土手猫の手

《Plala Broach からお引っ越し》

「環状線の虹」(二)

2011-12-16 08:25:36 | 短編小説(創作)
「今日は、お車ですか?」
「はい?」
「お休みのところ、こんな朝早くからご足労おかけしまして」
「いえ、変更をお願いしたのはこちらですから」
「すみません。眠くなる成分が入っているので車の運転は駄目なんです。自転車も」
「ああ……」
「お水、浄水器通ってますから」
 促されるまま、歯科医助手から手渡された錠剤を、うがい用に張られた水で飲む。
「どこか、お出掛けになられますか」
 カレンダーをめくっていた医師が振り返る。
「いえ、車では」
「ああ、そうですね。少し、眠気を催すかもしれません」
「ついでですから、秋葉原へ出てみようかと」
「せっかくのお休みなのに、少し、腫れるかもしれませんが。秋葉原、ですか」
「七月二十四日までにはまだ猶予が有りますけど、少し落ち着いた今のうちに行ってこようかと。本当は先月の十二日に、行く予定だったんですけど」
「地デジですか。そう、でしたか」
「換えられましたか?」
「家は。ここはケーブルテレビが入っているので、専用チューナーの交換だけで。壊れはしなかったんですけど」
「そういえば待合室の液晶は傾いただけで……えっ、腫れる? 腫れますか?」
「たぶん。二、三日、後半は、気にならない程度になると」
「痛みは?」
「一応、そちらも出しておきますね。化膿止めは、少し多めに出しておきましょうか。次は連休明けの六日になりますが、大丈夫ですか」
「金曜日ですね」
「はい。一二時一〇分、いつもどおりで」
「大丈夫です」
「お大事に」

 峰や谷、滝に虹、川から海、昼夜そして朝へと続く映像がループしていたテレビは今も電源を落としたままだ。交換したという銀色に光るチューナーは、壁にかけられたその黒い画面の下に置かれている。
「壊れはしなかった」ということは、このスペースから滑り落ちでもしたのか、或いは棚が倒れたか、ケーブルは外れなかったのか。あの日、いつもと同じように治療を終えて会社に戻った自分は、その後のその有様を見ていない。患者さんと一時避難しただの、揺れるアームを押さえただの、ストッカーから洗浄液が落ちて後始末が大変だっただの、ひととおりのことを聞いたのは次の週で。こちらはこちらで、思わずパソコンを抱え込んだとか、電気ポットが落っこちたが、その時給湯室には誰も居なかったとか、揺れの割には大した物損は出なくてとか。そういえば、何とかウォーマーとかいうものが落ちて壊れたと聞いた時、医療器具らしいそれが何なのかどういうものなのか、当然のことながら知らない私は、「でも、テレビは無事だったんですから」と、慰めのつもりだったのだが、おかしな引き合いを出してしまって。今、思い出してみても冷や汗がまた。もう二度と、名前はおろか、話題にすら出来やしないだろう。
 壊れた物と、壊れなかった物。
 人は失ったものに対しては、大層に惜しみ口にする。けれども、「幸い」で片付けられたものは無事だった物に対しては、余程思い入れでも無い限り「無事」以上のことを語ったりはしない。パソコン、テレビに、チューナー。ケーブル。……壊れていないのに交換したということは、あれを機に、ということか。それまでは、いや、何を今さら、いつであろうとそんなこと。なのに、何か大切なことをまた、聞きそびれたような気がして。……ぶら下がる、機械。聞いてもいない記憶を思い出そうと、巡らせる。……転がるブロンズの花瓶と、投げ出された黄色と白のドライフラワーと。銀色の、銀色……
 これは、前は、何色だったろう。同じ、それとも。
 ここに有った、以前もここに同じように、置かれていただろうチューナーのことを、見ていた筈のものを、私は覚えてなかった。