かでないが、何にせよ出られたのだから構わないだろう。とにかく、今はここを離れるのが先決だ。駅員が見えないのをいいことに、私はそそくさと駅を後にした。
 右手に東口、左手に北口という一見おかしな構造は、線路が東西南北を斜めに横切っているためからだが。地割りに対して直角に通っていない道が、どれだけ人の感覚を狂わすものかということを、私はこの駅で知っていた。そんな訳で、私は東口から外へ出た。家に帰るつもりが反対の大手町の方へ向かってた、なんて失敗をしないように。東口なら、道なりに歩いていけば靖国通りに出る。通りを超えた先の秋葉原には、さすがにもうこれからという気力は無いが。この霧の中を歩くのなら、大通りの方が安全だ。それにまた、大手町に出てしまう危険も無い。
 東口の通路は、上を何本もの線路が走る高架下に位置していて、昼間でも明りが必要なくらい薄暗いところなのだが。減灯の上、通路に点在する店が閉まっている週末のこの日は、いつもに増して暗かった。崩れた煉瓦塀に、埃のこびりついた換気口。生暖かい空気が籠るほんの数メートルが、いやに長く感じられた。
 錆びた鉄と、濡れた葉と土くれの匂い。雨が降った後の川の、匂い。街灯の光がわずかに揺らぐだけの街は、どこまで行っても果てが無い気がした。
 それにしても、いくら土曜だと言っても、車の一台も通らないなんて。交通規制、封鎖でもしているのだろうか。そういえば、さっきから赤の点滅ばかりを見ていたような。車両一時停止。それにしても、人っ子ひとり見かけない。このまま、須田町の交差点まで誰ともすれ違わなかったら……
 私は、この滅多に経験することのない濃い霧がもう少し、あと少し、ずっと、消えないで欲しいと願っていた。
 殆どのビルが明りを落としていても、不思議と街は暗くない。白は光を反射する。厚い雲に覆われた夜の空が晴れた夜空より明るく感じられるように、霧は闇の中に沈まない。間引きした街灯と、点滅する赤信号。秋葉原の看板も明りを落としている。神田川を超えて、ひんやりとした風がやってくる。ふと見上げると、遥か高みに仄かに浮かぶ、白い月が見えた。細い赤い環が滲む、暈のかかった円い月。
 ずいぶん小さい……虹だけど。私は深く息を吸い込んだ。湿り気を帯びた大気は、記憶の中に有る夏の初めの匂いがした。「明るい色もいいでしょう」……私はまだ、あれからずっと、焦げ茶色のバッグを使い続けていた。

