邪馬台国・奇跡の解法

古代中国の知見と価値観で読む『倭人伝』解読の新境地

●中国人のいう倭と倭人

2012-05-28 | ●『倭人伝』を読むための基礎情報
●倭人の定義

 倭人については姉妹編の『倭人の来た道』で詳しく論証しているが、私は縄文後期から継続的に長江流域から渡来した非漢多系民族がその主流を占めていたとみている。ここではそれとは別に、そもそも中国人のいう倭・倭人とは何だったのかを確認するために、これらに関する文献記録を中心に、時代とともに倭と倭人の定義が変化した経緯を確認する。

 「漢語としての倭人は、背が低く、猫背で、かがみ腰の人を意味する。そもそも中原人のいう倭人とは、朝鮮半島沿岸部から渤海湾、黄海に至る沿海地区、さらには東シナ海に至る広大な海域にまで居住範囲が及ぶ、水辺の生活文化をもつ集団を指していた。『史記』李斯伝によれば、倭人は浙江省から西は広東・広西、雲南、越南におよぶ広汎な海域に居住しており、種族の多種多様さから百越とも呼ばれるに至っている。
 彼らは海原や海に注ぐ河川流域に住み、漁労もしくは水田稲作農耕を営み、米と魚を主食としていた。漁労に従事するので、サメやワニなどの危害を避けるために頭髪を短く切り体に刺青をする。海にもぐり水田で田植えや草取りをするので、裸や裸足になることが多く、しばしばしゃがみ腰で作業をする。日常生活では、交通の手段として欠かせない船をあやつるのに体を柔軟に屈折させる。同じく屋舎内でもあぐらをかくなど膝や脚を曲げて坐る」。(『馬の文化と船の文化』福永光司/人文書院から抜粋)
 厳密に細分すれば複数の民族がいたのだろうが、こうした水人たちが広義の倭人であり、長江河口を含む東シナ海沿岸部から朝鮮半島北部の沿岸地域まで広範囲に居住し、漁労と水田耕作を営んでいた。こうした水人たちの棲息する広域の沿岸地域が「倭」とよばれていたのである。
 
 中国書物に「倭」という文字が登場する最古のものは『山海経』である。(『隋書』倭国伝が使っている倭の異字体と同じものが『史記』にも登場するが、これは人名である)。
 『山海経』は周王朝時代後半の戦国時代に書き始められ、秦・漢代にかけて段階的に加筆されて成立した中国最古の地理書とされる。中国では玄幻的書き物として奇書扱いされており、多くは史実を反映したものとはみなされていない。そうおことわりした上で、『山海経』に見える一文について言及する。
 蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。
 燕は戦国の七雄といわれた大国の一つで、その版図も東は漁陽から、遼西・遼東、西は上谷、代郡、雁門、南は、容城、范陽、北は新城、故安、良郷、新昌から渤海におよび、楽浪・玄菟郡の領域まで燕に属していたとされている。
 ここに登場する倭は、まだまだ日本列島のことを把握していなかった時代のことであり、燕の版図にある勃海沿岸から遼東半島・朝鮮半島沿岸の、(中原人のいう広義の)倭人の居住身領域を指すと判断しなければならない。つまり、日本列島の倭とはまったく無関係の記録である。

 さて、水人に共通するのが「裸足・断髪・文身(刺青)」である。
 雲南省西南部には、左衽(左前の襟合わせ)・裸足・断髪・文身の習俗をもつ少数民族がいるが、こうした南方民族のことと思われる記録が後漢代に成立した『論衡』にみえる。
 周の時、越掌、白雉を献じ、倭人、□草を貢す。
 成王の時、越掌、雉を献じ、倭人、暢草を貢す。

 周の成王は紀元前1100年ごろの人物である。この時期の列島は縄文時代にあたるから、時代的にもここでいう倭人は、やはり原義に近い人種(南方沿海の倭人)ではなかったと思われる。越掌はベトナムあたりを指し、白雉は白いキジ、□草は祭祀薬草(一説によるとマンネンタケ)のことをいう。暢草も芳香性の祭祀薬草である。


●中国が列島の倭人を公式に認識するのは1世紀
 中国歴史書のいう倭人が、列島人を指すようになった時期を考える際に、申し合わせたように引き合いに出されるのが、『漢書』地理志・燕地の条のこの「部分」である。
 「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす。歳時をもって来たり献見すという」。
 これについては、文章全体を見わたせば、文章の性格と意味とを正しくを読むことができる。
 「玄菟、楽浪は武帝の時に置く。朝鮮、濊貉、句麗はみな蛮夷である。殷の道おとろえ箕子去り、朝鮮に之き、その民に、以って礼義・田蚕・織作を教える。(中略……かくして、このように教化されて変わった)。
 貴むべきかな仁賢の化、然して東夷は天性柔順、三方(南西北)の外(の夷狄)に異なる。ゆえに孔子は道の行なわれぬを悼み、(筏を設けて)海に浮び九夷に居らんと欲す。(その故)以ってあるなり。それ楽浪海中に倭人あり、分れて百余国をなし、歳時をもって来たり献見すという」。
 これは、春秋時代の乱世を嘆いた孔子が殷末における箕子による朝鮮教化を引いて、「いっそ天性柔順な東夷へでも行こうか」と漏らした逸話が柱になっている。
 前漢代の中国人の感覚では、陸地の終りは朝鮮半島で、ここが彼らのいう東夷だった。楽浪郡は現在でいうところの自由経済特区的な側面があり、東北アジア諸民族、朝鮮半島の韓人、列島の倭人たちはみな、楽浪郡を通じて中原の先進文化を入手してきた。したがって、前漢代において楽浪郡へ交易しにいく倭人の船が浮かんでいただろうことは推測できる。これは民間レベルの交易だが、いつもいつも楽浪市中で交易するのに、郡役所に付けとどけぐらいはしたことだろう。そうしたことをとりあげて、王朝の威光を示すために『漢書』で「歳時を以って来たり献見すという」というほどに、中国王朝人もまた姑息ではなかったろう。

