邪馬台国・奇跡の解法

古代中国の知見と価値観で読む『倭人伝』解読の新境地

●付記3・『後漢書』倭伝の検証

2010-05-18 | 付記3・文献検証始末
 『後漢書』以降に書かれた(倭国との使節外交や文書外交をしていない王朝の)歴史書の伝の末尾を飾る倭伝・倭国伝は、ほとんどが先史を頼りに書かれている。膨大な歴史書編纂にあたっては、伝の末尾まですべてを編纂責任者が手がけるわけではなく、弟子やスタッフに分担を振り分けることなるのだが、編纂を任された担当者の能力によって誤読・誤字・意味違いが頻発している。
 こういう「たとえ」が分かりやすいだろう。極限まで整理されたデザインのドイツ車に似せても、絶対にオリジナルを超えることはできない。なぜならば、それは「似せている」からである。そっくりにならないようにディティールを変えると、それは、極限まで整理されたデザインバランスが崩れて、野暮ったくなるか陳腐になる。
 正史の「前史からの書き写し」にも同様のことがいえる。デキの悪い担当者がディティールをいじって、オリジナルを崩すから意味まで違ってしまう。しかも時代がさがるに連れて、間違えて書かれ先書をさらに間違うといった、いわば「間違いの増幅リレー」をみせる。そんな実例として、『後漢書』倭伝と『梁書』倭伝の滅茶苦茶ぶりを解体して、論考資料として採用するに慎重を期すよう提言する。

 まず、『後漢書』がいったいどのようにして編まれたのかを検証する。
 これまで語られることのなかった意外な事実がみえてくるはずである。

●正史『後漢書』の成立過程
 南朝宋代の430~440年ごろ、宣城太守に左遷された范曄が、魏代を含む歴史家たちが先行して編纂した複数の『後漢書』を資料として整理編纂した。これが正史『後漢書』である。編纂者の范曄は、魏朝が禅譲で引き継いだ後漢代の歴史記録によらず、主に先行して書かれた歴史書を頼りに編纂した。宋書・范曄伝にも、范曄が『後漢書』を編纂した経緯が書いてある。
 「曄を宣城太守に左遷す。志を得ずして、乃ち衆家の後漢書を刪(さん)して、一家の作と為す」。
 ※衆家=多くの歴史家
 ※刪(さん):文章をけずり改める。整理・取捨して選定する。
 『范曄伝』にいう「乃ち衆家の後漢書を刪して」はまさに、「先行する歴史家たちの『後漢書』を整理した」という意味である。ここでは、范曄が後漢代の史官たちの手になる記録文書によらず、先行する『後漢書』を整理してまとめたにすぎないという事実を確認しておきたい。


●正史『後漢書』の編纂実態
 中国全国に配置された無数の史官たちが記録したその王朝の「いま」は、王朝政府の記録文書管轄官庁に集められ、政府の厳重な文書金庫に収められ保管される。これが、滅びる時に禅譲の一環として新しい王朝に継承され、そこで歴史書が編纂される。
 正史編纂の原則手順からいえば、後漢朝の歴史書は禅譲を受けた魏王朝下で編まれ、魏代の歴史書は禅譲を受けた晋王朝下で編まれるはずだった。たしかに、『後漢書』と名のつく歴史書は複数あったが、編纂のタイミングが遅れたためか、魏王朝は「正史を持たない正統王朝」という異質な現象が起きてしまった。晋代になり、晋王朝下で陳寿が魏・呉・蜀三国の歴史書『三国志』を整った紀伝体で編み、これが正史として採用される。(280年ごろ完成)。正史『後漢書』は依然としてないままである。

 南朝宋代になって、(430~440年ごろ)宣城太守に赴任した范曄が、魏代を含む歴史家たちが先行して編纂した複数の『後漢書』を資料として整理編纂した。これが正史『後漢書』である。編纂者の范曄は、魏朝が禅譲で引き継いだ後漢代の歴史記録によらず、主に先行して書かれた歴史書を頼りに編纂した。かくいう理由はこうである。
◆魏朝が禅譲で受けたはずの後漢時代の歴史記録が、どれが正統王朝かも判然としない長い混乱と戦乱をくぐり抜けて、宋朝の文書金庫に継承されていた可能性は極めて少ない。
◆万一の可能性であったとして、儀礼破りの不手際があって宣城太守に左遷された范曄に、政府の金庫から膨大な記録資料を宣城へ持ち出すことが許された可能性はない。なぜならば、彼は『後漢書』を任された立場ではないし、太守という職責があった人物だからである。
◆『宋書』范曄伝によると、彼が郡太守職にあったのは「数年間」とある。『後漢書』編纂に着手してから完成までの期間はさらに短いはずだが、太守職の合い間にやったわりには短期間で完成しているようだから、一層、先行書だけを参考に整理した疑いが濃くなる。
◆范曄の手になるのは本紀と列伝のみで、のちに南朝梁の劉昭が東晋の司馬彪が著した『続漢書』の志の部分を合わせ注を付けた。(現存するのは北宋時代の版本に元づくものである)。
◆誰の目にも明らかなことだが、『後漢書』東夷伝を担当したのは歴史文筆のイロハを習得した人間ではなく、范曄が助手か部下に書かせた節がある。とくに、東夷伝の中でも倭伝は記録内容のデキが悪いが、その主な原因は先行書の誤読に起因している。