 霧が晴れてきた? いや、灯りだ。白く伸びる、横断歩道が見えている。道の突当りに一つ、灯りの点いた建物が見える。ここは靖国通りの筈だが、何か、変だ。明りが、信号が少ない? この交差点は五叉路の筈だ。なのに赤の点滅は、上下に一、二、三、……信号の下に伸びる道は、かろうして見える二本と、そしてそこへ繋がる、たった今自分が歩いてきた後ろの道。通行止めにしては、停止標示も見えない。まるで三叉路だ。
 灯りを見つめていた分、深くなっていた霧に気づかなかったのか。古い石造りの建物の建つ道の手前で私は立ち尽した。
 この建物には、見覚えが有る。だとすれば、やはりここは靖国通りに違いない。以前、車で通った時に、信号を待つ間に見たことが有る。昭和初期の近代建築が持つ、そのモダンな佇まいに惹きつけられて、そのうち、いつかまた、いつかと思っていながらそのままで。何年経っただろう、今の今まで、忘れていた建物。
 一、二、三、五階建て。建物の右肩から射す月の光で窓の数を数える。ブラインドの降りた窓。一階の、玄関の両脇の窓にはシャッターが降ろされている。錆色の花崗岩の石張りに、上はスクラッチタイルの外壁。一階と二階を分ける石とタイルの間には、ギリシア雷文の装飾が帯のように巡らされている。採光のためのはめ殺しを上に設けた玄関の、焦げ茶色の扉の中央には細長い板硝子がはめ込まれ、内側には日除けの白いカーテンが引かれている。ひさしの裏には、アイアンで縁取られた花の意匠の照明器具が一つ、白熱灯の光が隅切の入り口を照らしている。隅切、だっただろうか。確か、横付けした、いや、一度きりしか見てないのだから、きっと記憶違いだろう。私は三叉路の、隅切の前で立ち止まった。観音開きの片側だけが開いたままになっている。
 あの日、自宅へと歩く人々のために、多くの施設がそうだったように。今夜は、濃霧に迷う人のために、扉を開けてくれているのか。
 入り口に架かる三段の階段を上がって、扉へ歩み寄る。金属の框の中の、くもりの無い一枚硝子と、その上を横に渡る、磨かれた三本の真鍮の取っ手が、古いながらも大切に扱われてきたことを物語っている。半分だけ開かれた通路の奥で、床に敷かれた正方形のテラゾータイルの粒子が光る。グレースケールのように広がる路を中に入り、そのまま左へ折れて、辺りに目を配る。……暗い。
 中は思いの外暗かった。門灯の灯り一つで、あんなにも明るく感じられるものだとは。私は改めて目を凝らしてみた。暗がりの奥の奥に何かが見える。何か……
 私は思わず後しざった、踵が固い何かにぶつかった。乾いた音が反響する。肩が反射的に跳ね上がる。慌てて振り返った目の前に椅子が、薄暗がりでも一目でそれと解る、学校の昔の、木の、生徒の椅子が有った。
 折りたたみのパイプ椅子、革張りの肘掛け椅子、布張りの安楽椅子、木製のベンチ、スツール、ロッキング・チェア、車椅子。椅子は一つではなかった。そこには、何の関連性も見受けられない幾つもの椅子が置かれていた。
 私は椅子が用意されているのを見てほっとした。背もたれの有る椅子にくずおれると、背中を押し返すバッグを胸の前に抱えこんだ。……考えられない。なんで、観覧車!
 そこには観覧車が置かれていた。空間を占拠するかのようにそびえ立つ、天井まで届く大きな観覧車。一階の天井ではない、五階の天井にまで届く大きな観覧車が。
 一体これは、まさか……倉庫ではあるまい、これだけの建造物。だけど何故、がらんどうだなんて。床は? 天井は? 落ちた、いや、やめよう。それよりも、こんなところに入れられてる目的は。景色を見るためのものを、屋内にだなんて。何も無い壁を見たところでどうしようも、ないだろうに。なんで。どう考えても、意味が解らない。
 私は混乱した。考えたところで、納得のいく答えなど見つかりそうにないと解っているのにやめられなかった。理由を探せば探すほど、私は不安になっていった。
 二連の輪っかの間にぶら下がった十二の円いゴンドラ、太い支柱、鈍色の鉄の骨組み。どう見てもオブジェじゃない、本物だ。かといってスクラップのようにも見えない。 