 この件については、私は次のような見方をしている。
 秦代を記録した『史記』は、東海の彼方のことを伝承・伝説としてしかとらえていなかった。また、『漢書』郊祀志をみても、歴代の皇帝が始皇帝を真似て蓬莱、方丈、瀛洲の神仙探しをさせている。これは、前漢朝が伝説の東海の島(日本列島)の存在を確認していなかった証拠である。この時代の中国人に、大海の中の列島倭人の存在を把握できていなかった事実と、「献見すという」との表現が伝聞であるところからも、列島の倭人を公式に確認していた様子はない。そこから後漢代に至るまで、中国人の感覚では朝鮮半島が東夷だった。そのようなわけで、歴史的にも前漢代の中国人が列島倭人の情報を把握していた可能性はない。
 百歩譲って、この「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす。歳時をもって来たり献見すという」が前漢代のことを述べているとすれば、実は大きな不条理が浮き彫りになる。
 まず献見とは、楽浪郡の行政窓口に貢献物を差し出す程度の意味ではなく、皇帝に接見する朝献・朝見の意味である。ところが、前漢朝の都は洛陽のさらに奥の長安だった。紀元前の弥生中ばの列島倭人が、年季ごとに長安まで使者を送って歴代の皇帝に朝献・朝見することは、時代の成熟度からみて不可能だったはずである。
 万歩譲って、倭人が年季ごとに前漢の皇帝に朝献・朝見したとすれば、「地理志・燕地の条」という場違いの条項にではなく、歴代の正史がそうであるように、朝貢窓口部署が使者から聞きとって記録した資料に基づいて、藩外の異民族が天子を奉る化外慕礼として『漢書』帝紀に記録されたはずである。そうするのが、(むろん例外はあるが)歴史書記録の定番である。だが、そうした記録も一切ない。

 文章をつぶさに見ると分かるのだが、「それ楽浪海中に倭人あり」以降は前段の文章とは異質で、朝鮮半島を東夷としていた時代の話のはずが、唐突にも東夷を「倭人」へ飛躍させている。そもそも文章の性格からして、「(その故)有以也!」は明らかに編纂担当者の感嘆文であり、これ以降の文章は編纂担当者の所感であることがわかる。
 しかも、朝鮮半島沿岸域にいた倭人のことではない証拠に、後漢代になって明らかになる「別れて百余国」という列島の情報を書いている。これに続けて、「歳時をもって来たり献見すという」という伝聞を挟むのだが、こうした芸当ができるのは、西暦57年の倭奴国の朝献の事実と、そこで得られた情報を知っていた人間にほかならない。
 倭人の島の存在が情報として得られるのは、57年の倭奴国の朝献以降のことになる。『漢書』が書かれたのが倭奴国の朝賀から30年ほどのちのことであることと、「分かれて百余国をなす。歳時をもって来たり献見すという」が後漢代に得られた情報であることから、「(その故)有以也!」以降の文章は、後漢代に『漢書』地理志を編んだ編纂担当者の所感とみるべきである。
 
 ということで、『山海経』『論衡』『漢書』地理志にみられる「倭」と「倭人」については、日本列島の倭と倭人とは無関係であることを強調して、共通認識としておきたい。とくに、『漢書』地理志の「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす。歳時をもって来たり献見すという」を付和雷同的に持ち出す論説には、惑わされないようにしたい。


●『後漢書』鮮卑伝の倭人
 もう一つ。『三国志』よりものちに成立した正史『後漢書』鮮卑伝が、おかしなところで「倭人」という単語を使っている。これを論拠に「後漢代に倭人が登場する」というマイナー論もある。
 「光和元年冬、(鮮卑族は遼西に続いて)また酒泉を侵略した。 その領土は莫く毒(敵の害)を被らず。鮮卑族の人口も多くなり、田畜射猟(農耕・牧畜・狩猟)では食料供給量が不足した。鮮卑の大人(首長)の檀石槐は自ら良い土地を求めて回り、 烏侯秦水(遼河上流)を見るところまでやってきた。その川は広く数百里にわたり、水は停っているかのようにゆったりと流れていた。川の中に魚がいるのだが、彼らにはこれを捕ることができない。 倭人が網を使って捕ることがうまいと聞いて、東の倭人国を攻撃して1000余家を捕え、秦水の上に徙(うつ)して魚を捕るよう命じて食糧不足を補った」。

