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「家康伊賀越え」考察文に関して、今一度考えてみる

2020-07-29 14:30:07 | 家康伊賀越え
郷土史で奥深く研究され、今なお新たな発見されている御大が、『家康伊賀越え』に関する考察文が発表された。古代から近世にわたるまでの研究は、素晴らしく、何度かお目にかかり、教示をいただいた。しかし、伊賀越えに関しては、今まで全く話がなかっただけに、興味津々の想いで読んだ。結論は、京田辺は通っていないという主張なので、本文を何度も読みながら、自己の考えを整理してみた。御大は、徳川実紀「東照宮御実記」、「雍州府誌」をもとに、地元の口伝から、論理展開をされている。
1.通過ルート(尊延寺、相楽山田村、長尾村八幡山、石原、白江、老中、江の口)が南から北へ逆戻り、土地名に誤字が多すぎる。逃走期間が3日ではなく、6日となる。このルートはない。
2.梅雪家臣の銀鍔強奪が原因で土民が襲い梅雪を殺害したのは、偽りである。土民と戦った梅雪遺骸を村人が手厚く葬るのはおかしい。なお、当考察では、道案内人が梅雪一行の銀鍔を奪い取ったとあるのは、解釈誤り。
3.穴山梅雪が普賢寺郷天王に宿泊した。家康が上方遊覧時に、一休寺を訪問した。これらは、初めて知る話である。
昨年から、伊賀越えについてまた新たな情報・現地調査確認で少しばかり、そのルートを再考察することが必要であるとも思っているが、京田辺は、確実に逃走ルートであることは、間違いない。

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