 すくんだまま見上げていた私は、目が暗がりに慣れるころになって、ようやく首の痛みに気がついた。そして、そこに有るのが、観覧車だけではなかったことにも気がついた。しかしそれも、答えになりそうになかった。
 左真横に、階段が付いていた。まるでタラップだ。どこをどう見ても電源は、動力に見えるものは置かれてなかったが、乗り込むに必要な梯子は付いていた。それも天辺のゴンドラに架かった、梯子。それは……すべり台、だろ?
 傍に行けば他にも何か、有るのだろうか。私はバッグを横の丸椅子に下ろすと、遠巻きにそろそろと、梯子に近寄った。特別注意書きも、搭乗を遮る柵も、チェーンも張られていない。足元から見上げる二つの巨大な鉄の塊は、やはりと言うべき異様な様相をたたえていたが、どうにも逃げられる気がしなかった。
 梯子状の階段は、円の真横までは斜めに立っていたが、そこから先は円に沿うスロープように緩やかな弧を描いていた。階段は一番上に止まっているゴンドラの、その上まで続いていた。一番上まで来てみると、観覧車の二本の車輪の間に、ゴンドラをぶら下げるための太い軸が一本、鉄棒のように、目の前に横たわっていた。天井も窓硝子も無いフレームだけの、空に開かれたゴンドラだった。昔のものかもしれない。私は手すりに掴まったまま辺りを見渡した。隅切部分の一番上のそのまた上に、明り取りの円い天窓が有った。淡い光がゴンドラの中を照らしていた。これのおかげで真っ暗闇にならずに済んだのか。鉄棒までは人ひとり乗り込む距離が口を開けている。私は、腹を決めた。
 乗り込むのに、さほど時間はかからなかった。意外な程簡単に滑り込めるものだと感心した。しかし、これからどうしよう。よく考えてみれば、戻る方は簡単ではないかもしれない。余震のことも忘れてた。わずかに震えるゴンドラの中で、まんじりともせずに考える。そっと、座席の木目をなぞってみる。……恐くない。誰も居ないのに、何も無い部屋なのに、ここは暖かい。冷たい筈の鉄の感触さえ、気にならなかった。
 解ってる。理由なんてどうでも、見えるものが壁だけだって。乗ってみたかった、乗りたかったんだ。目の前に有る、観覧車に。
 充足が、肩から力を抜けさせる。一息つくと、私は椅子の並んだ、さっきまで自分が居た場所を見てみようと、ほんの少し身を乗り出した。すると、まるで自らの重みを動力とするかのように、静かに、ゴンドラが動き始めた。
 キイ、と金属の滑る音が鳴る。降ろされたブラインドがかすかに揺れる、そこから光が漏れ入る。壁のわずかな色の変化が見て取れる。ゆっくりと天井が遠ざかる。漆喰の梁が壁に陰影を刻んでる。一つ、また一つと目に映るものが、静かに形を変えていく。扉と同じ色だろう腰板。壁際に置かれた椅子が、こちらを見上げている。置きっぱなしのバッグが。誰か入ってきたら、いや、入ってきて……
 私は扉を見つめた。風が吹いて、灯りが揺れた。見えない時間が回り、やがて、順行のゴンドラは帰途に着いた。
 私はバッグのもとへ帰った。腕に抱えると、丸椅子が目に入った。私の椅子に、よく似てる。円い縁にへこみが見える、けれども脚のひびは見つからなかった。何かが頬を、つたった。
 丸椅子に腰を掛け、私はもう一度、観覧車を仰ぎ見た。鈍色だった空間に、少しずつ色が、甦っていく。霧が晴れてきたのか。満月が天窓の上まで、移動してきたのかもしれないと思った。ずいぶんと長い間、ここに居る気がした。私は光を探し、手首をかざしてみた。
 円いフェイスの中で、短針を上に、針は、「L」の字に停まっている。4の無い文字盤の、窓に覗く「1」の文字。つきたち。陰暦は……
 そうか。それでも、あれは確かに円い虹を抱く白い、月だった。
 見えない月の、見えない光。窓から射し込む、月の光が、天頂に架かって。観覧車の天辺が光を反射し、アーチを描く。
 観覧車は銀色だった。
 しろがねに輝く、まるで……
 扉を開ける音がして、
「白い虹」
 声が、聞こえた。