 先に、范曄が資料にしたと思われる後漢代を書いた主な先行歴史書を提示したが、謝承の『後漢書』が東夷について少し触れていただけで、華キョウの『後漢書』、謝沈の『後漢書』、袁山松の『後漢書』 、司馬彪の『続漢書』、薛瑩の『後漢記』のいずれも東夷伝はなかった。このことは、後漢朝が東夷諸国に関する詳しい資料も情報も握っていなかった証拠であり、正史『後漢書』の東夷諸国の記録が『三国志』 東夷伝からの転用であることが鮮明になる。


●『後漢書』倭伝独自の記録について
 倭国に関する記録が見られるのは『後漢記』校注の光武帝紀と安帝紀で、これは正史『後漢書』の帝紀と共通する。この情報は、帝紀に記録する資料として朝貢受け入れ管轄部署の記録にあったものと思われる。
◆光武帝紀「建武中元2年春正月丁丑、倭奴国王遣使奉献」『後漢記』校注
 (建武中元2年春正月、東夷倭奴国王遣使奉献)『後漢書』帝紀
◆安帝紀「永初元年10月、倭国遣使奉献」『後漢記』校注
 (永初元年冬10月、倭国遣使奉献)『後漢書』帝紀

 この57年の倭奴国王の朝賀と107年の倭国王帥升の朝献記録は、『後漢書』倭伝独自の記録としていわれる。これは、『倭人伝』から引いた記録ではないという意味での『後漢書』倭伝独自の記録である。決して『後漢書』倭伝担当者が独自の記録資料から引いて記録したというのではない。
 この記録もまた、先行するいずれかの『後漢書』から引いたものと私はみている。数多の正史がそうであるように、藩外の異民族の朝貢は化外慕礼として帝紀に記録される。これらの資料は当然ながら朝貢窓口官庁が聞き取り調査結果などを含めて記録したもので、帝紀の資料として保管されていたものと思われる。
 すなわち、朝貢窓口官庁が記録した57年の倭奴国王の朝賀と107年の倭国王帥升の朝献記録は、これらの先行書に書かれていて、正史『後漢書』がそれを帝紀と倭伝に振り分けて書いたにすぎないと私はみている。范曄の他の正史の編み方とは異質ともいえる『後漢書』編纂の状況からみて、彼が歴史記録原本をみてゼロから組み立てた可能性は皆無に近いといえる。「少人数かつ片手間にやれる程度の作業実態」は推して知るべしである。
 有名無実だった後漢末期に卑弥呼が朝献した史実はないし、後漢朝が卑弥呼を倭王と承認した事実もない。なのに、なぜ卑弥呼のことを知ることになったのか。このことを考えれば、すべてが一つに集約することになる。歴史書としての原則論からいえば、『後漢書』に東夷伝という伝があってはならなかった。というのも、魏代の歴史記録(に基づく歴史)を『後漢書』東夷伝に書いたことは、魏代の歴史を後漢代の歴史として書いた理屈になるからである。これは厳しくいえば、レッドカードもののルール破りである。どうしても掲載したければ「『三国志』にいう」ということわりを入れるべきだったのである。


●『後漢書』東夷伝序文の誤読
 『後漢書』東夷伝は、倭伝だけではなく東夷伝の序文から誤字・誤読・無知ぶりを露呈しているが、一事が万事この調子であることがお分かりいただけるはずである。
◆『三国志』東夷伝序文
 雖夷狄之邦而俎豆之象存。中国失礼求之四夷猶信。
 「夷狄の邦(くに)といえど俎豆の象(かたち)が存す。
 中国が礼を失えばこれを四夷に求めるを猶(なお)信ず」。
◆『後漢書』東夷伝序文
 憙飲酒歌舞、或冠弁衣錦、器用俎豆。所謂中国失礼、求之四夷者也。
 「飲酒歌舞を憙(この)む、或は弁を冠り錦を衣(き)る、俎豆を器に用いる。
 いわゆる中国が礼を失なえばこれを四夷に求めるという者なり」。