 『三国志』鮮卑伝では汗人となっているところを、『後漢書』鮮卑伝は「倭人」としている。これもまた、『後漢書』倭伝担当者の余計な憶測による操作だろう。この汗人を、視覚的に似ている汙人(汚人)とする向きもあるようだが、中央研究院の漢籍文献はきさっちり「汗人」としている。確かに、汙人(汚人)という記録が、古くは『漢書』五行志に一度だけ登場する。
 「一曰、有脂物而夜為妖、若脂水夜汙人衣淫之象也」
 これは人種や民族のことではなく、単に「汚れた人」という用法のようである。

 さて。鮮卑は長城の北方にあって、かつての匈奴の領地をすべて領有し、その版図も五原から東は遼水にまで達していた。遼河上流部の支流は、現在の吉林省から黒竜江省に達する。この黒竜江省には、土着のツングース系少数民族の赫哲(ホジョン)族がいる。彼らは、松花江、ウスリー江、黒竜江(アムール川)などでサケ類、マス類、チョウザメを捕って暮らしていた、河川における漁業技術にすぐれた民族である。
 『三国志』鮮卑伝のいう汗人とは、話の舞台が遼河上流の烏侯秦水であること。河川漁業が巧みな民族の存在が鮮卑族の耳に伝わる距離範囲にいること。大平原の遊牧騎馬民族たる鮮卑族が(見たこともなかっただろう海洋船ではなく)得意の騎馬で出かけていって、捕虜を連れてくる距離範囲にいること。こうしたことを勘案すると、赫哲族のような河川漁業が巧みな内陸部の少数民族を指していると考えるのが妥当なところだろう。


王莽伝からの無理引用
 『後漢書』鮮卑伝の「倭人」と同じくマイナー部類に入るのだが、『漢書』王莽伝に登場する「東夷の王」を倭人国家の王とする言説が稀にみられる。(以下は『漢書』王莽伝より抜粋)。

 「莽既致太平。北化匈奴、東致海外、南懷黃支。唯西方未有加。乃遣中郎将平憲等、多持金幣誘塞外羌、使献地願内属」。
 王莽、既に天下太平を致す。北は匈奴を教科し、東は海外を(教科を)致し、南は黃支を懷(なつ)かせる。ただ、西方に未だ加せずあり。すなわち中郎将の平憲等を遣わし、金幣を多く持して塞外の羌を誘う。(羌の)使、土地(領土)を献じて内属を願う。……

 「莽復奏曰:「太后秉統数年、恩沢洋溢、和気四塞、絶域殊俗、靡不慕義。越裳氏重訳献白雉、黃支自三万里貢生犀、東夷王度大海奉国珍、匈奴單于順制作………」
 王莽また奏じて曰く:「太后は秉統(へいとう=統べ束ねる)して数年、恩沢は洋に溢れ、和気は四塞(に及び)、絶域の殊俗(異民族)は慕義せず靡(び=服従)す。越裳氏は訳を重ねて白雉を献じ、黃支は三万里(の彼方)より生犀を貢し、東夷の王は大海を度って国の珍(珍物)を奉り、匈奴の單于は(中国の)制作(制度・文物)に順(従う・倣う)す。………

 「東夷の王は大海を度って国の珍(珍物)を奉り」とは、漢末・平帝の元始5年に、王莽が天下太平を実現して、いかにも中国人らしく大ぎょうに太后に奏上した文言である。そう。これが歴史記録文ではなく、当事者の口頭発言であるところが重要である。王莽が「東夷の王は大海を度って国の珍を奉り」としたのは、中国人ならではの虚飾発言と判断すべきだろう。しかも、これが虚飾である証拠に「この部分だけ」国名が曖昧である。王莽が大ぎょうに述べているだけで具体性がないという証拠である。
・この時代の中国人のいう東夷とは朝鮮半島止まりであること。
・この時代の中国人のいう大海とは渤海であること。(楽浪海が小海)
・前漢朝に対して列島の倭人が接触した事実はないこと。
・王莽が接触した東夷の異民族とは高句麗が主であること。
 倭人が朝貢していれば年月入りで帝紀に記録されそうなものだが、『漢書』帝紀にそうした記録はない。これらの事実から、王莽のいう「東夷の王」が朝貢したと譲っても、高句麗あたりを指しているものと判断しなければならない。

 王莽時代の貨幣が日本列島でチラホラ出るかことから、倭人は新と交易していたとする単純直結する向きもあるが、現場の実態はそうではあるまい。貨幣の意味も価値も知らなかった時代の倭人のことである、国家規模で貨幣を輸入した形跡がなければただの流通品でしかない。王莽政権滅亡以降に貨幣価値をなくしたものが、ただの「銅製の珍品」として民間交易で出回ったのではないか。少なくとも貨幣として流通した量ではないとみた。




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