「環状線の虹」(七)

2011-12-23 06:49:00 | 短編小説(創作)
 いつの間に、日が陰ったのだろう。山手線の窓から見える空は一面薄い雲に覆われている。朝方は晴れていた。白、薄紅、紅と、歩道を囲むように植えられたつつじが今や盛りと眩しかった。神保町で乗り込む時も目黒に降り立った時も、空は普通に明るかった。目黒で乗り込んだ時には……いや、暗かったのは構内だ。
 JR目黒駅は駅ビルの中に有るため地上駅や高架の駅のようにプラットホームが外に開かれていない。線路の両端から射し込むわずかばかりの日射しと、間引きされた照明のホームは薄暗く、曇天の夕暮れ時のようだった。電車が動き出してからも、掘割の壁が光を遮り、トンネルの中を通っているかのような感覚が暫く続いて。そして、開けたと思った先には、まるで逆戻りしたかのような薄暗い、空が広がっていた。
 それでも山手線の窓からは季節が見えた。通勤で使う地下鉄の窓に空は映らない。電源を落としたブラウン管のように自分の姿が映り込むだけで、発着の駅より他の、外の景色の変わりようなど知る由もなかった。
 足場が組まれネットが被せられた低いビル、ガムテープが縫い目のように並んでいる硝子窓、傾いた看板、更地、二階建ての古い木造の家、青々とした葉を茂らせる木々、天井の遥か先に続く高層ビル。眼下の、屋上公園。
 何年ぶりだろう、ここを通るのは。外回りなら渋谷から新宿、池袋から大塚、西日暮里と、何度も利用しているが。内回りは、新橋から上野あたりまでの区間しか、殆ど利用したことが無い。どうして東京に住んでいながら、こんなにも全く通らない駅が、場所が有るものかと思う。見覚えの無い街並は一体何が変わったのか変わらないのか、見るもの全てが新しく思えた。
 それにしても。天気予報は「晴れ」と、言ってなかったか? 車内にも長傘は見当たらないが。気にならないのか? それとも心配する、要がないのか。
 私は傘を持っていなかった。秋葉原に着くまでには上がって欲しい。まだ降ってもいない雨に、そう思わせる程、外は一気に暮れていた。

「……に行きたい」
 子どもが……ぐずってる。
「動物園にはパンダがいるぞ! パンダ見たいだろ、パンダ」
 近づいてくる、遠くから、キュッキュと小さな音が、止まった。濃い紅色が、うっすらと見える。小さなスニーカーが、揺れている。一度固く瞼を絞り、傾いた首を起こす。
 眠ってしまったのか。両隣の席が、乗客の姿が減っている。向かいの座席に、若い、夫婦と思しき男女と、子どもが二人、座ってる。真新しい靴が、ぶらぶら揺れて、隣の、ひとまわり大きな、褪せた薄紅色の、スニーカーは大人しく、揺れる靴の揺れる、膝を上の子が、その手を下の、母親が、振り向い
「おっきな虹だったね」
 虹? 天気雨。硝子に、雨の走った跡が残る。空が、ずいぶんと明るんだ。眠ってしまわなければ、電車からも虹が、見えただろうか。「はじめて、見た」と、下の子が、何度も、何度も、繰り返す。赤と白の、東京タワーは、なんて大きいんだろう。