 俎豆とは天子が天地神を祀る祭祀儀礼様式をいう代名詞のようなもので、『三国志』東夷伝序文は、倭国には中国にならった国家経営様式があったことを述べている。ところが『後漢書』東夷伝序文は俎豆を「食器」と誤解している。したがって、そのあとに続くと「いわゆる中国が礼を失なえばこれを四夷に求めるという者なり」との脈絡がなく、まったく意味不意の文章になっている。しかも、「いわゆる中国が礼を失なえばこれを四夷に求めるという者なり」とは、『三国志』東夷伝序文が述べたことを指しており、ここでも『三国志』東夷伝序文からの転載であることを露呈している。


●「楽浪郡の徼(国境)は、その国を去ること万2000里」
 『後漢書』倭伝書きだしの「倭は韓の東南の大海の中にあり……」は、『倭人伝』のいう「帯方の東南の……」を韓に置き換えただけである。「楽浪郡の徼(境界)は、その国を去ること万2000里」も同じく、『倭人伝』のいう「帯方郡から万2000里」を、楽浪郡の境界からの距離に置き換えている。この記録は、朝鮮半島に帯方郡が存在しなかった時代のことにしたかったのだろうが、『倭人伝』のいう帯方郡から万2000余里を単に楽浪郡の境界にしたところにも詐術がのぞく。
 それでいて、240年以降に列島の倭を訪れた魏の役人の記録を倭伝に網羅して、いかにも後漢朝が把握していたかのように書いている。現実に、「東夷調査をしたのは魏朝がはじめてである」と、『三国志』魏志の東夷伝序文がうたっているのである。そもそも、後漢朝が混乱の末期に東夷調査をした事実がないのは明白なのに、これでは歴史ねつ造に近い造作である。
 そうした造作ぶりを、「万2000里」という記録も証明している。なぜならば、列島へ公式に往来した事実のない後漢朝の人間が、列島までの距離を知るはずはない。むろん、この時期は「里程を知らない」はずだった倭人から、楽浪郡の国境と列島間の里程を聞き取れるはずもないのである。


誤読による意味違い
 次の幾つかは、すでに述べたきた部分と重複するので結論だけを再掲する。
◆「武帝の朝鮮を滅ぼしてより、使驛して漢に通ずる者30国ばかり」。
 前漢の武帝が朝鮮を滅ぼして4郡を置いたのは、紀元前108年である。『後漢書』倭伝にかかれば、紀元前108年ごろから列島倭国の30カ国ばかりが前漢朝と交流していたことになる。
 献見とは、官庁窓口に貢献物を差し出す程度の意味ではなく、皇帝に接見する朝献・朝見の意味である。前漢朝の都は洛陽のさらに奥の長安だった。紀元前の弥生倭人が年季ごとに長安まで使者を送って、歴代の皇帝に朝献・朝見した事実はない。
 『倭人伝』は「使譯(訳)して通じる所30国」だった。ところが『後漢書』は、「使驛(駅)して漢に通じる者30国」になっている。3世紀にすら牛馬のいなかった倭地の倭人が、駅伝馬を乗り継いで西安のまで朝献したという。
◆「楽浪海中に倭人あり」
 『後漢書』倭伝が「武帝の朝鮮を滅ぼしてより」と誤解したのは、まさに『漢書』地理志・燕地の条のこの記録だろう。
 「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす。歳時をもって来たり献見すという」。
 中国中央研究院の『後漢書』校勘は、『後漢書』倭伝の「使驛」についてはこう指摘している。「驛まさに譯に作る」。「按:魏志は譯に作る」。つまり、驛は譯の間違いだと断定している。譯と驛、字体がそっくりで意味の異なる一字の違いで、かくも歴史のシチュエーシンが違うという典型例である。
◆「おおよそ会計東冶の東にあり」
 『倭人伝』のいう「「その道里を計るに会計東冶の東にあり」は、厳密な地理情報をいう説明記録ではない。倭人の文身の習俗に関する文章で、文身のルーツが越(会稽東冶)地域にあるのではないか」という編纂担当者の所感を述べたものである。「其の道里を計るに」の「計る」は実際に測定したというのではなく、編纂担当者の机上所感であることを物語っている。
 ところが、『後漢書』倭伝はこれを誤読して、「倭は韓東南の大海の中にあり」としておきながら、「おおよそ会計東冶の東にあり」とする。倭地は、韓東南の大海から長江河口付近まで延びていたことにしてしまうのである。
◆「朱崖・儋耳と相近く、ゆえに法俗も多くは同じ」
 これは『倭人伝』が、風俗(性癖)、服装、倭人の装い、産物、動物、武器・武具など、「ある物とない物を比較すると、儋耳・朱崖(海南島)と同じ」と述べた文章が元になっている。
 『後漢書』倭伝は、倭人の文身のルーツに触れた「会稽東冶の東」と、この文章を一つにまとめていわく。「倭の地はおおよそ会稽東冶の東にあって、朱崖・儋耳と相近く、そのために法俗も多くは同じ」。
 『倭人伝』は、「ある物とない物を比較すると、儋耳・朱崖と同じ」と書いた。これを『後漢書』倭伝は、距離的に近いと拡大解釈をしている。『倭人伝』の誤読による間違った記録の典型である。