「環状線の虹」(五・六)

2011-12-21 02:28:14 | 短編小説(創作)
「あー、やっと出たっ! 良かった!」
「こっちもすぐ、かけたんだけど全然繋がらなくってさ、大丈夫だった?」
「全然! 全然!」
「何? え、何?」

 母は、お使いから帰ってきたばかりの時だった、と言っていた。立っていたのですぐには気づかなかったらしく、それも荷物を下ろして頭を上げた、その時に来たものだから、自分が、かと最初思ったらしい。すぐに立ってられない程の揺れになったから、そのまま玄関で下駄箱に掴まった、というか押さえたのだろうけど。とにかく、右に左に振られる凄まじい揺れの中で、靴の箱がバタバタと上から落ちてきたことしか覚えていない。興奮覚めやらぬ勢いで、そう話した。
 電話が繋がったのは退社前の、午後四時半頃だったろうか。四時間以上前に聞いた、同じ話をまた聞かされている。都合二度……三度、繰り返してしまうのも無理はない。「バスで帰る」と連絡が入った父は、まだ帰っておらず。弟は、仕事の関係で今日から家を空けている。今の今まで、同調してくれる、話を聞いてくれる相手が傍に居なかったのだから。
「何か倒れる音がして食器の割れる音が聞こえてたから、揺れが治まってから、恐る恐る見に行ったじゃない。そしたら、冷蔵庫横のスリム棚が向かいの吊り戸棚に突っ伏してるのよ! もう流しの中も外も割れたものだらけで、ほんと、ぞっとしたわ」
「やっぱり上の階の方が揺れるよね。会社は、ここまで酷くなかった」
 台所の端っこに置かれたポリバケツ二杯分の残骸を見てそう言った、私の声のトーンが母の気に障ったらしい。
「あんたは見てないから解らないでしょうけど、ほんっと、大変だったのよ!」
「解ってるって」
 あれからずっと、テレビは休み無くニュースを流し続けている。余りにも大きな被害を目の当たりにしてるから、大したことが無くて良かったと思ってしまうだけだ。
「酷いよね……」
「恐いわよ、恐いわよね。お気の毒に。あ、またっ!」
「やばっ! 家、大丈夫かな」
「もうそろそろ、お父さんも帰ってくるだろうし。いいわよ、あんたもう帰っても」
「じゃあまた。ご飯、サンキュ」
 住まいは御茶ノ水駅に近い駿河台というところに有って、実家とは目と鼻の先で大した距離ではないのだが。一〇キロ歩いてきた足には、この坂は堪える。遠回りでも、明大通りを、選べば良かった。なにせこれは、坂とは名ばかりの、急勾配の、階段なのだから。今頃気がついても後の祭。膝から下がガチガチになった足を引きずって、這々の体で、私は部屋に辿り着いた。上がってきたがらない場所を、わざわざ選んだのだから仕方無い。それに何よりここは、昔よく遊んだ友達の家が、と言っても子供の頃の話でとうにビルになってしまったが、ブランコが置いてあった立派な広い庭の有った、昔からのお気に入りの高台なのだ。
 エレベーターから降りて、息を整える。ゆっくりとノブを回し、ドアをそおっと引いてみる。さっきの、母のようなことも有りうる。薄く拡げた隙間から、中をうかがう。
「空き巣に入られたみたいだった」。先に帰り着いた友人からのメールには、そう書かれていた。そっとうかがっている、自分の後ろ姿が目に浮かんだ。
 廊下から射し入る光で見る限り、取り立てて変わった様子は見られない。大丈夫か。一息ついて、電気を点ける。玄関の明りが奥のリビングに突き当たる。
 さすがに、生まれてこのかた経験したことの無い、あのもの凄い揺れで何事も無くとはいかなかった。
 丸椅子が転がってる。文庫本が散らばっている。鉢が落ちてる。中身がこぼれている。クロスごと振り落とされたのか、間仕切りに置いたキャビネットの上に乗せてあった、植木鉢と、マグが床に投げ出されている。白い陶器の鉢は、土を抱えたまま二つに割れていた。
 ようやく蔓が枝垂れて形になってきたところだったのに。まるで、糸が切れて弾けた、グリンピース。
 一つ、二つ。拾った粒を中に入れようと、傍に転がるマグを拾い上げる。フランスのアンティーク雑器のような雰囲気を持つこのマグは、白い釉から引き上げる際に出来るムラを、そのまま残した塗りの不均一さが魅力で私は買い続けている。
 今度は平気、だったのか? 石膏像のような肌の下に灰茶の地が数ミリ覗く、これは、買って幾日も経たないうちにうっかり縁を欠いてしまい、落胆のあまりに捨てられなかった、如雨露がわりに使っていたものだった。
 そうだ。水が少し、残っていた筈。水は、どこに行った? 
 水は本が吸い上げていた。図録でなかったのが、せめてもの慰めか。刷を重ねている画集なら、また買い直すことも容易だ。わずかに小口が波打つ『DE CHIRICO』を見て、私は溜め息をついた。
 あの秋の、六年前の展覧会の図録の重さには、この三二二ページ、急遽行けなくなった友人の分、合わせて六四四ページの道すがらには閉口した。その厚さ故にフラップには収まらず、ディスプレイ出来なかったのだが。一体何が禍い、幸いするか解らないものだと、引っ張り出した図録を返しながらつくづく思った。
 そういう訳で下ろしていたフラップ扉のおかげで、仕舞ってあった本は無事だった。本は重い。キャビネットがずれないのも道理というものだ。窓際に転がった、丸椅子と見比べながら私は考えた。
 壁を背にして置いてあった椅子は、ずれて有らぬ方を向いていた。その椅子を元通り壁に寄せて、丸椅子を間に戻す。木製の椅子の円い輪郭にかすかな、へこみが出来ている。よくよく見ると、焦げ茶の地に肌色のすじが、脚の付け根にひびが一本入っている。テーブルとして使ってる分には支障ない、もう踏み台の役は担えないけど。定位置に並んだ椅子を見て、かぶりを振った。
 口を開けたダンボールのような座面に、スチールパイプの四本脚。このモスグリーンとダークブラウンの二脚のウレタン製のチェアは、地元の、とあるビルのラウンジに同じものが置かれている。そこに併設されているカフェを利用したのは、この椅子に一目惚れしたためだったのだが。いざ座ってみると、このエッジの効いた外見からは予想出来なかった、しっくりとした座り心地の良さに、いよいよ私は心酔してしまった。そして、何回か通ったのち、その素性を聞き出すにまで至ったのだった。
 業務用とはいえ今はネットで手に入るものも多い。椅子としては、けして安い部類ではなかったが、これだけは、とオーダーを入れてしまった。
 値段にかかわらず、自分にはこだわりの、思い入れの有るものが多過ぎる。椅子も、マグカップも、本も画も、緑も……
 代わりの無い、多くの……
「博多人形が、こなごなに割れちゃって」。そうだ、忘れてた! 人形は? 玄関には何も落ちてなかった筈。
 ガラスケースは引っ掛かっていた。シューズボックスの上段と下段の間のスペースに、いかにも無理矢理押し込まれていた格好の、母が「お土産」とよこした博多人形は、ずれてそっぽを向いていた。倒れてガラスに寄りかかってはいるものの、どこも、欠けた様子は無いようだ。
「念」だな。
 九州なら、他にも何かしら有るだろうに、自分の趣味で同じものをよこすとは。「可愛かったから」と、言い切る母に考えた跡は見られない。かといって突き返す訳にもいかないから、一番差し障りのない玄関に置いてあったのだが、狭過ぎて動きようがなかったとは。何が幸いするか解らない。良かった。
「明後日、持って行くよ」、私は早速電話をかけた。それを聞いて喜ぶ声に、少し胸が痛むのを感じながら。比べようのない、多くを、失った人達のことを思い起こした。

  ◯

「牛乳はデカイの四本も有れば充分だろ。ヨーグルトは適当だから見て」
「重かったでしょ、買い占めるような真似させて悪かったわね」
「別に向こうは普通に売ってるよ」
「おかえり」
「来てた? ほい、明太子」
 よしよし、お前は解ってる。
「サンキュー。次は伊万里、古伊万里だな」
「なの、無理だって!」
 解ってないな。今のは、お前にじゃないんだな。
「親父は?」
「風呂」
「そっか。なんかさ、あまり変わってないよな、この家。『倒れた』って言ったって、別に壊れてないしさ、中身がスッカスッカなだけで」
「何言ってんの! 床一面ガラスの海のままじゃ暮らせないでしょ!」
 床一面? 流しの中と……外。まあ、そうか。
「俺の部屋は大丈夫だったんだろ? やっぱさ、突っ張り棒だよ、突っ張り棒!」
「……。見に行ってごらんなさいな」
「平気だったんだ?」
「……棚は、ね」
「ふーん。あ、なんか、変な声上げてるぞ」

 弟のフィギュアは無事だった。盛大に倒れていたようだから傷の一つや二つは付いたのかもしれないが、それでも母の「思い出」よりはマシだろう。
 それにしても、その博多人形を渡した時の、あの表情は何だろう。電話口では泣きそうなくらいの勢いだったのに、思っていた程嬉しそうじゃなかったような。
 同じ、とは言っても、やはり手元に置いてあったものとは愛着が違うか。人形は、そういうものらしいし。
「同じものを持っていて、見て思い出して欲しかったんじゃないの? 家、出たからさ。解ってないな」
 そういうもの? と、尋ねた私に弟は答えた。その言葉は、もしかしたら、母の代弁だけではなかったのかもしれないが、私は気づかないふりをした。
「人形、で? せめて茶碗とか、実用品にして欲しいな」
「だよな」
 互いに、顔は画面に向けたままで私達は話していた。キッチンに聞こえないよう、にしては、必要以上に小さな声だったかもしれない。掻き消すように、弟が話を継いだ。
「明日行ったら、凄いことになってたりして」
「な訳、会社に人居るんだし」
「そうかな。俺、力仕事には自信有るじゃん。残しといて……ないかな」

 その時は、何を台風が来る前の子供みたいな、変なことを、外で言うなよ、と思ったのだが。それ程考え無しな奴でないのは解っていたから、うるさいことを言うのはよした。その後、七日と、奇しくもひと月後にあたる同じ十一日に起こった、大きな揺れを経験するに至って弟の変なテンションはやんだ。十一日には即座に電話をかけてきた。
「七日の夜のもデカかったけど、今のは、もっと凄かったからさ。大丈夫か?」
「前の程じゃないからね。前の揺れは、もっと凄かった」
「……有りえない」
 一人だけ東京に居なかったことが、妙な空回りの原因だろうとは想像していたが。自分だけが知らないことで、共有する言葉を得られなかったことが、傷になっていたのかもしれないと、後で思った。
 余計なことを言わなくて良かったと、本当に思った。


※脚注。(五)『DE CHIRICO』 デ・キリコ。

※2015.3.11。(六)冒頭三行書き足し。
※2015.4.20。(五)部分改稿。

「環状線の虹」(三・四)

2011-12-19 00:30:07 | 短編小説(創作)
「地下鉄も止まってます」そう言いながら、コンビニの袋を両手に下げて彼女は帰ってきた。中身はカップ麺の五、六個と、おにぎりの七、八個、それに菓子。聞けば、帰宅出来るかどうか怪しいので、取り敢えず買ってきたという。サンドイッチはもう売り切れていて、これも買い占めるみたいで、人目が気になったので、思わずパフォーマンスに領収書を切ってもらおうかと思ったけど、それもまた迷惑なので早々に逃げてきた。というようなことを言っていたと記憶している。
 それから、それらを空のダンボールの中に開け、レシートをセロファンテープで縁に留めて、こう言い放った。「お金は、ここに入れてね」。
 一見おっとりとしてるこの同僚が、実は目前の利く行動的な人間だと判明した一件だった。
 結局、遠距離通勤組の殆どが帰るのを諦めて会社に泊まることになった。例外は家庭持ちだったか。迷った自分は、徒歩で帰るルートをグーグルマップで調べ、from: 目黒、to: 神保町、約一〇キロ、二時間程で帰れそうだったので歩くことにした。他にも数人が同様に調べた結果帰ると決めた。あの日は金曜日だった。明くる日の出社を考えなくて良かった。
 一階に入っているドラッグストアで、ペットボトルのお茶と缶コーヒーの二本に、買ったことの無い天然酵母のパンを一つ。帰る頃には菓子パンも既に売り切れていた。一緒に出た同僚とは駅で別れた。「無印に、スニーカー残ってるかなあ」と言っていた。
 人で溢れかえる駅ビルの中へ入っていった彼女を見送った後、私は背を丸めて歩く帰宅困難者の列に混ざって目黒通りを歩いた。途中、脇に入る道の先に明りが灯っているのを認めて一人列から離れた。
 間口二間有るか無いかの、ビルの、その小さなセレクトショップには、私は今までにも何度か立ち寄っていた。何も買わずにしれっと出てくるには、少々勇気を要するくらい狭い店なのだが。バッグの値段にふんぎりがつかず、店員の視線をよそに眺めては帰るを私は繰り返していた。肩掛けの他、背負いも出来るそのボストンは、洗いをかけた革が柔らかく、焦げ茶の色に使い込んだような風合いがあった。久しぶりに入った店にそれがまだ残っているのを見つけて、私は観念した。