●卑弥呼が女王になった時の様子
 卑弥呼が女王になった時の様子ついて、同じ歴史的経緯を説明した『三国志』倭人伝と『後漢書』倭伝には決定的な違いがある。
◆『三国志』倭人伝
 「その国、本また男子をもって王となす。
 とどまるところ7~80年。倭国乱れ、相攻伐して年を歴る。
 乃ち一女子を共立して王となす。
 名を卑弥呼という。
 鬼道能く事として衆を惑わす。
 年已に長けて大も、夫婿なし」。
 ……長い紛争に困り果てた有力者たちの協議によって、一人の女子を王として共立した。その女性の名を卑弥呼という。彼女は鬼道に堪能で、そのことによって民衆を魅了していた。(そうして、中国の役人が倭の地を訪問したころには)、卑弥呼は成人して久しかった(高齢だった)が、夫はいなかった。
 ……卑弥呼が女王になった時点では、彼女は「一女子」だった。そうした過去形説明と「年已に長大」になっていた現在形説明の間には、文章によって時間差がみてとれる。

◆『後漢書』倭伝
 「桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐し、主なくして年を歴る。
 一女子あり。名を卑弥呼という。
 年の長けて嫁がず。鬼神道能く事とし、妖やしきをもって衆を惑わす。
 これを共立して王とてなす」。
 ……お分かりだろうか。年増で旦那もいない鬼神道をやる「一女子」が、王として共立されたという。2世紀末ごろ女王になった卑弥呼は、その時点で「女子」どころか「おばさん」である。『三国志』倭人伝とは明らかに文節を入れかえている。これによると、卑弥呼おばあさんは、48年後に100歳ぐらいで死亡したことになる。 


●「倭国乱れ相攻伐して年を歴る」
 この部分がどう文章伝世されたのかを見てみよう。
◆『三国志』倭人伝「其国本亦以男子為王、住七八十年。倭国乱相攻伐歴年」
 「男王たちが7~80年在位したあと、倭国が乱れて相攻伐して年を歴た」としている。倭人国家が「倭国」と呼ばれるのは107年の帥升からである。そこから7~80年といえば、177年から187年までの幅がある。これを中国皇帝の年号にすると霊帝の後半にあたる。
◆『後漢書』倭伝「桓霊間倭国大乱、更相攻伐 歴年無主」
 177年から187年は霊帝の後半にあたり、桓帝の時代は167年で終わっている。「桓霊の間」はいい加減だし期間がアバウトすぎる。
◆『晋書』倭人伝「漢末倭人乱攻伐不定」。
 『三国志』倭人伝を引いて「漢末」に置き換えている。
◆『梁書』諸夷伝「漢霊帝光和中、倭国乱相攻伐歴年」。
 『三国志』倭人伝のいうところを皇帝年号に照らして、霊帝の光和中としたようである。光和の年号が使われたのは178年から184年までで、まさに倭人伝のいう177年から187年の間に入る。
◆『隋書』倭国伝「桓霊之間其国大乱、遞相攻伐歴年無主」
 ほぼ『後漢書』倭伝の写しになっている。

 あえてくり返す。
 『後漢書』東夷伝の中でもとくに『倭伝』はデキが悪く、范曄が手がけたと思われる本紀や主要な列伝とは雲泥の差がある。『後漢書』東夷伝を担当したのは歴史文筆の基本を習熟した人間ではなく、范曄が助手か部下に書かせた節がある。そのデキの悪さからは范曄が校閲した形跡はうかがえないし(その余裕もなかったと思われる)、『後漢書』東夷伝の記録の中で『三国志』東夷伝との文字違い・意味違い・異同などは、すべて『後漢書』東夷伝の間違いと断定できる。そんな『後漢書』東夷伝の「間違いの部分」を無批判に正しいとの前提で語ったとしても、私はいかほどの説得力も感じないものである。

 ずいぶん以前のことだが、ある出版関係者から「『倭人伝』は色んな解釈ができる」という言葉を聞いたことがある。「色んな解釈ができる」とは、「どんな解釈でもできる」という方便の言い換えでしかない。だが少なくとも『倭人伝』は、たった一つの意味で書いている。
 自論や自分の解釈に有利な記録はないかと文献漁りをして、二流や異聞とされる文献に飛びつき、文献そのものの信憑性や記録の正否検証もそこそこに、部分的な記録を取りあげて論証や反論に活用する生き方もある。だが、そうした手法による作品を確かな歴史として受容する社会は、もはやないと確信するものである。



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