「タグを切ってもらえますか」
「このままお使いになりますか?」
 見覚えのある中年の女性が、にっこりと微笑んだ。
「パフォーマンス」の一言が、頭をよぎる。実際これから二時間の道のりを歩く訳なのだから、手に何も持たずに済めば。ポケットに、手もつっこめる。それはそうなのだが、よりによってこんな日にと、何か気が引けていたのも事実だった。
 そんなこちらの気持ちを知ってか知らずでか、彼女は何か、淡い色のパッケージが入ったかごを、そっとレジ脇に置いて顔を上げた。
「オーガニックコットンタオルのストールなんですよ。お好みの色をどうぞ」
 ビニールの薄い袋の中に収まった、オレンジ、ピンク、ブルー、若草、生成り。私は芥子色を手に取った。
「優しい色合いですね」
「これから、春先から夏にかけてね、明るい色もいいでしょう」
 そう尋ねるように言うと、女性はバッグを保存する為の白い布袋とストールを一緒に包み、タグに鋏を入れた。
 テレビの代わり、か。リュックにペットボトルと手提げを詰め込んで、カードが返ってくるのを待つ間私は考えていた。翌日買う筈だった、変更せざるを得なくなった、翌日の予定のことを。
「ありがとうございます」
 手渡されたカードを収めて、ふと店の奥を見やり、気がついた。
「大丈夫でしたか?」
 視線で察したのだろう、彼女は振り返った。
「ええ、おかげさまで被害はあれだけ」
 店の隅に追いやられてるハンガーの、木を模したその枝の何本かが折れていた。
「ごらんのとおり狭い店でしょ。どうしても棚は薄くなるから、それは初めにくくり付けてもらって、大丈夫だったんですけど。ハンガーは無理よね」
「ハンガーだけですか」
「揺れが東西だったから、かしら。棚の商品は倒れただけでどうにか。もちろん、お客様のバッグは大丈夫、ご安心下さいね。落っこちたのは、ハンガーに掛けてあったトートだけ」
 店先の、出入り口脇まで来て私達は立ち止まった。
「それでここだけ、ぽっかりと空いてたんですね。大変でしたね……」
 私の言葉に大きく頷いて、そして。
「『訳有り』セールを致しますから、またお越し下さいね」
 彼女は、そう付け加えた。
 片付けられた店内。何一つ変わりなく見えたのは、見たいものしか見てないからか。
「後先だった」
 店を出て、通りの列に戻ったところで、私はひとりつぶやいた。

  ◯

「おおっ!」
 年配の男性が声をあげる。洗面所のノブに手をかけていた私と鉢合わせして極り悪そうにしているその人の、脇を軽く会釈してすり抜ける。さっきまで何も置かれてなかったソファーの上に薄手のジャンパーが丸められている。壁に掛かったカレンダーが小さく左右に揺れている。29、30に「休診」の赤い文字が並んでいる。1、2……カレンダーをめくって気がつく。
 さっき言ってたのはもしかしたら? いや、今さら気にしたところで巻き戻せる訳じゃなし、訂正するにも、訂正、するまでもないことだ。私は一つ、長い溜め息をつき、受付の脇を通り抜けた。
「お世話様でした」
「お大事に」
 昼は、どうしようか。混雑する秋葉原で待たされるのも、また面倒だ。私は行きつけのカフェに行き、サンドイッチとカフェラテを頼んだ。
 パンなら構わないだろう、ラテならコーヒーよりは幾分刺激が弱いかな。別に誰に見とがめられる訳でもないのに、何とは無しに思う癖がついている。左の頬は感覚がまだおかしい。もう少し、時間を置こうか。頬を押さえたそのままの格好で、二階の窓辺で肘をつく。昼になって人の出の増えた駅周辺でも、行き交う人の流れは心無しかゆったりとしてるようで。出社する要の無い、土曜の街は普段と違って見える。
『CLOSED』。歯医者からの帰り道の途中に有る、あの店の定休日がいつなのかなど今まで気に留めたことも無かった。
 靖国神社の桜が五輪、六輪開いたと、ニュースに上った頃だったと思う。

「売り上げの一部を被災地への義援金に充てさせていただきます」。そう一言書き添えられた、赤い『SALE』の文字がウィンドーに張られているのを見て、私は思い出した。
 接客中の彼女に、声をかけるのは後回しにして店内を見渡す。小さなワゴンの中に、あの日隅に追いやられていたトートバッグが、「訳有り・半額」と書かれた紙きれと一緒に置かれていた。
「こちらの代金は、全額寄付に回させていただきます」。買い物を済ませた客に話しかける声が聞こえる。
「こんにちは」
「先日は、ありがとうございました」
「『全額』は、これですか?」
「ええ。特別ひどい傷が有る訳でも無いんですけど、ご存知のように『訳有り』でしょ。商品として買っていただくのなら、せめてと思って。それぐらいしか出来ませんものね」
「あの時、もう考えられていたんですか?」
「いえいえ後で。後で、思いついたんです。最初は、ただただ『あーあ』でしたよ」
 彼女は自嘲するかのように、笑ってみせた。
「私も『せめて』に協力させて、ほんの少し、協力させていただこうかな」
「ありがとうございます。……その色、お似合いになりますね」
「ああ、ありがとうございます。重宝してます」
「恐れ入ります」

 結局、バッグを買ったばかりの私は、まだだいぶ先の「母の日」の為にスカーフを一枚と、実は売り物だった、このタオルのストールを二枚買って店を後にした。
 まだ吹く風が冷たい、春浅い日のひとときだった。


「環状線の虹」(二)

2011-12-16 08:25:36 | 短編小説(創作)
「今日は、お車ですか?」
「はい?」
「お休みのところ、こんな朝早くからご足労おかけしまして」
「いえ、変更をお願いしたのはこちらですから」
「すみません。眠くなる成分が入っているので車の運転は駄目なんです。自転車も」
「ああ……」
「お水、浄水器通ってますから」
 促されるまま、歯科医助手から手渡された錠剤を、うがい用に張られた水で飲む。
「どこか、お出掛けになられますか」
 カレンダーをめくっていた医師が振り返る。
「いえ、車では」
「ああ、そうですね。少し、眠気を催すかもしれません」
「ついでですから、秋葉原へ出てみようかと」
「せっかくのお休みなのに、少し、腫れるかもしれませんが。秋葉原、ですか」
「七月二十四日までにはまだ猶予が有りますけど、少し落ち着いた今のうちに行ってこようかと。本当は先月の十二日に、行く予定だったんですけど」
「地デジですか。そう、でしたか」
「換えられましたか?」
「家は。ここはケーブルテレビが入っているので、専用チューナーの交換だけで。壊れはしなかったんですけど」
「そういえば待合室の液晶は傾いただけで……えっ、腫れる? 腫れますか?」
「たぶん。二、三日、後半は、気にならない程度になると」
「痛みは?」
「一応、そちらも出しておきますね。化膿止めは、少し多めに出しておきましょうか。次は連休明けの六日になりますが、大丈夫ですか」
「金曜日ですね」
「はい。一二時一〇分、いつもどおりで」
「大丈夫です」
「お大事に」

 峰や谷、滝に虹、川から海、昼夜そして朝へと続く映像がループしていたテレビは今も電源を落としたままだ。交換したという銀色に光るチューナーは、壁にかけられたその黒い画面の下に置かれている。
「壊れはしなかった」ということは、このスペースから滑り落ちでもしたのか、或いは棚が倒れたか、ケーブルは外れなかったのか。あの日、いつもと同じように治療を終えて会社に戻った自分は、その後のその有様を見ていない。患者さんと一時避難しただの、揺れるアームを押さえただの、ストッカーから洗浄液が落ちて後始末が大変だっただの、ひととおりのことを聞いたのは次の週で。こちらはこちらで、思わずパソコンを抱え込んだとか、電気ポットが落っこちたが、その時給湯室には誰も居なかったとか、揺れの割には大した物損は出なくてとか。そういえば、何とかウォーマーとかいうものが落ちて壊れたと聞いた時、医療器具らしいそれが何なのかどういうものなのか、当然のことながら知らない私は、「でも、テレビは無事だったんですから」と、慰めのつもりだったのだが、おかしな引き合いを出してしまって。今、思い出してみても冷や汗がまた。もう二度と、名前はおろか、話題にすら出来やしないだろう。
 壊れた物と、壊れなかった物。
 人は失ったものに対しては、大層に惜しみ口にする。けれども、「幸い」で片付けられたものは無事だった物に対しては、余程思い入れでも無い限り「無事」以上のことを語ったりはしない。パソコン、テレビに、チューナー。ケーブル。……壊れていないのに交換したということは、あれを機に、ということか。それまでは、いや、何を今さら、いつであろうとそんなこと。なのに、何か大切なことをまた、聞きそびれたような気がして。……ぶら下がる、機械。聞いてもいない記憶を思い出そうと、巡らせる。……転がるブロンズの花瓶と、投げ出された黄色と白のドライフラワーと。銀色の、銀色……
 これは、前は、何色だったろう。同じ、それとも。
 ここに有った、以前もここに同じように、置かれていただろうチューナーのことを、見ていた筈のものを、私は覚えてなかった。